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映画『まる』を観た

ネタバレあり







まると、アリと、寿司。

何かを作り出す、クリエイターの苦悩を中心に描かれた話だと思った。だからこそファンでない自分から見ても、クリエイター気質で芸術肌な印象の強い堂本剛が主演であったことに意味があると思えた。

沢田からは野心なんて感じられなかった。秋元にその実力やアイデアを搾取される側。それに反抗的な態度を表す事もない。側から見ればそれは文句を言わないいい駒として動いているようにも見えて、それが矢島からすれば「沢田さん見てるとなんか辛いです」という言葉で表されたのだと思った。
沢田はずっと受動的というか周りの流れにそれとなく乗って、自分の欲を出す様子がない人間に思えた。沢田が描いた"まる"が社会現象を起こした時、描いた本人はその中心にはいなかった。沢田がそれを知って、そして自分が沢田であると公言したあの瞬間、沢田はまるを描いたインクの上のアリと同じ様にそこに囚われたのだろう。
上手く"まる"が描けなくなった沢田が、柄本明の演じる先生と話してからまた"まる"を描き始めた時、彼は何を考えていたのだろう。先生から悩む事、とりあえず試行錯誤する事はOKだと言われた沢田が部屋中にまるを描き始めた時、残念ながら自分にはその気持ちが理解できなかった。芸術とは程遠い自分からすれば、その衝動性が沢田のアーティスト的な部分なのかと思った。同じ様に、沢田がモーとの会話で溢した「雨の中、飛ぶ鳥の気持ち」の話。それを聞いて、沢田は芸術家なのだと、これは感受性の話なのだと感じた。なんとなく、沢田の心の中をずっと見せて貰えてない感覚がしていた中で、それが事故の際の余所見の理由と知って、初めて彼の心の声を聞けた気がした。自分が決してその様な考えをしないという訳ではないが、彼の芸術性はそこに繋がっているように感じたのだ。

勝手な想像だが、沢田はきっと矢島の考えを根っこから否定している訳ではないと思う。アトリエで面識があった時、矢島からその考えを伝えられた際にはその考えを拾う事なく対応していたし、それが嘘だったとは思わない。
それでも沢田が有名人になってから街で見かけた矢島に、その矢島の考えを再び見せられて、沢田はその考えを見なかったことにして捨てる事はしていなかったと思う。

「沢田さんは、アーティストではなく職人という事ですか?」
この言葉、実はあの時の沢田の心刺さり、それからこっそりと、ずっと、そこにあったのではないかと思う。
自分が搾取される側であると、作り手である自分のことなど知らずに"まる"とその作者、沢田の名をコロコロと転がす社会を、沢田はアトリエにいる時よりもハッキリと感じ取り、そして矢島の考えを真正面から見る事ができるようになったのではないかと思う。もしかしたら矢島はそれが分かって、両手で作ったまるを通して沢田を見て、そして笑っていたのかな、と。そして、沢田の手が治ってから描いた絵に"まる"を描いてやっと買い取る話が出た際、沢田がその絵に穴を開けたのは矢島のその考えに正面から向き合った結果なのだと思う。

穴と言えば、綾野剛演じる横山だが。やっぱり綾野剛は良いよなぁという薄っぺらい感想をまず一つ。皆がなんとなく抱える現代を生きる不安に彼はちゃんと向き合ってその上で恐怖して逃げようとしている。逃げようともがいているが、それが上手くいかずに焦りを常に感じているような。自分が世界に置いていかれる、自分が世の中にとっていらない存在になる、そんな不安を抱えているのに、彼がやっている職業が漫画家と言う安定とは言い切れないものだというアンバランスさ。はじめは迷惑な隣人、怖い人間と言うような印象だったが、彼の考えを知れば、彼が自分の心の中にもいるような気がして彼のことを嫌いになりきれなくなる、愛着がどんどん湧いてくる気がした。もしかしたら沢田にとっても、自分の名前だけが一人歩きして、世界に置いていかれるような感覚があって、それが横山の不安と共鳴したのかもしれない。とにかく、綾野剛はこのようなキャラに愛着を持たせる、そんな演技が上手い人だと改めて思った。
沢田がまるの意味をインタビューで語った動画を見た横山はその後「俺が沢田やる」と言った。沢田が古代生物の話とまるについて関連付けて話したその姿を見て、ただのまるだと思っていたその作品に、深い意味があるんだと、これが芸術だと言われた気がして、それが悔しかったのじゃないかと思う。だからこそ、澤田に対して「こんなのただのまるじゃん。俺にだってかけるよ」とセリフを言ったのではないかと思う。これはきっと横山も芸術家であり、何かを作り出す側の人間だったからこその悔しさだったんじゃないかと思う。

