政治における信仰の意味
幸福実現党は 2009年立党しました。
2009年に全国の選挙区400を越える地域に候補者を立てたものの惨敗。
供託金は11億円にものぼったということでした。
母体である幸福の科学の方もダメージを受けて支部の宗教活動が一時低下したと言われています。
なぜ 宗教が政治活動するのかという点で
多くの法話も説かれていますが、それを咀嚼して自分のものにするには 私は 時間がかかっています。
他人に自分の言葉で語れていないからです。
政策としては国防の大切さと消費税ゼロを訴えていたものは 15年を過ぎた今
いまではそれは当たり前になっています。
国防の訴えも(増税の理由に使われていますが)与党においては 防衛費を増やさなければというのは当然になり 一定の理解が広まっています。
減税については野党一部や
国民が声をあげはじめました。
しかし、当初あった
日本国民を増やそう
3億人国家を目指そう
という人口増加のための政策を
与党は換骨奪胎した形での歪な移民政策として使っています。
一方
幸福実現党が言わなかったこと
〇〇を無償化しますとか
〇〇の給付金を配りますとか
福祉を充実しますなどという、
国民がお得だと感じる、
すぐ目に見える形の政策は何も出さなかった。
夫は そういうところで票が取れなかったのだ
と言いました。
宗教色が強いから、霊言がでているカルトだからといった 批判も目にしていましたが、本当のところはどうなのだろうかと考え続けていました。
2019年の幸福実現党立党10周年の支援のための講演で大川隆法総裁が
「自由・民主・信仰の世界」について法話去れた内容を 読み返していますが、
信仰と政治について もう一度振り返って考えてみたいと思うのです。
宗教がなぜ政治に乗り出す必要があるのでしょうか、
宗教が政治に乗り出そうとするときに警戒心が持たれてしまうのはなぜでしょうか。
宗教が持つ独善性や排他性のなかにも問題があると思うのです。
また、
教えが説かれた時点の情勢と世界の現状のただいまが変化しているのに アップデートできない思考の硬直性があるのかもしれません。
これは 今、政権与党にいる公明党が
覇権主義や 侵略性を帯びた中国に体して
宥和的である理由のひとつに
政治としての使命(国民の財産と安全、領土を護る)よりも
母体の創価学会の三代目会長の宗教指導者の言葉としての「日中友好」という宗教的信条を重要視しているようにも見えることからもうかがえます。
日中友好や日中国交回復が誇らしげに語られた時代は 中国の経済規模も小さく、日本が大きな力を持っていた時代だったのです。中国からの軍事的脅威などは その当時は日本人は考えていなかったと思うのです。
現実が変わってきてあることが見えていない。現状認識が遅れているというところでしょう。
宗教が待つ普遍性の部分と
時代に応じて変えてゆかねばならないところが
その組織に属する人たちのなかで
区別できないまま
変化している社会の現状に即応しきれず
政治活動がされてしまうところに
問題が起きているといのだという気もします。e
それ以外にも
日本は悪い国だとする宗教が
政治に介入していたことなども
国民が宗教が政治に進出することを
拒む要因になっていると思います。
今までの現状を見る限りにおいて
宗教政党が政治の場に
特定の位置を占めることが
果たして国民の幸福に繋がるのだろうか。
ただ宗教団体の教勢の拡大に
繋げようとする意図があるだけではないのかという 疑念が湧くのはもっともだろうと思うのです。
そのなかで あえて宗教が政治にとって大切だと言える根拠はどこにあるのでしょうか。
それを振り返って考えてみたいと思うのです。
自由・民主・信仰の世界で
大川隆法総裁は 人を幸福にする政治理念として
自由
民主
信仰の3つについて説かれていましたが
その信仰についての部分からです。
フランスの歴史学者であり、自由主義思想家であったトクヴィルの言葉を例に解説されています。
トクヴィルは1800年代前半にアメリカに行きアメリカの民主主義を研究した政治家でもあった思想家です。
トクヴィルは「自由ということを考えたとき、宗教があまり力を持っていると『自由を侵す心配がある』と人々は考えがちだ。しかしながら、アメリカに来てみると『そうではない』と考えられる」ということを言っているのです。
それは いったいどういうことでしょうか。
例えば、イスラム教のような宗教が広がった場合、イスラム教で一国を全部、統治してしまったら、それ以外の宗教は信じることができないようになりがちです。したがって、そういう意味での「国民の自由」がなくなるように見えるところはあります。
この世的な幸福追及ばかりだと唯物論に傾いていく
