映画「自転車泥棒」レビュー 失われた円環あるいは父の教訓 1話
いつだったか、少なくとも随分昔であるが、淀川長治さんが、テレビのこの映画のロードショー番組の予告か何かで、自転車がぬすまれちゃうんですよね、気の毒ですね、と紹介していた記憶がある。あの声と独特の抑揚だけはよく覚えている。映画の粗筋も要約しようとするとそれにつきる。
主人公はおそらくは失業したばかりの若い父親で、妻と子供の三人暮らし。広告ポスターを市内に貼ってまわる仕事のために自転車が必要である。自転車を手にいれるために寝具を質にいれて現金を準備してようやく自転車を手にいれて職にありつける。ところが、仕事の初日から広告ポスターを壁に貼っているその最中に自転車をぬすまれてしまう。その盗まれた自転車を子供と一緒に探す、というシンプルな構成のストーリーである。
第二次世界大戦後にイタリアで制作されたこの映画はネオレアリズモというカテゴリーに分類されるらしい。官能的な描写も洗練されたセリフも大胆なカメラワークもおしゃれな光景もない、地味な写実的映画である。枯葉の塊のようにゴワついて少し大振りの紙幣の束がインフレ時代を如実に描写して、確かにリアリズムだと思った。いずれにしても、この映画を観ることになるのには淀川長治さんのレビューに接してから数十年もかかってしまった。時期を逸したのかと言えば、リアルタイムで鑑賞できたものでもないし、写実主義に留まらない映画の印象を以下のようにコメントできるのも歳月のおかげというところもありそうだ。
主人公は、自転車を盗まれるという災難に遭遇し、その後の自転車探しも困難を極める。自転車の中古市場を丹念に探し、労働争議の集会場に数少ない仲間の助けをもとめ、すがる思いで祈祷師を訪ねる。いっときは、妻が占いを頼むのをあれほど批判していたにも関わらず。その後、犯人と思しき男を見かけて追いかけ、教会の礼拝堂から男の住むアパートまで探し続ける。気の弱い性格なので普段であれば強引な行動にはでないはずだが、生活がかかっているので必死である。
このような犯人探しのシナリオを映画鑑賞中はその展開の速さにひきつけられて見入っていたが、あらためて文章に書き出してみると、これは現実というよりはどこか夢で見たリアルなストーリーという感じがしてならない。四方田犬彦氏はそのエッセイ(「人、中年に至る」)において、その経験からよく観る夢が若いときから中年、壮年とたつにつれて、その類型が変容していくと指摘する。まだ世の中で何ものになっていない若いころは自分が社会で何ものでもないことに起因する恐怖に満ちた夢をみる。中年にかけては公私ともに多忙を極める中で懐かしい学生時代の下宿のような場所を発見して安住する夢をみる。そして壮年にかけては、よく知った日常生活で物事がいつまでも捗らずに焦燥する夢をみる、旨の自説とのことである。
そして自分でも最近よく見るのは、この三番目の夢の類型に近い。例えば飛行機で旅行していて、たくさんの荷物がいつまでも整理できない、あるいは移動のスケジュールが間に合わない、寄り道、間違いばかりで目的地にたどりつかない夢である。脳の情報処理が気持ちに追いついていないというところだろうか。そして、この映画のことを思い出すと、描写がリアルであるというよりはリアルな夢のような描写とも思えてくるのだった。
映画での主人公の自転車泥棒探しでの障壁は、つじつまのあった原因の積み重ねである。その点でカフカの作品に代表される不条理さとは異なる。カフカであれば、本人が何も悪くない(イノセントだ)と認識したことがすでに罪であり、原因なのだ。その点では、本映画は不条理とまではいえない。すなわち個々の事象(不運・厄災)には合理的な理由と説明をつけることはできる。それでも、映画には巧妙あるいは洗練されたドラマで期待するようなオチはない。作為的な筋書きはリアリズムにそぐわないと監督が考えたのだろうか。ハラハラして映画を見続けた人たちは、何の解決もつかないまま、エンディングロールで映画の終わりを認識しながらも、まるで自分がどこか遠く知らない土地でおきざりにされてしまったような孤独感と喪失感を主人公とともに共有することになる。
もう少し細かく映画の構造を説明してみよう。まだ若い主人公は、明らかにそれまで勤めていた会社のホワイトカラーの職を失ってしまっている。妻と子供一人の三人でアパートに慎ましく暮らしているが、双方の実家や係累は登場してこない。つまりは、主人公はおそらくは戦争前までは存在していたかもしれない地元、大家族、会社などの共同体からは見放されてしまった存在なのである。
日本の戦中・戦後の闇市経済を振り返ってみれば、政府の統制を喪失しても庶民はそれぞれの狡猾な方法で、実社会とわたりをつけて、その日の糧を得て暮らしていた。実直な父親よりはコミュニケーション能力の高い母親の方が買い出しにも長けていたりする。そこでは、戦前の延長または新たに形成されたコミュニティ、人の繋がりの存在が生命線である。坂口安吾であれば、倫理から堕落してでも生き延びることが正しいと論破して戦後の庶民のコンセンサスを一気に獲得した。ただし、高度成長時代でそれが当たり前になるとすぐに坂口安吾は忘れられたのだが。
その観点で、映画を眺めてみると、主人公には共同体はない。唯一協力してくれる仲間は、労働者組合の集会場にたむろしている連中で、こういうときは中古自転車の市に行くのが一番だと連れていってくれるが、十分な頼りにはならない。そこは似たような自転車ばかりでなく、ペダル、ハンドル、サドル、タイヤと分解された部品がどっさりと山積みで売れていて、自転車は到底見つからないだろうと、視聴者も主人公とともに絶望する。自転車がダメなら犯人の顔で探そうという展開で、脚本進行上は都合よく犯人と記憶する男を発見する。男は教会での食料の無料配給所に逃げ込み、そのまま礼拝堂のミサに紛れ込む。主人公は必死なので、神聖なミサの場で注意を受けながらも、その男を連れ出すことに迷いはない。捕まえた男は、また逃げて自分の自宅アパートと逃げこもうとするが、自転車を盗んだかと尋問している間に持病の癲癇か何かで人事不省となってしまい、それ以上の追及はできない。むしろ、男のアパートの近隣住民たちが集まってきて、男に危害を加えたと糾弾し始めるのだった。視聴者もひょっとしたら人間違いだったのではないかとの思いも頭をよぎる。
つまりは、主人公は教会や労働者組合や地元の住民の仲間、いずれのコミュニティにも属していない、社会から追い出されてしまった状況こそが、自転車を喪ったこと以上に根深い問題なのであった。
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