「なんで自分が本物の"さわだ"だって言い切れんの」
予告で聞いたこのセリフ。てっきり沢田を追い詰める言葉の一つだと思っていたのに、実際には横山から沢田への純粋な疑問だった。それに対する答えは単純だった。自分が描いたから、だから沢田は"さわだ"なのである。横山が沢田のギブスに絵を描きそこに横山と書いたように、沢田はあの日まるを描き、そしてそこに"さわだ"と書いた。ただそれだけなのだろう。

沢田はこの映画において、ずっと受動的であったから、様々な登場人物と一緒にいることによって、彼の内面を知ることができた面があった。その中で大きな役割を担っていたのが、横山ともう1人。モーだったと思う。それからもう一つこれは自分が勝手に感じただけだとは思うが、モーは我々視聴者側にまるの意味を教えてくれる存在であった気もする。彼の言う「福徳円満、円満具足」その言葉からまるが社会現象を起こす位に意味を持つことができる形であると納得することができた。彼が「人間まるくないと」と言うと、この世界でどうしてまるが社会現象になったのかを少しだけ理解することができたような気がした。きっとモーが沢田に頼んだ"まる"は、芸術品としてというよりはお守りに近いものなのだろうと思う。
「雨の中飛ぶ鳥は何を考えているのか」と言う疑問に対してネガティブな考えを思い浮かべた沢田対して、モーはポジティブな考えをいくつも出した。それを指摘されたモーが「そうじゃないとやってられない」というのは、横山が感じている漠然とした社会への不安に対処する方法の1つなのだと思う。

この作品の中で、こっそりと自分が見ていたのは沢田がだんだんと隈を濃くしていった(様に見えた)ところである。もともとお隣さんである横山の騒音や建物の悪さによって眠りにくい環境であると言う事は示唆されていたが、沢田のまるに価値を付けられて以降、彼が寝不足であると言う表現がされているなと感じていた。特に個展をやった日の沢田の目の下の隈は酷く見えた。だから、横山と穴越しで語り、泣き、そのまま眠った沢田を見て、やっと彼は眠ることができたと勝手に感じていた。その時の横山の一定のリズムをとるような手の動き、それから「おつかれ、おかえり、おやすみ」と言うセリフがとても暖かかった。

最後に、まるとは何だったのだろう。沢田の描いた"まる"に、社会は平和へのメッセージを読み取り、土屋はその中心は何もない空虚であるべきだと言い、モーは「人間まるくないと」と言い、横山は「ただのまる」と言う。宗教的な円相は悟りや宇宙、自由な心などを表し、先生の茶室にあった円相は饅頭を表していた。沢田がインタビューで話した、見ている側の求めている物に寄り添った答えは古代生物と絡めた例と共に説明された。
結局まるにはいろんな意味があり、社会では沢田の考えていたものよりもっと深い意味を勝手に取られ、最終的にはそれが沢田の作品だと表す記号へと変化しようとしていた。この映画においてまるが何だったのか、答えを出すことが正解だとは思わない。正解が用意されているとも思わない。
でも実際のところ、沢田の書いたまるの意味を考えようとした時、それは平和的なものだとは思えないのだ。なぜなら、沢田が初めに描いたまるはアリに導かれるようにして描かれたものであり、自分にはアリの動きを封じるため、アリをまるの中に閉じ込めるために書かれたものに思えた。そしてそのまるの中に沢田も閉じ込められたのかもしれない。
先生と初めて会った時「始まって終わる、つながって続いていく」と言うような話をしていた。沢田はまるの中に閉じ込められたと同時に、始まって終わり、また続いていく、まるの線上にも乗ったのだろう。

「人間が作り出した形はないんだよ。全部自然界に元々あったもので、人がそれに後から役割や意味を与えた」
お世話になった先輩の、そんな言葉をふと思い出す様な映画だった。

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