ところが、トクヴィルは「民主主義は気をつけないと、この世的な幸福ばかりを追い続ける傾向があるので、ともすれば唯物論に傾いていく傾向がある。これはとても危険だ」と言っているのです。
「民主主義が唯物論のほうに走っていく」というのは要するに「みな、飲み食い、住居、その他そういったことばかりに中心的な関心が出るので、これはとても危険だ」ということです。
したがって「唯物論」に走られるくらいなら、むしろ唯心論のほうがいい」とトクヴィルは言っています。唯心論というのは「心しかない」という世界です。極端ですが「むしろ唯心論のほうがいい。その意味で宗教心というのは非常に大事だ」ということを言っているのです。
そのようなわけでトクヴィルははっきりと次のように書いています。
「神への信仰がなくなったら、民主主義はこの世的なことばかり追い求める人たちでいっぱいになってしまい、ともすれば唯物論国家になってしまう。私はそのようになるくらいなら、むしろインドの宗教などの『人々はときには豚に生まれ変わる』というような素朴な転生輪廻、奇妙奇天烈な転生輪廻の思想を信じるほうを選ぶ」と。
キリスト教徒にとって転生輪廻が奇妙に見えても こちらのほうが人間を堕落させない考えだとトクヴィルは考えた
つまり「 こちらのほうが、まだ人を堕落させない考えだ。『人間には魂があって、人間も豚に生まれることがある』、これはキリスト教徒には信じがたいことではあるのだけれども、唯物論に堕するぐらいなら、むしろ、私はこちらのほうを選ぶ」ということを彼は言っているのです。
要するにトクヴィルは 「宗教は一見、自由と対立するように見えるけれども、そんなことはない。内心の自由が認められるということは、人間としての価値や認識力が非常に高まるということになって、人間が堕落するのを防ぐ力がある」と強く言っているわけです。
これは注目すべき点です。ただトクヴィルが言いたかったことは、その当時の人々には、はっきりとは見えていなかったと思います。トクヴィルはマルクスよりも少し前の時代の人ですから、まだそれはそうと見えていなかったでしょう。
唯物論と民主主義が合体すると共産主義ができる
しかし、トクヴィルは「後にマルキシズム(マルクス主義)が広がって、唯物論と民主主義が合体していったら共産主義ができる。そういう時代が来る」ということを ある意味で予見していたと思われるのです。
唯物論的な共産主義は、いちおう「民主主義」を標榜しています。
ただし、それはこの世の世界のみにおける民主主義、結果平等だけを求めていくような民主主義です。
要するに「お金持ちや成功者に対する嫉妬心を合理化し、そうした人たちをみな引きずり降ろして平等にする」というようなことを大義名分人間としてのしているのです。
富の分配がうむ争奪戦と官僚制の台頭
もちろん 最初はそういう面もあるでしょう。しかしながら、暴力革命を肯定して、上にある人たちをを引きずり降ろした結果、どうなるかというと、「富の分配」ばかりをし始めるようになり、争奪戦が起きて、この世的な合理性、この世的な有利性ばかりを求めるようになるのです。そして「平等」のはずだったのに、いずれ指導者が必要になるため、やはり、指導者と指導者を守る人たちが出てきます。結局、官僚制ができて、その上に独裁者が出てくるわけです。これが共産主義の流れです。
今 日本の情勢を見ると 日本の国土や不動産が中国資本に買われて行き、日本のお寺が迷惑行為をした中国人観光客に注意をしたところ いずれここは中国のものになるのだと 暴言を吐かれたということがXであげられていました。
この事態を招いたのは
日本の精神世界が 中国と変わらいものになってきている
と言ったら 腹を立てる方も多いと思います。
けれども、
物質的な繁栄ばかりをもとめて
宗教をすべて
いかがわしいものとして斥けてしまった
戦後の教育や
宗教の問題行動ばかりを取り上げて
宗教の本質的な教えを
全く取り上げてこなかった
マスコミの姿勢は
人間から 尊いものを
奪ってきたのだと思います。
中国共産党の世界と似てきた政治空間を憂えるものですが、
それは政治の問題だけではなくて私たち一人ひとり日本人の心が 侵略を招いているともいえるのです。
アメリカでは トランプ大統領もロバート・ケネディJr.も神に祈りつつ政治をしています。
神を信じるということを政治家が隠し
恥ずかしいもののように扱う
日本の姿とは違うものがあります。
日本の報道はわかっていないのです。
日本人もまだわかっていないのだと思います。
トランプ大統領や
ロバート・ケネディJr.の本質的な部分。
神への信仰が
暗殺を恐れずに
正しいことをするのだという
政治家としての信念を裏打ちしていることに。