読書感想文「仮面の告白」三島由紀夫
感情や身体感覚より、「言葉」によって育ってしまった人間の美しい私小説とはこういうものか…
書かれている内容は理解できるし、自分も感覚的には似通っている部分がある。ただ、こんなにも心の動きに対して、言葉を用いて微に入り細を穿つ様な考察と描写はそんじょそこらの文筆家に出来る代物ではない。
物語中に「言葉でっかち」な部分が先行しすぎて、もっと感覚的に理解できないものだろうかと思いもするのだが、それが出来ないのが主人公の性質であり、「言葉」無くしてはこの物語は完成しなかっただろう。
文体は過度に煌びやかな飾り立てがある感じではないのに、優雅な感じを受けるのは、やはり幼いころよりその才能を磨き続けるしかなかった経緯があり、この文体をして天才と評価されるのも分かる気がする。
主人公の思考は心理学的には「合理化の権化」とでも言ってしまえるのだろう。しかし逃げ口上としての合理化もここまで突き詰めればもはや「道」に近い雰囲気を纏っている。
三島由紀夫を評するのは気が引けるので、気になった部分をピックアップして感想としていくことにしよう。
テーマは自己紹介
まず大前提として、マスターベーションを「悪習」と言ってみたり、SEXを「悪しきこと」の様に暈して書いている行為はあるものの、主人公(三島由紀夫)の心中において「言葉」で説明できない感情というものは無い。
三島由紀夫は「言葉」を中心に、何事をも説明できてしまう知識があり語彙があり、世の中や女性へのメタな視点があり、そのメタをもメタで俯瞰してしまえるほど、「言葉」の巧みさを持っている。
主人公は汚穢屋に心を奪われたところから始まり、聖セバスチャンの絵画に魅了され、近江にその影と自身に無い「男性性」を求めた。そして妄想の中では若く無智な男を残虐な手法で痛めつけるシチュエーションを拵えて、せっせと「悪習」を嗜む。そして自身の戦争という状況下で自然な形で迎える死を望むようになる。
戦争が勝とうと負けようと、そんなことは私にはどうでもよかったのだ。私はただ生まれ変わりたかったのだ。
主人公は女性に対して肉欲が湧くかを幾度か試そうとするが、その度に挫折し、主人公の中で女性が遠い存在になっていく。
なら、いっそ男色に染まり切ってはどうか。と考えるのは時代的に厳しいものがあっただろう。
こんなに普通じゃない自分。生物的に異常な自分。歴史上の偉人の中に男色を好むものがいたことも知っている。言葉を尽くして自己肯定し仮面を作り、しかし生まれつきの性質に仮面を度々剝ぎ取られる。
こうしたことを繰り返すうちに、自身を社会生活ができる程度には「言葉」の力で一般化して誤魔化すすべを得た。だのに、自身から打ちのめされに行くような「普通チャレンジ」を行い、敗れ、もはや自己陶酔の域に達した被虐的な快感を得ている。
なんだこの奇怪な人間はといった感じだが、なんだか分かる。
ここまで詳細に描かれている人格形成物語を読むと、その経緯の中に誰しもがシンパシーを感じる部分があるはずだ。
世の中の理想に対してかけ離れてしまっている自分を手懐ける方法を恐ろしく幼い段階で身に着けてしまった主人公はあれこれ「言葉」を尽くすが、とどのつまりは、「生まれ変わりたかった」だけなのだ。
と書いている。が本当にそうだろうか。
しかし主人公(三島由紀夫)は本当に生まれ変わるとして、どうなりなったのだろうか。言葉を弄ぶことの無い、汗にまみれた無智でヘテロの若者として生き直したかったのだろうか。
そんな希望はないし、そんな未来は願い下げだろう。
言葉に囚われていて、言葉が馴染み過ぎている主人公のことだ。
きっと生まれ変わっても、同じ被虐的な意識を持ちながらそこに快楽を見出す普通じゃない奴になってしまうと理解している。
「皮肉とナルシシズムで塗り固められた人間が私なのだ。どうぞご覧あれ」と自己紹介をすること。それが
カミングアウトと言えばそこまでだが、こんなに美しい文体でこんがらがった人間の内面をスッキリと詳細表現されると、公威君(三島由紀夫の本名)に「言葉」と「文学」があって本当に良かったな。
と思うに到る。
最高に赤裸々で詳細で美しい文体で書かれた自己紹介文を読んだ。そんな感想だ。
自己の精神的被虐の快楽性
主人公が見出している、自分自身が自身の心へ責めを与えることによる精神的被虐の快楽性は私にも身に覚えがある。
私は新婚の際に妻と半年間ほど、ぎくしゃくした時期があった。
仮面を貼り付けたように能面で私に向き合う妻と、上滑っている会話。その妻の態度は私を自己嫌悪の沼にどっぷりと浸からせてくれた。
