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メコンデルタに残る戦争と開拓の記憶―今しか書き残せない語り

9月2日はベトナムの独立記念日です。ベトナム国内外で暮らすベトナム人の友人たちの多くが、FacebookやInstagramに、独立記念日にちなんで独立を尊び、愛国心や今後の国の発展を祈る気持ちを表す投稿をしていました。
本当は独立記念日のうちにこの記事を出したかったのですが、8日遅れで投稿します。


「日本」が度々登場するホーチミンの独立宣言―日本人が知らない歴史


今年はホーチミンが1945年に独立を宣言してから79年目でした。独立宣言には、「日本」が何度も登場します。その当時の、ベトナムの日本観がよく表れています。以下に全文訳を貼っておくので、のぞいてみてください。

この記事のサムネイル画像の"KHÔNG CÓ GÌ QUÍ HƠN ĐỌC LẬP TỰ DO"は「自由独立より貴重なものはない」という意味です。かつてベトコンに参加したご家族のお宅を訪問した際に、撮らせて頂きました。今は亡きご主人がこの文言を大切にしていて、独立から今まで家の入口にかけているそうです。

調査地で感じる、戦争の近さ―メコンデルタ・ミェットゥー(Miệt thứ)の人々の語り


私の調査地はCái Lớn川左岸からCà Mau省にかけて南北に伸びる、Miệt thứと呼ばれる地域です。内陸から海に向かって自然河川が10本流れ出ていて、それらには順番にThứ nhất(第1), thứ 2(第2),…と番号がついています。 "thứ"を冠した地名が多いのでMiệt thứです。

Miệt thứについては次のビデオも参照


この地域で村の人たちと関わるようになると、戦争がいかに身近であるか、今も人々の記憶に強く残っていて、それが今の人々の暮らしに密接に関連していることが分かります。義足の村人は、従軍中に地雷で脚を失ったことを話してくれました。おじさんたちのいる飲みの席では、私の存在も多分に関係していますが、戦争の話になります。

Miệt thứには、U Minhの森という、カユプテ林が鬱蒼と生い茂る泥炭湿地があります。U Minhは漢字で書くと「幽瞑」で、この世ならぬものが現れ出てきそうな、雰囲気が地名からも分かりますね。この森は、戦争中に、ベトコンの拠点となったことで有名です。今のU Minhの森があるのは、Kiên Giang省のU Minh Thượng県と Cà Mau省の U Minh県の2か所ですが、戦時中はその範囲はもっと広かったと考えられます。

Kiên Giang 省U Minh Thượng国立公園
筆者撮影

この記事では、まだ森があった当時、想像を絶する困難な時代を生き延びたT翁(当時92)の語りを紹介します。
この地域の歴史を聞きたいと調査地の母にお願いし、義父にあたるT翁宅を訪れました。ハンモックに座ったT翁を、その娘さんたち3人と私で囲み、若い頃から戦争が終わるまでの壮絶な経験を、時に冗談も交えながら2時間近くも、淡々と聞かせてくださいました。

T翁は、今年、92歳で亡くなりました。この語りがいかに大切で、これから戦争を知っている世代が高齢化していく中で、もっと貴重になっていくのかを考えた時に、記事にしようと思った次第です。
激動の時代を耐えて静かに生き延びたT翁に心からご冥福をお祈りします。

激動のメコンデルタを生きたT翁―1932年生まれ、11人の父

2023年1月19日に、T翁とその娘さんたちに、戦前、戦時中の生活について聞かせて頂いた語りを書き印ます。敬意をこめて、皆さんの語り口調のまま書きます。メコンデルタ方言は筆者の母語である関西弁に訳しています。(標準語にするとどうしても違和感を覚えてしまうので)

