【映画評】カール・テオドア・ドライヤー監督『裁かるゝジャンヌ』(La passion de Jeanne d’Arc, 1928)
ジャンヌ・ダルクは、そもそも同時代記録や後代の記録によって再構成された「史実」によってがんじがらめにされているが、スクリーン上のイメージ(図像)としても、そのような「史実」に映画が従ってしまった結果、牢に繋がれ、裁判にかけられ、あるいは後手に縛られて火刑台上に燃やされ、身動きできなくなってしまった(常にジャンヌの「死=停止」をもって映画は閉じる)。映画の技法的にもジャンヌ・ダルク映画を特徴づけるのは彼女の「顔」のクロース=アップやバストショットであり、いずれも固定的といえる(それは運動を呼び込まず、物語を停滞させる)。
とはいえ、優れた映画作家はそのような制限を逆手に取って、演劇には絶対に不可能な(映画にのみ可能な)ジャンヌ・ダルク表象を達成する。ドライヤーのジャンヌの顔は「パッション(passion)」の二重の意味(二極性)を一度に体現する。それはひたすら受身の、すなわち「受難」の相でありながら、同時にその下に迸る「情熱」のマグマを潜ませてもいるのだ(それが彼女の魂の「上昇」にもつながる)。あるいはブレッソンのジャンヌの無表情でほとんど動きのないバストショットは、棒読みの台詞と相まって、手や足のごくわずかな動きによって「プロセ(procès)」、即ち「裁判=過程」を描出することを可能にする。はたまた、セシル・B・デミルのように「史実」を意に介さず、他とは異なる力強いジャンヌ表象を可能にした者もいる(但し、それはそれで別種のイデオロギーを呼び込むことにもなろう)。
畢竟、「史実そのもの」を何人も再現できない以上、その視覚的な再話(即ち表象)しかできない以上、スクリーン上のイメージは、それが作られた時代時代の精神の刻印を施された(悪く言えば「手垢にまみれた」)ものにしかならないだろう。既に1900年のジョルジュ・メリエスによる『ジャンヌ・ダルク』が、まさしく19世紀末のフランスにおけるナショナリズムの高揚を背に作られた「見世物」であったことを想起しよう。魅力的なジャンヌをスクリーン上に再度見出すためには、より魅力的な「史実」(歴史的事実の再解釈)が、必要とされているのかもしれない。