読書感想文「グレート・ギャツビー」フィッツジェラルド
あぁ…なんだろ…読んでて苦痛だった。
何となく洋書読むならこれ読んどけ見たいな動画か何かで紹介されていたから購入したものの、なぜこれほど読みにくいのか。
英語の日本語訳だから仕方はないものの、文章がなんかもっと、気の利いた感じで訳せないものか…と思う部分がどうしても目についてしまう。
日本語訳を読んでいるのに、もう一度頭の中で多分英語ではこう言いたかったのではないかと、一旦原文を想像し直してから、もう一度自分なりに日本語訳をして、自分に馴染ませる工程が必要だった。
決して自分は英語ができるタイプの人間ではない。しかし、え~?と思うような直訳過ぎる部分と、翻訳者がおそらく当て込んだであろう文学的な表現が混ざり合い、原文の流れというか作者の文体のノリが理解できないままだった。
特に、ギャツビーが死んだ場面の訳は最たる例で、風景描写のみでギャツビーの死を詩的に表現しているのに、ウィルスンの死体についてははっきりと書いている。一瞬ギャツビーが死んでいるという表現がどこにも見当たらず、「は?いつの間に死んでたん?」みたいに何度か読み返す羽目になった。
感想としては、当時の時代考証込みでも、特に面白い小説というわけではない。「20世紀文学最大の問題作」と謳ってあるとは全く思えない、で?なんなん?どこが面白いの?といういう感想だ。
悪口1 キャラクターが「たって」ない
作中では男も女も同じような語尾や人称を使うので、まず没入感がない。
「親友」と語尾についていればようやくギャツビーが話してたのね。と理解できる。
これは外国文学への慣れていないことが原因かもしれないが、これのせいで没入感がない。鍵括弧部分で、キャラクターを知る端緒となるはずが、まず誰が喋っているのかを確認する作業にカロリーを使う羽目になる。
そして物語に登場する人物の誰も好きになれない。
生まれながらの金持ちの見栄と傲慢さと嫉妬心。成り上がりの金持ちのいけ好かない感じと空虚さ。自制心はあるが空気のような主人公。男も女も口やかましくて、ギャーギャーと喚き散らしている。
大半の登場人物は頭空っぽで享楽と金儲けに勤しんでいて、不倫して、愛人作って、遊んでる。なんやねんこいつら。
唯一人間的な人間はギャツビーを殺したウィルスンくらいのもんだ。
個人的には訳の問題な気がする。
ただでさえ、名前だけで性別も区別できない紛らわしい名前をしているなら、語尾とか口調とかでキャラクターに輪郭を与えたほうが、物語もすんなり進行すると思うのだが…
この訳すら楽しめと言われるなら、そこまでだが…
悪口2 展開が読める割にはストーリーに奥行がない
私は一度もこの作品の映像化や舞台化されたものを見たことは無いが、ギャツビーがどういうバックグラウンドで、身分違いの恋の果てにろくでもないことになるだろうことはすぐにわかる。
アメリカ内の東西格差や、第一次世界大戦という背景、田舎と都会、金持ちと貧乏人。という色んなスパイスが散りばめられているのだとは思う。
しかし、それぞれの人物の内面に関する描写がほとんど無いため、こうなりました。こういう会話がありました。こういう風景でした。という単なる紙芝居を読んでいる様な感覚になる。
映画の脚本でも読んでいるかのようで、小説としての面白さが見つからないのだ。
このあっさりとした文章の空虚さに著者の想いを汲み取れと言われれば…
無理っす。
悪口3 空っぽストーリーにそぐわない日本語訳
いっそのこと、空っぽなストーリーならそれに即した日本語訳にして欲しかった。出版された時代的に古臭い日本語になるのは致し方ないのかもしれないが…
言い方が回りくどかったり、もっと直接的に書けばいいじゃん。と思う部分が多すぎる。
原文儘ということを意識しすぎたのか、日本語の文章として読んでいて違和感だらけだ。
会話部分で話していることが子供の会話内容なのに、地の文になったとたん突然文学的になるのは、訳として正しい在り方なのか?
もういっそのこと意訳して、文章の順番も日本語の文法にしてはいかんのか?
いかんのか…
最後に
まぁ…ね…多分私の精進が足らんのでしょう。
海外文学は要注意だということが判ったし、訳者にも注意して買うことにしますわ。
おしまい!
次に読む本→「グレートギャツビー」→「ひ」→「人のセックスを笑うな」
山崎ナオコーラ