映画「自転車泥棒」レビュー 失われた円環あるいは父の教訓 3話
ここまで自説を展開したところで、重要なテーマを書き漏らさないよう話を進めたい。映画には主人公の父親の自転車探しにどこまでもついてくる子供が登場する。風采があがらない父親の少し貧相な面立ちに比べると子供の目は野性的であり生命力に満ち溢れている。監督が一般市民の中からスカウトしたのだという理由もうなずける。
おそらくは小学生なので足手まといではないが、大人並みに探索能力があるわけではない。ただ、父親の後ろをついていくだけである。父親は自転車探しに必死であるので、子供のことはほとんど御構い無しである。突然のにわか雨で、子供は頭からびしょ濡れになるが、それもよくあることのようで父親は何かしてやるわけではない。これはその当時であれば普通のことだったのかわからないが、現代の日本であればひどい親だと思われることは間違いない。
唯一、父親が子供のことを気にかけるのは、子供を見失ってしまい、探している途中で川に誰かが溺れているのを知ったときのあわてぶりぐらいである。とはいっても、すぐに子供が見つかれば少し安堵の表情をみせるだけである。
子供は、なぜ自転車探しについていくのだろうか。少なくとも父親が付いて来いと言ったわけでないし、子供もなんとしてもついていくといったきっかけでもない。ただ、一家にとっての一大事で、そのなりゆきの印象も強い。
父親が子供を連れて旅にでるというモチーフを映画にみいだそうとすると、すぐには思い出すところはない。ドラマ「子連れ狼」は、まだ幼児であるのでうちで放置しておくわけにはいかない。「砂の器」ではらい病の父親は村から逃げるため子供を連れて行った。「パリ・テキサス」ではいなくなった母親を追って子供を連れて古いアメリカ車を運転して探し回る。この映画では母親らしき赤い車を発見するのは子供の手柄である。
父親と旅する子供の役立ち度は、その年齢に負うところが大きいが、いずれの映画にしても子供の能力を期待しアシスタントとして連れて回るのではない。子供は大人を模倣して成長するのであって、サラリーマン社会ではなかなか親の失敗失態を子供が目にする機会はなくなってしまったが、本来、親の失敗を学習するのが子供への教育なのだと説明することはできよう。
とすれば、自転車泥棒も自転車をぬすまれ再び失業しようとしている父親の姿が子供への教育である。父親に比べて生命力に満ちた瞳の子供は、きっとたくましく成長して社会で生きていくであろうとこの映画の先を推理することは容易である。
その上で、冒頭この映画がリアルな夢のような映画だと書いたことを重ねてみる。すると、この映画は、実は子供が大きくなってから見た夢、あるいは回想シーンとして、父親が自転車を盗まれた話だとすれば、その夢めいたいささか単純なストーリーの展開とオチのない顛末も理解できるところがある。精神分析であれば、さらにそのようなにおそらくは長じて成功した主人公の子供が、幼少期に父親が自転車を盗まれて、自分も一緒に探しまわったことを思い出して、あれが自分の教訓としてその後の人生に役立っただと振り返るのかもしれない。それは自分の物語を作る、という類型的な行為かもしれないが。
もし若いときに映画を見ていたら、たぶんそんなことも思いつかなかったと思う。