Miệt thứ の原風景―1930年代~


T翁:じいちゃんが生まれたのは1932年。その当時は第1から 第11までの川は小さくて、掘って広げていたthứ 2でも幅は1.5mくらい。ズボンを膝までまくったら濡れんと渡れるくらい浅かった。昔は森やったから水路も小さかったんや。森を切って水路を大きくしていった。第7水路は、アメリカ(旧サイゴン政権)の味方についたベトナム人が村の人をとっつかまえてU Minhまで掘らせてできたんや。イノシシがいっぱいおってな。浅い池に入って魚を捕まえとったんやろう、足跡がぎょうさん付いててな。怖かったわぁ。足跡あるのに朝になったらおらん。そん時は魚がものすごいおって、エビも(腕の太さを見せながら)こんぐらい、ごっつでかかったんや。

その時はlúa mùa (在来のイネの品種の1つ。水面の上昇とともに丈が伸びる)を作ってた。旧暦の4月に田んぼの一か所に植えて、1か月くらい育てたら6,7月に植え直す。昔の田んぼは草と一緒にイネも植えてたから、ある程度イネを育てて、他の草と混ざっても育つくらいになったら、固めて植えてた苗を田んぼ全体に植え直してたんや。収穫は11,12月。1~3月は何もせん。水がないから田んぼに魚もおらん。土の酸を洗い流す溝を掘ってたかな。
魚もイノシシもエビいっぱいおったから買わんでええねん。

フランス植民地時代、旧日本軍の進駐、旧サイゴン政権体制下を生き伸びる

T翁:じいちゃんの両親はCan Thoからフランスと一緒にここに来たんや。自分の土地はなくて、地主が任せたところを耕した。イネができたら、地主が全部とっていった。
四女:昔はお金がなくてね。機械もなかったから、1 công(この地域では1 công=1296㎡)で10 giạ (1giạ = 20kg. giạは収穫した籾米を入れるブリキ缶)できたの全部地主がとっていったわ。
T翁:地主は上に座って、自分たちは地面に座ってた。

学校?フランス植民地の時にはここの村にはなかった。地主の子供とか孫が行く学校が他の村にはあった。アメリカが来て、学校ができたんや。
その前に、日本が来た。日本が来た時、ここに刑務所はなかった。日本軍の荷物をとった村人がいた。そしたら、手を切られた。もうよう盗まんように手を切った。70人も80人も。刑務所がなかったから。日本は、ここからCa Mauまで来とったんやで。

(旧サイゴン政権に)捕まった家族もおった。でも逃げた。ここからMiền Đông (広く、ベトナム東南部を指す)まで逃げて、3か月かけて帰ってきた。

四女:昔の政権(旧サイゴン政権)はもうすごい酷かった。捕まえた人を殴って割いて殺したんよ。
T翁:金があれば、捕まっても釈放されたけど、なかったらそのまま徴兵された。20歳過ぎから40歳くらいまでやったら徴兵。1000から2000(単位不明)くらいお金渡したら逃がしてもらえた。

筆者:ご自身はどうされてたんですか?
長女、次女:お金がなかったから隠れてたんや。
T翁:40いくつの時や。この辺は3軒くらいしか家がなくて、家どうしも離れてた。革命に参加してる人たち(ベトコンのこと。翁はcách mạng と呼んでいた)はまだこの辺には来てへんかったな。

筆者:隠れていた時は家族で森にいたんですか?
次女:朝7~夜9時に徴兵しに男を探しに国家(旧サイゴン政権の兵士)がくるので、森に隠れた。おばあちゃんは家にいた。次の日もその次の日もそう。村人を捕まえて、金を渡されたらその捕まえた人のもの。

筆者:女性たちは捕まらなかったんですか?
次女:捕まらんかった。政権側の兵士は、革命を手伝っている家を知っていても、捕まえんかったよ。

T翁:近所に5番目のおばあさん[1]という人がいてなぁ。
ベトナム民族英雄の母なんや。(旧サイゴン政権の)兵士が来たら手りゅう弾を投げて、森に隠れてる男の家族に知らせるんや。兵士も、5番目ばあさんがベトコンを匿ってることも知ってたけど、追求せんかった。ばあさんの夫はベトコンやったんや。

