人生は漫画のコマである ー高野文子「奥村さんのお茄子」ー 1話
寡作の天才漫画家高野文子。高野文子の作品集「棒がいっぽん」収録の「奥村さんのお茄子」を紹介してその魅力を考察してみたい。
もう数十年前になるが、高野文子というすごい漫画家がいると当時の評論家たちが褒めていた。読んでみた。確かに、漫画は完成度の高い技法とドラマの展開で「ただ者ではない(偉そうな書き方ですみません)」と感じた。エンターテインメント/ストーリー系の漫画ではないのでスラスラ読むような作品ではないが、どこまでも乾いた描写で内向きに籠って自我をいじくりまわすところがないので読み疲れるところもない。再読するとコマの描写や説明に新しい発見を繰り返した。再読に値する作品のせいもあって、その感動は発酵食品のように日持ちするものの、なぜ凄いかを説明する言葉と理由が見つからないまま、いつの間にか年月がたってしまった。
最近になってその理由とは「もしかしたら、こうかもしれない」と気付いたので、ここにその理由を説明を試みることにした。
デビュー作「絶対安全剃刀」、続く「おともだち」から本作収録の「棒がいっぽん」まで、共通する特徴で、誰もが納得することがあると思う。それは、高野文子が観察して描写する、フツウの「日常」の切り取り方である。畳の上に寝っ転がって無為な時間を過ごしているときに目に入ってくるどうでもよい光景。ぼーっとして生きていた幼稚園児(橋本治が言いそう)のときから大人になってもそれを認識する能力は変わらない。しいて言えば、大人にになると有為な時間を過ごそうとするので、そのような無為の時間は少なくなる。大人になってしまった読者が高野文子の漫画を眺めて、まず気が付くのはそのように少し忘れていた無為でかけがいのないフツウの「日常」の一コマである。その愛おしさと儚さが相混じった幸福感と呼ぶべきものであろうか。
具体的に漫画とそのコマで説明してみよう。「棒がいっぽん」の1ページ目は商店街の外から、お蕎麦屋さんの中の主人公を登場させるまで横長の5コマを使って説明している。いずれも大胆に周辺を切り落とした視野角の狭いフレーミングである。
1番目のコマはバイクの中央付近の大胆なズーム。ドライバーは顔や身体ともかく腿しか見えない。タイヤも見えない。「ブビビビビビビビ」の擬音と「あの」という人の声の吹き出しがあるが。誰から発せられているかはわからない。
2番目のコマでは、バイクが左に移動してその後輪付近のみが「ビビ」の擬音語とともに残る。バイクがよけたので、ここは商店街だとわかる。中央部には飲食店らしき店のドアが見える。そのすぐ手前右はポケットに手、肩掛けかばんの若者らしき人物。左へ移動しているようで、腿から腰のあたりが見える。髪の毛が薄いおじいさんが左からやってきた様子で、自分の左側の蕎麦屋に興味ありそうな雰囲気である。蕎麦屋の隣は何の店か不明だが、黒い上下服の男が店頭で何かを見ている後ろ姿がある。台詞の続きは「ちょっとおたずねしたいんですが」と続くが、まだ誰の話かわからない。
3番目のコマになると、ポケット片手の人物が左に移動し、蕎麦屋のドアから精算をすませたらしい女性が財布をバッグにしまおうとしている。おじいさんはドアを見ており、たぶん蕎麦屋に入るのだろうと思われる。ドアは「ブーン」と擬音語を出しているので自動ドアと理解される。右側には子供を前に乗せたお母さんの自転車がやってくる。隣の店の前にいた黒服の男が右に移動中で足だけが見える。ここで「1968年6月6日木曜日」となぞの台詞が続く。
4番目のコマは、おじいさんが蕎麦屋に入ろうとするところで、自動ドアが「ブーン」と音を出す。これまでの3つのコマよりも少し縦が長い。もしこれを誰かのカメラで撮影したとすると、撮影者が店に2歩ぐらい近づいた感じである。自転車のお母さんは見えないが、移動していなくなったというよりは、撮影者が自転車のお母さんよりもお店に近い位置にいるからかもしれない。蕎麦屋のショーウィンドウには食物が陳列されている。空いたドアから見える店の中の先は、畳席らしく小さな人物二人の陰が見える。ここで「お昼何めしあがりました?」と台詞が続く。
5番目のコマでは、おじいさんは店内に入り、左側はおじいさんの背中。右側は2つのテーブル席に何人かの客とお店のお姉さんがいて。お姉さんからおじいさんにむかって「いらっしぃませー」の声が響いている。コマの中央に小さく二人の人物がいて、右の男性はどんぶりを手にしながら後ろを向き、左の女性はその男に声をかけていたようで、肩越しに頭だけを後ろに向けている。
ここまで整理すると、1ページ目は商店街の光景から始まって、蕎麦屋の中で主人公となする男女がこのような会話を始めるところまでを描いている。コマの中身を細かく読み取るまでもなく、読者はいきなり自分自身が何度も経験したことのあるリアルな日常生活を目の前につきつけられて、まさに色々な音が聞こえ、匂いまでしてきそうな錯覚にとらわれるのだ。
コマを全部説明するつもりではないが、このようなコマの進行の意味を考えながら、話を続けたい。
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