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C002_『不思議』は生きるエネルギー!!
最後に「不思議」って言葉を用いたのはいつだろう。
気が付けば、見えるもの、聞こえてくるもの全てをそのままなにごともなく受け入れてしまっている。
何もかもを当たり前のこととして、すべてを分かってるかのような気にすらなっているかもしれない。
でも、それは錯覚のたぐいだなと思う。
もっと言えば、実は何も分かってないのだ。
分かってないけど、分かってないことをそのままにして、そのまま受け入れてる。
これは、「不思議」って思う段階をすっ飛ばしてしまってる日常に気づいたっていう話。
「電車はどうやってあんなに早く動くのか」
「空はどうして青いのか。海の青さと何が違うのか」
「世界にはどうしてこんなにも多くの民族や言語が存在するのか」
「どうしてヨーグルトの蓋の裏にはヨーグルトがつかないのか」
「落花生はどうやってできるのか」
「どうしてあの人はあんなにいつも笑顔でいられるのか」
「地震にS波とP波があるはなぜか」
正確には答えられないことばかり。
それでも、日々の忙しさもあって、調べようとはしない。
インターネットで検索すれば、瞬く間に回答が得られる時代であるにもかかわらず。
日々の忙しさの中で、ふっと湧いては消える「疑問」の数々。
ひょっとしたら、そもそも「不思議だなぁ」と感じること自体が減ってるかもしれない。
「そういえば、最近『不思議』って言葉使わなくなったね。」
そんな時代がやってきたら、
「知る」こと自体、一つの作業になり果ててしまってるのかな。
私は出来るだけ気になったことはメモするようにしてる。
「思い付き」にはあらゆる可能性が秘められていると本気で感じているから。
その中には「不思議」に思ったこともメモしている。
さきほど挙げたのは、それらの一例。
「不思議」って気持ちを大切にしたい。
ちなみに今、一番不思議だなって思うことは、
「どうして睡眠が必要なのだろう」ってこと。
壊れた細胞が修復されるとか、記憶が整理されるとか、
分かるようで分からない。毎日してることなのに、うまく説明できない。
睡眠のメカニズムについてもっと知りたいなって思う。
「知りたい」は学習意欲の原点。
学びたくないことを押し付けられても楽しくないのは当然で、
学びは本来、本人の中に湧き上がる「知りたい」をエネルギー源にするもの。
だから、人に勉強させたかったら、その人に「知りたい」気持ちを喚起することが大切。
「知りたい」気持ちを喚起するには、多くの「不思議」に接する環境を整えることが大切。
ただし一つ、気を付けなきゃならないことがある。
それは、不思議が「分かった」に変わると、「コントロールできる対象になった」と錯覚してしまうこと。
たとえば、自然。
自然のメカニズムが分かると予測ができ、一部対処可能になったと錯覚してしまう場合がある。
でも、がけ崩れのメカニズムが分かったところで、土砂の質量に対処できる人間はいない。最初から安全な場所にいる以外、助かる方法はない。
なんでもそう。たとえば、車。
運転免許を取得して、運転の仕方が分かったと自信がついてきたころ、速度出し過ぎ、わき見運転で事故を起こしてしまう。
分かると、コントロールできると錯覚してしまう。つまり、過信する。
そして、分かると「畏れ」が薄まる。
見えないものが見えるようになると把握できたと過信する。
見えなくても存在する赤外線に当たれば、警報がなる。
見えないから畏れる。
畏れは人を謙虚にする。
不思議に思うことは、人を謙虚にもするのだ。
そういえば、牧野富太郎博士は生涯を通じて、自然の「不思議」のとりこでいらっしゃった。高知県立牧野植物園で掲示されていた博士の笑顔は、とても印象的だった。
「不思議」に思う心を強く持ち続けることは、
学ぶ意欲にもなるし、謙虚であり続けられるし、人生を楽しくもするわけだ。
さぁ、世の中の不思議を探しに行こう。
でも、その前に…
この眠気をなんとかしたい…。
どうして人間には睡眠が必要なのだろう…。
不思議だ………Zzz😪