読書感想文「あひる」今村夏子
星の子を読んでいただけに、読み始めて直ぐに今村ワールドに接続できた。
どの短編も一人称で語られており、児童向けに書かれたような分かりやすい文章でありながら、伝わってくるものが不穏。
短編3つが納められているが、表題「あひる」は特にだがどれも「星の子」と通ずる、「信仰」にまつわる話の様に思えた。
あひるの中にはちらっと母親が宗教の話をし、父親が聞き流す場面がある。あと二つの短編においては、それぞれ「インキョに住むおばあちゃん」にとっての憧れであり信仰。モリオにとっての興味という名の信仰が描かれていると感じた。
強引に信仰という言葉に纏めたが、それぞれの物語でその語られ方が異なる。そういった部分に目を付けての感想としよう。
あひるにおける信仰
ある日父親の知り合いから引き取られてきたあひるの「のりたま」は近隣住民のアイドル的存在になる。
主人公はのりたまに対して周りの熱狂とは違い、のりたまに対して少し距離を置いて冷静に見ている立場である。
のりたまを中心に変わっていく家族の生活が不気味に描写されており、主人公だけが置いてけぼりを食らっている感じがする。
不気味ポイントとしては、まず主人公家族全体の違和感である。
のりたまには距離を取って蚊帳の外にいたはずの主人公までもが、最後のページで「何千回も見てきた赤ちゃんの写真」を取り出す。
やっぱりそうやってオチを用意するんやん…
この場面で主人公の家族への理解度がグッと深まる。
作中で主人公の年齢は明記されていないものの、おそらくもう30歳近くの年齢で働いておらず、今は資格取得のために勉強をしているが、2連続で試験には落ちている。簡単に言えば、いい年して無職の女性であるのだが、そんな娘を許容する両親。対して、その輪から抜け出して強権的な弟。弟の説教と暴力を黙って受け入れる両親と娘。
読んでいる最初から違和感はあるものの、歪な家族像をくっきり提示してくる。互いに無関心だった両親は「のりたま」という存在を切っ掛けに家に来るようになった「子供」に対して娘以上の愛情を注ぐ。のりたまを媒介しなければ「子供」は家には来てくれないと考え、あひるが弱る度にとっかえひっかえしあひるを「子供」を呼ぶ餌にし続ける。頼まれてもいない誕生日会を開く準備もする。
ここに両親の行動から暗に感じていた、我が子へのネグレクトのようなものが透けて見えて来る。
母親は宗教に救いを求め、父親は空気に身を委ねていた。
両親にとっては「のりたま」は「子供」をおびき出す道具のような役割である。生命は個々に違うものであるはずなのに、「のりたま」は道具の様に代用可能であるかのように扱う。この感覚もまた不気味さを演出する。
この先「弟の子供」が産まれ、同居するようになったとしても、両親はそれがあたかも代用可能である存在として扱う未来がみえてしまう。
今度は主人公に話を戻そう。
成人し両親から「子供」扱いされる対象では無くなっており、家族とは没交渉気味になっている。家族同士ベタベタしないのは大人だからかもしれないが、自身が理想の人生を送れていないがその人生にもどこか満足気でもある。
この両親にして、この子ありという感じがある。
上手く実年齢並みの社会生活が送れていない主人公は今期の資格試験にも落ちて、結婚もせず、子供も産まず…
行きつく先は「インキョのおばあちゃん」と同じ存在になるだろう。
短編はそれぞれ独立しているものの、クロスオーバーをして一つの物語に見えて来る。
田舎における「子供」への信仰。血族の信仰。そういったものは現代では薄まりつつあるものの、あえて現代でこのテーマを書くというところに作者の心意気を感じる。
おばあちゃんの家における信仰
語り手の「みのり」は迷子になった日の夜に、なぜか出るはずのない電話にでて迎えに来てくれたおばあちゃんと仲良くしていた。
家族とは物理的にも離れた住まいにいるおばあちゃんと仲良くするのは主人公のみのりだけで、他の家族は見て見ぬふりをしている。
みのりの中で特別な存在として、おばあちゃんはスペースを与えられていた。
やがて年月を経るごとに、そのスペースはみのりの中から無くなっていく。
一方おばあちゃんはボケたように見えて、そうではなかった。
自分とは血が繋がっていない隣に住む家族とは疎遠になり、遠ざけられ、血の繋がらない単なるビワの果実を盗み食いに来た子供であるモリオに執着していく。
家族にはボケているように思えるが、反対にむしろ元気になっているようにも映る。執着・興味・願望がその対象を見つけた時、人間は変わることを表現している。素直に読むなら、血を残せなかったおばあちゃんの欲望の対象はやはり「子供」だったのだ。
あひる同様に、達成できなかった何か。
つまり産めなかった子供だったり、望ましく育たなかった子供の代用品として、発揮できなかった親としての欲望をぶつける相手を望んでいる話としてまとめることが出来るだろう。
森の兄妹における信仰
先に収録されてた、おばあちゃんの家のネタ晴らし的な形で、おばあちゃんの信仰対象が「男の子供」であったことが明かされる。
おばあちゃんは「ぼくちゃん」と何度も呼び掛ける。が、モリコに対してかける言葉は無い。田舎独特とは言わないまでも、どこにでもある男系子孫偏重な考えだが、ここにおばあちゃんのやるせなさというか、どうすることも出来なかった苦悩が滲む表現になっている。
それに対してモリオにとっての信仰は非常にあっけらかんとしたもので、「興味の対象」がそのまま信仰対象として心の大きな部分を占めている。母親が買ってきた「魔剣とんぺい」の漫画本10冊に心を奪われ、おばあちゃんとは疎遠になっていく。
この話においても、あひるやおばあちゃんの家とクロスオーバーする形で、子供たちの興味の移ろい易さと、大人にとってのある意味での残酷さのようなものが通底して描かれる。
孔雀とはなんだったのか
子供たちの見ていた色鮮やかな孔雀は、実はただのキジだったと判明する場面がある。
これも分かりやすい比喩で、理想と現実に置き換わるのだろう。
子供の頃思い描いていた理想や美しい未来は、大人になるにつれ現実に馴染んで染まっていき、似てはいるものの本当に望んだ形ではない形で私たちの前に現れる。
思い描く理想の象徴としての、美しい孔雀。
受け入れなければならない現実としての、くすんだキジ。
信ずるものがそのまま理想の状態では居てくれない。
何かに夢を託し、失い、取り繕い、現実の世界から目を背け続けたままでストーリーは終わる。恐らく救いは無い。
最後に
今村先生はなぜこのようなストーリーばかり書くのだろうか。
星の子は宗教二世の子供の話であり、今回の短編3つも似た雰囲気を持つ。
私は星の子の感想で、主人公はまだ不幸ではないのではないかと書いた。比べることが不幸の元なのだとも書いた。
著者自身も時間の経過とともに考えが変わっていくだろうが、芥川賞を受賞した「むらさきスカートの女」もどうやら不穏な話らしい。
信仰の成れの果てをどう書くのか。
一旦はバッドエンドが見え隠れするが、その先の展開をどう考えるのか。
今村先生の新しい地平を読むことは出来るのだろうか。
そんなことを思いつつ、感想文を終わります。
次に読む本→「あひる」→「る」→「る」から始まる本が無いため、次は
「ぼっけぇきょうてぇ」岩井志麻子 を読みます。