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映画『ゴジラ-1.0』を観た


ネタバレあり







ゴジラがただ街を壊していく映画ではなかった。死に損なって後悔している敷島が、生きる覚悟をする話だった。

特攻隊として死することも、終盤と比べればまだ小さかった頃のゴジラに攻撃をして殺されることもできなかった敷島にとって、それらはトラウマであり生きる事に後ろめたさや負い目を感じるものだったのだ。典子と籍を入れなかったのも、明子にずっと「俺はお父さんじゃない」と言っていたのも、全部「俺の中の戦争が終わってない」というその言葉に集約されていた。

だからこそ最後に、自分の意思で脱出装置を起動させたことが嬉しかった。「このボタンはトドメを刺すのに必要なものだ」などと橘に騙されて生き残るのではなく、彼の言葉に後押しされて自分で生きる事を選んだのがとても良かった。

簡単に命を投げ出していた戦争の時代から、それを良しとしない世界へと移り変わっていく中で、死して役目を全うできなかった敷島は、途中まで時代に逆行して生きている様に思えた。一人、死を覚悟してゴジラを倒そうと目論み、そしてそれによって己の中の戦争を終わらせようとしていた。
敷島が飛行船の修理をする者として橘に拘ったのは、彼も同じ様に死する事ができずに未だ戦争に囚われている人間だと思っていたのかもしれない。だからこそ、秋津や野田にも話していないゴジラ討伐の捨て身の作戦を話し、その為の修理を託したのだろう。
それからもしかしたら、敷島の次に敷島の事を許せずにいたのは橘だと、そう敷島が思っていたのもあるかもしれない。今度はちゃんと死んで役目を果たすのだと、彼に見せる必要があったのかもしれない。

この映画の中で、ゴジラ討伐の作戦を実行する人々の多くは戦争を生き残った者だった。彼らにもやはり、死して役目を全うという様な考えがあったのか、命を投げ出さずとも「今度は役に立ちたい」という台詞の通り、彼らもまた、敷島と同じ様に戦争に負けた事に対しての負い目を感じていたのかもしれないと思った。だからこそ秋津や野田は水島を船に乗せようとしなかったんだろう。戦争は自分達だけが経験して、ここで終わらせる、そんな意思が見えるその行動は、戦争への嫌悪と後悔が詰まっていた様に思えた。

そしてそんな水島は、この映画の中でいい役割を担っていたと思う。最初は敷島の前で戦争を軽んじる様な発言をしていたし、作戦決行前の雰囲気も少し楽しんでいる感覚もあった。それでも最後に助太刀に来て皆を救って、敷島が生きている事に安心して。秋津達の言う通り「未来は彼らに託されてる」という事なんだなと思った。

最後に、この終わり方はなんだ…?もう彼らの生活を壊さないでやってくれよ。という気持ち半分、これでこそゴジラだよ!!という気持ちも半分。

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