こう書くと、妻が全て悪いかのように書いていると思うだろうが、そこは問題ではない。自分も悪いし、妻にもよろしくない部分があってタイミングと巡り合わせが悪かっただけだ。
注目すべきはその間の私の行動と心理状況だ。
書物を読み漁り、一般論としての夫婦の在り方を模索し、手段手法を拝借してはチャレンジしては跳ね除けられて、挫折する。何度も手を変え品を変え試しては、また挫折する。
それを繰り返していると、自分の心の動きに集中するようになってくる。
先ず第一に、このような夫婦間の不和は一般的なことであると思い込むことにする。そうして麻痺させて蓋をした心は、何かしらの出来事を切っ掛けに溢れ出して決壊する。
次は自己嫌悪。なぜ上手くいかないのか。なぜ上手く夫として振舞えないのか。なぜ私は不和の問題を一般化したまま、やり過ごせないのか。私の何がいけないのだろうか。
次に考えるようになるのは、そもそも夫婦とは何なのか。という前提となっている条件の精査をし、そこに自身の欲望や理想を重ねてみる。すると、自身に確固とした欲望や理想など無いことが判明し、また前提とされている条件すら曖昧で定義できないものだと考えるようになる。
その後、問題に対して無関心となり(実際は無関心を装うのだが)、自然の成行に身を任せるが、またしても妻側から何らかの癇癪が起こり、対処しなければならなくなるが無関心を決め込んでいるので、心が動かなくなる。
そうなるといよいよ自身が悲劇のヒロインの様な心持になっていく。
なぜ私がこのような過酷な責め苦を受けなければならないのか。
私が悪いというのか。どうしろというのか。
と思うのだが、もはやその「私が悪い」が逃げの常套句となって、「なんだか悪い自分」が取り払われることなく心に浸漬していく。と同時に生活を営むための心の安定の種になっていく。
この心の動きの最中も問題を解決しようと表面上は何かしらの言葉や行動を起こしているが、相手を慈しむとか愛するという心は作動していないので、自身の身体を糸人形の様にメタ的に動かしているだけになる。
こうしなければ通常の生活は送れない。
常に傷ついて、傷をむき出しに生きていくほど感情だけで生きていない。
思考や言葉が先にあり、感情は後回しになっていく。
これが続くと、徐々に糸人形を動かせている自分を評価しだす。
またこれでいいのだ。という考えも湧いてくる。
「自分が悪い」という被虐的な発想から生まれた一連の心の動きは、徐々に自分の脳内のホルモンとリンクするように、倒錯的な安心を産み、最後には「自分が悪い」からこそ、私が私でいられる。それが最善の方法なのだ。という精神にまで到るのだ。
この心の動きは、表面上は誰に理解されたいとも思っていないがゆえに、いや、こんな心の動きは人間だれしもが経験するであろう些末で一般的な心の動きだろうから、表に出すべきではない。という恥の概念があるゆえに、自身の心に深く沁み込んでいく、負の感情を使った精神的なマスターベーションである。
その考えは、中二病的でもあり、自意識過剰であり、非常に幼稚で独善的な考えであるが故に離れ難い中毒症状を引き起こす。
自らを否定することで、一種のナルシシズム的な快楽を得る。
三島由紀夫の問題は男色だったが、私の問題は何だっただろうか。
分からない。子供の頃の親子関係の問題なのか。私の人生における選択の問題なのか。答えは藪の中に隠し、現在の自分を否定し続けることで、今を生きるための糧を得ている。
果たしてこのマッチポンプ構造は取り除く必要があるのか?
まぁ…そのままにしておこう。その方が心地いいからね。
最後に
今回三島由紀夫の自己紹介を読み終えた気分であると書いたが、そんな三島由紀夫が紡ぐ、美しい自己欺瞞の物語を見るのは楽しみだ。
なるべくなら出版された順に読んでいきたい。
割腹自殺に至るまでの生涯はおおよそ理解しているつもりだが、物語を読むことで、三島由紀夫自身にどういった意識の変遷があったかを、必ず三島由紀夫は精巧に書いてくれているはずだ。これだけ自己分析に余念のない人間だから間違いない。
豊饒の海の「天人五衰」まで見届けて、三島由紀夫を語れるようになるのはいつのことか…
私は死ぬまでに三島由紀夫の遺作に辿り着くことが出来るだろうか。
もしかしたら難しいのかもしれない。
ぬるま湯の様なこの「仮面の告白」の精神性が一番心地よくて、私に合った作品だったからね。
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