読書感想文「かか」宇佐美りん
こりゃすげぇや…2025年1発目に読みたかった…
あな憎し、しりとり読書習慣…
どんな話かと聞かれたら、「信仰」の話と答える。
かか=母を産みなおす。という謎理論は突拍子もないことを言っていると思うが、読めばスルっと理解できてしまう。
おまけの子と言われババから愛情を持って育てられなかった「かか」。
とと=父と別れ、支えを失った「かか」。酒乱・自傷で「うーちゃん=主人公の語り手」に泣きつく「かか」。見向きされなくなると「おまい=弟」にあまったれて支えを欲しがる「かか」。
そんな「かか」を疎ましく思っていながらも愛しているうーちゃん。
自分が産まれてきたせいで「かか」は処女を失い穢れてしまったと思う。
他人事ではない感覚が読んでいる最中に、私の心中に湧いてくる。
こういった心の働きについては、医者が分類するなんたらとかいう子供の適応障害の一種であるとわかっているものの、心にこびりついて離れない。
子供の様な「かか弁」で語られる独白には、「かか」と精神的にも肉体的にも離れられないうーちゃんの幼稚さと、こんな「かか」でも想ってしまう自身の内面とが混ざり合わさり、独特の親子関係と世界観を創り出している。
共振するということ
「かか」のわざとらしい演技がかった泣き。
相対する相手を自らのフィールドに引きずり込もうとする泣き出すまでの一連のアクション。
この場面が読んでてキツイ。
わかる。子供であるから強制的にそれに付き合わされるし、反応しないわけにはいかない。
私も子供の頃に両親の夫婦喧嘩や、そこで暴れた結果自暴自棄になる母の泣いている姿は数えきれないほど見てきた。私の母は「かか」ほどこちらに共感を求めるムーブはしなかったものの、泣いている母を見て、なんだか私も母親と同じように「泣かなければいけない」と思うようになったことは覚えている。
この涙は何のために流している涙なのだろうか。
始めはよくわからなかった。
でも小学生くらいの頃には理解した。
この涙は、泣いている相手に対し、心を通わせているというサインを出し、相手の悲しみを軽くして開放させてあげる涙だ。
涙を流し相手と共振した振りをしていたのだ。
それが私にできる両親の夫婦喧嘩に対する処方箋であったし、不快なことから私を守る自衛手段だった。
しかし私の母親は目聡い。
母はまた傷ついて涙を流す時、何のために一緒に涙するかを理解してしまった私の涙と一緒には共振してくれなくなった。
「またそうやって泣いて。こっちの身にもなってみろ!なんにも分からないくせに!」
そんな言葉を投げかけられたかは定かではないが、そういったニュアンスの何某かを私に向けた。言葉だったかもしれないし、目線だったかもしれないし、態度だったかもしれない。その後刃物を取り出して自殺宣言をした母にそうした態度は何の効果もなく、上滑りしていった。
でもまぁちゃんと母親は今も生きているので、OKよ。
そうして私はキレ散らかした母親の揺り籠役を降り、大人への階段を一歩ずつ歩み始めたのだと思う。
まぁね。
驕ってますよ。
何様じゃいと。
誰に育てて貰ったんだと。
母親や父親の苦労も知らないで。と。
誹りを受けるかもしれないが、この経験はおっさんになった今でも覚えているんだから、私を形作る重要なイベントとなって、私に根付いている。
共振することは、相手を親愛する感情が必要だ。
うーちゃんはさんざん「かか」に悪態をつきながらも、19歳になっても決して見離しはしない。むしろ情緒不安定な「かか」を支えてあげたいとさえ思っている。
これは、怖いよね。
でもそう育ったんだからね。しょうがないんだよね。
子離れできない母親。その親を他人だと割り切れない娘。
そんな切っても切れない関係が描かれているのだが、物語が進むうちにうーちゃんは新しい考えを抱くようになる。
うーちゃんの信仰の変遷
主人公のうーちゃんは適応障害でも、一味違う特徴を持っている。
精神的な共振と共に、肉体的にも共振してしまうということだ。
母親の過剰な同調圧力と、娘の過剰適応が原因。と言ってしまえばそれまでだが、自分が産まれたのが良くなかったんだというところまでは私とて考えたものだ。
しかしうーちゃんは、男性性である私には到達できない、「産み直してあげる」という突飛な行動に出る。
