人生は漫画のコマである ー高野文子「奥村さんのお茄子」ー 2話
高野文子の大胆なフレーミングと、コマの間の時間の取り方の上手さは同じ作品集の中の「美しき町」の最初の4コマにも確認することができる。こちらは主人公の工員夫婦の奥さんが鉄道の上の陸橋を渡る姿を描いている。
「奥村さんのお茄子」について考察を進めるに際しては、あらすじを説明していく必要があるが、これは簡単ではない。荒唐無稽な背景設定があり、複雑な展開があり、絵の解釈が必ずしも自明ではない。間違いを恐れずに、少しずつあらすじを説明してみることにする。
主人公は商店街の電気店のオーナーの中年男性である。結婚しており、こんど大学進学で家を離れる子供がいる。電柱の表記からは住所は東京都中野区野方のようである。その主人公奥村さんのところに宇宙なのか未来なのか異次元の世界から若い女性がやってきて、1968年6月6日は何を食べたのか教えてほしい、と聞きにくる。これが冒頭の5コマの会話(質問)の意味である。
冒頭の5コマのあと、意味不明な質問をやんわりと断って帰ろうとする主人公は、若い女性が履いているヒールが足にそのまま描かれたままなのを目にして彼女はどうやら人間ではなくエイリアンのような存在であることを気が付く。読者も全くの日常ドラマだと思って読み始めたところで、これはいわゆるSFなのだろうかと思い始める。若い女性の愛想のよい笑顔も会話の内容と比べてチグハグな印象があって、これも異次元とのコンタクトであることをほのめかしている。
荒唐無稽な背景設定なので、奥村さんもその日に何を食べたかなど覚えていないという理由以上に、そのようなわけのわからないアプローチには関わりたくなく、すぐには応対しない。そのような奥村さんの心理に関しては著者の丁寧な配慮もあって、漫画の展開では若い女性が奥村さんの電気店(家族は子供のアパート探しで不在)を何度か繰り返し訪問して、事情を追加説明するにつれてようやく話の相手をするようになる。
奥村さんが自分をとりあえずは受け入れて話ができるようになったことを確認した若い女性は、1968年6月6日に奥村さんが何を食べたのか知りたい理由を説明し始める。若い女性の先輩は25年前に料理研究所の生徒で、当時石原モーターズで働いていた独身の奥村さんのお昼の食事を調査しにきていたという。なぜ、そのわかっている事実を奥村さんに検証に来たかと言えば、その日、研究所の食器棚の茶碗を先輩が割ったという嫌疑がかけられてしまっていて、若い女性は先輩が調査の出張に出かけていたので犯人でないことを証明したいのだという。
おまけに、その時に先輩は一緒に昼食の卓で食事していた「人」ではなく、土瓶か何かの「卓上小物」の姿で奥村さんを調査していたのだという。奥村さんはこの事実を受けとけめるのに時間がかかりそうな顔しており、若い女性の説明はこの訪問での説明はいったんここで終わる。
次の自宅突撃訪問では、若い女性は先輩が記録したビデオが残っていたと言いながらやってくる。ビデオテープは冷凍うどんで、皿の上に箸でうどんを乗せて、テレビに接続して再生させる。再生された映像は奥村さんの箸の先のアップから奥村さん弁当を食べている顔、隣のテーブルに厨房を担当している高橋さん夫妻の姿も箸の間から小さく見える(但し二人の顔は箸で隠れているという綿密な描写)。奥村さんが茄子を食べているおそらくは数十秒くらいで映像は終わる。その中では、奥村さんが資格検定試験(年に4回ほどある)を受けて、いつもより少し遅い時間(もう食事提供はおしまい)の食堂でもってきた弁当を食べていたこと、映っている壁のカレンダーは大阪万博のカウントダウンのひめくりカレンダーで高橋さん夫妻は毎日きちんと日めくりしていたことを奥村さんは若い女性に説明する。つまりはこの映像は1968年6月6日で間違いないこと、先輩の疑いは晴れたのだと。
この説明のくだりでも、卓上からこの日の奥村さんが弁当を食べている姿が映し出されているが、卓上からの狭い視野角のため、そこから読み取れる情報も限られている。つまりは、その前後の時間や食堂全体の景色のことは知ることができない。それでも会話とカレンダーと本人の現在の記憶からその日が1968年6月6日であるとの謎解きができている。ここで、この作品の主題である、人生の記憶のコマのあやうやさとそれが時に大きな価値を持っていることを暗に示している。それは冷凍うどんのようないつか腐敗してしまうような媒体であって、卓上小物から見えるほんの狭い範囲で、しかも数十秒というちっぽけなもの。それでも、その日付の特定までを可能とするような証拠の断片として価値(特定の人にとって)を持っているのだと。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?