読書感想文「きれぎれ」町田康

2024年最後になんてものを読むことにしてしまったのだろうか。
しりとりのおかげなのか、しりとりのせいなのか。

解説の池澤夏樹先生も書く内容に困り、タジタジになっているのが窺える。
「きれぎれ」「人生の聖」のどちらにもストーリーらしいストーリーなんてありません。
現実と脳内妄想と時系列がぐっちゃぐちゃで説明できるあらすじなんか存在しない。しかしもしこれがどんな作品かと問われれば、こうは答えられるかもしれない。

圧倒的に自分が感じたこと、見たこと、聞いたこと、嗅いだこと、そこから紡ぐ言葉や感覚を瞬間的に、かつ丁寧に抽出した、「類を見ない実験的な私小説の一形態」だということだ。

作品の内容に関することは書きようがないので、以下は勝手な考察です。


目指せ究極の「私」小説

完全な一人称で、文中にはこちらに話しかけてくるようなメタな要素さえ感じられる。少し前に舞城王太郎の「みんな元気。」を読んだが、あちらにはストーリーらしきものが存在して、本来読みやすいはずなのに読むのが辛かった。

芥川賞を取る作品は、純文学で大体の内容は「私小説」みたいな括りがあるようだ。「私小説」とは何ぞやという話が出来るほど私は読書にどっぷり浸かっていないので、その話は置いておこう。

作中には、独特な口語体、俳句の様な音の調子や、韻を踏むのようなリズム感、ダジャレがふんだんに入っており、まるで音楽を言葉で聴いているような感覚を覚える。
歌の歌詞に意味を求めるのは非常に日本人的には慣れ親しんだ感覚で、私は日本の曲を聴くときは、音から受ける感覚を私自身がどう感じるか。と、ともに、日本語の選択の仕方や歌詞が表すストーリーの意味を探ろうとしてしまう。そうして歌手や作曲家の人間性を追っていくことが楽しくて音楽を聴いている。

そんな私とは逆に妻は、「音楽の聴き方なんて考えたことがない。歌詞なんかほとんど覚えていない。何となく聞いていて心地いいか。自分の感性に合うかどうかにしか判断基準を置いていない。」という。(勿論こんな言い方はしていないが)

そうして、どこかのCMで流れるコマーシャルソングや、若かったころに聞いていたような曲を、音も歌詞も出鱈目に歌いながら食事を作り、洗濯物を干している。

何故こんなことを書いているかと申しますと、私の様な人間が外界から受容した何某かを一度脳内で受け止めて、思考・分析するという段階を経ることはどんどん「私」の感覚の中心から遠ざかってしまうということだ。

しかも私の中心を成すはずの「生の私」から発せられる何某かの反応が、脳に何らかの電気信号を送って、喉と舌と唇と顎とかを動かそうとし、それを言葉にする間には、もう「生の私」の反応などは別物に変わってしまっている。

本当の私の本当の反応などはどこへやら。
この文章も本当に私が書きたいことなのか?そもそも何を私は書いているんだ?

ってなもんで、「私」ってあるようでないようで、曖昧模糊とした存在な訳ですわ。

町田康先生はそんな「私」が外界に飛び出ていく前の、限りなく「私」に近い所を写実的に描写しようとしたのではないだろうか。

物語性なんてクソくらえ

物語は意図的なものである。登場人物に名前があり、背景設定があり、物語を進める推進力としての事件や問題があり、何かしらの終わりに向けてベクトルが向いている。

「きれぎれ」や「人間の聖」には、そういったものがほとんど存在しない。
「きれぎれ」の物語の最後を引用してみよう

階段ホールの入口は黒い穴のようだ。空間の破れのよう。黴臭い風が吹いてくる。どうも足許がふらついている。でも外見上、おれは、うまく歩いている。おれは外見上は普通に歩けているように見えているのだ。再度、飛行機が空を引き裂いた。穴の手前で振り返ると、青空。きれぎれになって腐敗していて。

文春文庫 きれぎれ 町田康 P114

これ以前もよくわからんし、これで終わるんかい!
兎にも角にも、これで終わってしまう。

芸術なんてちゃちなもんではない。

である。
文章や言葉の意味から内容に意味を探すけれども、徒労に終わる。
さっきまで理解しかけた流れが、ぶっ壊される。
麻薬中毒者が書いた文章と言っても納得できる自信がある。

しかし、意思を媒介していない私なんてこんなものなのかもしれない。
口語的な表現も、より私の内側に近いものだし、リズムや調子は己に刻み込まれて慣れ親しんだ過去のパターンが無意識に近い形で出た私の表現だ。
ダジャレなんかもその類だろう。

私を写実的に描写するとしたら、慣れ親しんだ言葉があり、己の文化があり、パターンがある。

正直に言えば、「きれぎれ」も「人間の聖」も同じような作品だ。
デビュー作の「くっすん大黒」も同じテイストらしい。

本当の「私」はひとつであるから、ニュアンスは多少違えど出力される内容は同じになって当然だ。

ここまで正直に「私」を見つめた作品があっただろうか。
あけすけのくせに、飾り立てたい。でもそれを阿保らしいと思い皮肉って、ぶち壊し、それなのに出自はおぼっちゃまで、教養があるが、自堕落で、行き場がなく、口も悪くて、取り留めもない。

こんなに作者が見えるのは初めてだが、かえって露出しすぎて町田先生が見えなくなっている。

常々心理描写がどうの、透けて見える意図がどうのと考えている自分が馬鹿らしくなってしまう。それくらいのインパクトがある小説だった。

最後に

ロックでパンクなイメージ通りの破天荒な作品なのに、読めてしまう。
ほとんど独白なので鍵括弧が無くて、文字の詰まり具合が半端ないのに、読めてしまう。

不思議。だけど当分の間は町田先生の作品を読みたくない。
あまりにあけすけで社会的な皮を被っている私には、カロリーが高すぎる。

でも、いずれは戻ってきたい。
物語然とした小説に飽き飽きしたらその時だ。

次に読む本→「きれぎれ」→「れ」→「レプリカたちの夜」

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