失敗はしたものの、誰にも見られない様に朝早く起き、電車に乗って熊野に参る。これはもはや巡礼の旅に出ていっているようであり、子宮を取り除かなければならなくなった「かか」と身体的にも同期してしまう、うーちゃんならではの発想である。
かつて信仰の対象であった「かか」が神様から降りてしまい、うーちゃんは信仰を失っていた。SNSでは寂しさを紛らわすために、鍵垢で馴れ合いをするがその中には顔が見られない匿名性から発する安らぎはあるものの、神様はいなかった。
物語終盤に、山を登っていく途中で、うーちゃんはSNSで嘘の投稿をする。
まだ死んでいない「かか」のことを死んだことにしてしまうのだ。
嘘の投稿をすることがどうのという思春期特有の法螺吹きともとれるが、そうではない。この時点でうーちゃんは信仰対象としての「かか」を完全に抹殺することに決めたのだろう。
信仰対象の神様「かか」はそれ以前から、頼りにならない酒乱と自傷行為を繰り返す神様だったが、「かか」を産みなおすことで、「かか」を現世から解放してあげ、新しくうーちゃん自身が「かか」の神様になってあげることを決意するに至った。
自らが信仰の対象となるには苦難の旅路を経て、何か神聖なものを得なければならない。そういった心持が巡礼の旅へとうーちゃんを誘った。
しかし、結局「かか」は生きており、印象的な一文を残して物語は終わる。
山でうーちゃんを襲った強烈な腹痛はただの生理痛でした。病院の、あの息つくたんびに水音のする管に繋がれ高熱出しながら、かかは生きていました。ねえだけど、みっくん。うーちゃんたちを産んだ子宮は、もうどこにもない。
この直前には、雷がなぜへそを奪ってくれなかったのか。という文章がある。へそという嘗て母子が繋がっていた管を人間がちょん切った痕をいっそ雷が消してくれれば、親子の縁がどこかに消えて、こんなに苦しむことは無かったのではないかという意味だ。
だが、へそは取られず、「かか」も生きていた。
「かか」が死ななかったことで、「産み直す」ことも妨げられてしまった。うーちゃんは巡礼の旅で得ようとしていた神性をまたもや失うことになる。
さて、この最後の一文。
「うーちゃんたちを産んだ子宮は、もうどこにもない。」
に込められた意図は何だったのだろうか。
「かか」から母性の象徴である子宮が消え、「かか」が生きていたというこの事実はうーちゃんをさらなる困難の道に誘うのか。
それとも、産み直しなんておかしな信仰は消えたにしろ、へそが残った事実が、うーちゃんを新たな信仰に目覚めさせるのか。
含みがある終わり方だ。
物語中に一度信仰を失ったものが、再度何らかの信仰を得ることが出来るのかという話があった。おそらく次回作「推し、燃ゆ」に繋がる大事な宇佐美先生の価値観を知る機会となるだろう。(ちがったらすんません)
信じる深さが深ければ深いほど、裏切られバチが当たる。
同時に不幸であればあるほど救われる。不幸は何かを信じる深さからのギャップから産まれるものだからだ。
解説の町田康先生も同じようなことを書いていた。
うーちゃんはこの先何かを深く信じることをするのだろうか。
それは不幸へ繋がる道であり、同時に救いの道でもある。
本来の仏教に生まれ変わりなんて概念はない。
神道にも生まれ変わりの概念はない。
処女のまま「にんしん」するというキリスト教における、受胎告知の夢もただの生理痛だった。
何かを信じるということ。
それは現代においては「推す」ということと酷似しているだろう。
うーちゃんに「推し」は現れるのだろうか。
作品の流れからではなく、個人的にうーちゃんには、母性に依らない神様。「かか」とは独立した一個体としてのうーちゃんの神様をうーちゃんの内に宿して欲しい。
私もそうして生きて多少楽になったから。
最後に
物語中にはもっと話をしたくなるポイントが散りばめられている。
SNSの空虚さと優しさの話や、自分を最も不幸だと決めつけることで、強くなれるし、弱くもなる。という話など、とても楽しい話が出来そうだ。
まぁ兎に角大好きな小説だった。
性は違えど他人とは思えないうーちゃんから目が離せなかった。
自分に近い物語を好きになってしまう。
人間はこんなにも弱い生き物なんだな、と自認しつつ次の本に参ります。
次に読む本→「かか」→「か」→「仮面の告白」三島由紀夫