エッセイストを育てる家 二話 ドラマ「小石川の家」レビュー(続) 幸田文・青木玉・久世光彦
ドラマを観たあとで、原作のエッセイも読んでみた。
幸田文の「父・こんなこと」は、父の具合が悪くなったころから亡くなるまで、そして葬儀の顛末が淡々と描かれている。続いて一話完結で父とと暮らしていた時のエピソードの随筆が並ぶ。エッセイでの幸田文の父に対する感情の吐露はあっさりとしていて、父に対抗するような主張もなく、ただ父親とその周辺で起きたことを観察して記述している。まるで、幸田文というカメラが蝸牛庵に設置され、エッセイで撮影した映像を再生しているかのようにも思えてしまう。
露伴の逝去によって、その収入も亡くなった幸田文は、おそらくは離縁の頃から世話になっている小林勇等の支援もあって、露伴のことをエッセイに書いて多少の収入を得るが、まもなくそのような文豪の娘としての特別扱いを嫌って、エッセイを書くことはしなくなる。
女中の仕事を少し経験(その時のことを「流れる」で作品化)した後に再びエッセイを書き始めるのだが、執筆に戻る顛末は明らかではない。ただ確認できることは、その後も露伴との生活のエピソードや昔から伝えられてきた作法、その後の身辺雑記をテーマとしてエッセイを生涯書き続け、その全集は露伴全集の半分ほどになったということであり、その文量では父に劣らない文学者になったのだと言える。父露伴のような歴史や漢籍の世界に真理を追究することはなかった。一方で、その日常の観察力は自然現象と社会のつながりにも注がれて、年老いてから山崩れの現場を訪れて「崩れ」という作品を上梓するに至った。昆虫記のファーブルを思い出させるような行動である。
露伴は予想だにしなかったことであるが、こうして娘の文は文筆業という稼業をしっかりと引き継いだのであり、父露伴の厳しさと口うるささは戦後に幸田文という名エッセイストを生んだのである。
さて、娘の青木玉のエッセイ(「小石川の家」、ドラマと同名)はどうだろうか。幸田文も亡くなり、昭和も終わってしまった後の1994年の作品である。玉は医師の青木正和と結婚して、恐らくは専業主婦のようであり、少なくともそれまで文筆を仕事としていない。幸田文全集の監修をきっかけに編集者から声がかかったようである。
このとき六十四歳の玉のエッセイは、あきらかに少女時代の厳しかった祖父の思い出が、それまで誰にも言えなかったことを一気に吐き出すような文体で綴られている。表現や文体の点でも母の文のそれとは大きく異なる。わかりやすく言えば、文章はこなれているが、現代のフツウの人が素直に書いた思い出のエッセイである。内容はドラマのそれと異なるところはあまりない。玉は、このエッセイで祖父の呪縛を解いたはずであるが、これをきっかけにもう一人の敗者(事業で失敗、結核で早世)の父の名誉回復・鎮魂も自分の役割だと考えたようである。3年後には「帰りたかった家」で父の思い出を書いている。
幸田文がエッセイストになったのが40代の中年に対して、青木玉は60歳を過ぎての老齢期である。エッセイを書くことで収入を得る必要がない実生活と境遇の中、青木玉は少女時代の厳しかった祖父のおかげでエッセイストになれたとも言えるし、それまでのわだかまりを60歳を過ぎて昇華させる機会を得たともいえる。幸田家という歴史でとらえれば、大政奉還後の130年ほどのファミリーヒストリーがここに完結した。
仄聞したところによれば、青木玉のお子さんの青木奈緒もエッセイストとのことで、作品は未読であるが、ファミリーヒストリーは終わっていなかったと訂正しておこう。