ある時、兵士がばあさんの夫を捕まえてベトコンかと問いただした。「家に手りゅう弾をしかけたから隠したら爆発させる」と脅して。でも、ばあさんは手りゅう弾が仕掛けられてるのに気づいて、他のところに投げて爆発させたんや。

次女、三女:すごいわぁ、よう気づいたもんや。

筆者:隠れている時は、お腹すいたらどうされてたんですか?
T翁:子供に運んできてもらってた。
次女:(T翁が隠れている)森から出てきて、森に入っていくのを、もしも(旧サイゴン政権の)兵士に見られたら捕まって殺される。ご飯を運んでいる時に兵士に出くわすのが怖くてしょうがなかった。森はここから1kmくらいで、ヒルギの森[2]やったんよ。

かつて村人が隠れていた森があった場所の近く。当時の海岸のマングローブ帯は、現在では開かれて養殖池となっている。現在の海岸には護岸用に政府が2000年代に植林したマングローブ帯が立地する。

三女:その時は、ぼろぼろに破れた服を着とった。いい服着てて美人やったら兵士に捕まって妻にされる。
T翁:白っぽい服きてたら普通の人。(旧サイゴン政権の兵士に)撃たれる前に問いただされた。黒い服、茶色っぽい服やと(ベトコンかと)聞きもせずに撃ってくる。夜の11時か12時、銃声が聞こえんくなった頃にやっと家帰れた。
藁の中に隠れてた人もおった。そういうのを見つけるために兵士が藁の山を銃で叩くんや。思い切り。叩かれた人は血吐いても声上げんように我慢した。もしおるって分かったら、その場で撃ち殺される。
家の前で捕まって、水に沈められた人もおった。誰がベトコンか吐くまで沈めるねん。それでも、その人は言わんかった。

次女:朝から夕方まで何も食べてなくて、あんまりにもお腹すいて、食べ物取りにいったことがあってね。やっと届けて森から出てきたときに、ちょうど兵士に出くわして。怖くて死にそうやった。

次女:ごはんを届けるときは、バナナとナイフと(森の中の人々に届ける)お米を持って行ってたわ。兵士に会ってどこに行ってきたか聞かれたら、バナナを取りに行ってたって言うねん。ごはんを届けてることをばれんようにするためにね。ばれたらそのまま撃たれるから。

次女:大きな菅笠(nón lá)が竹にかけてあったら、兵士たちが自分たちの家から帰ったという合図。兵士たちが帰ったことが分かって始めてやっと一息つけた。
長女:かけてあったら今日は来ていないということ。どの家族も、森にいる家族に知らせるサインがあったんよ。

戦後の土地取得、農業、暮らし


T翁:南部が解放されて、やっと森から出てこられた。
次女:その時は空襲で地面がぼこぼこ。昔耕してた土地は全部売り払ったわ。穴だらけで稲作なんてできん。
T翁:何か目標物があったらそれめがけて爆弾を落としてきたんや。
次女:朝から夕方まで働いても穴は埋めきれるようなもんじゃなくて、とっても深かった。腰くらいまであってね。やから田んぼ全部売らんとあかんかった。直そうにも直せんかったから。20、30 cong(約2.6~3.9ha)あった。穴をさけて穴の回りにイネを植えたりもしてたんやけどね。

T翁:その当時は水牛をお金払って借りてきて、土耕してたんや。まだ不発弾が爆発して死ぬ人がおるやろう。40-50年にもなるのに。今年は不発弾を見つけたカマウの人たち4人がみんな亡くなった。

筆者:戦争が終わった後、生活はどうされてたんですか?

次女:戦争が終わってから、30 côngを国からもらった。

T翁:北ベトナムに協力して戦いに行って(行き先は不明)終わって帰ってきたら土地をもらえた。18歳以上は1人10 công (この地域では1 công=1296㎡)もらえたんや。3人家族だったら30 công もらえた。1区画200 côngある国営農場(trang trãi)があった。それを(ベトコンに)参加している人に分け与えていたけど、自分はもらわんかった。18歳以上じゃないと土地をもらえない。家族の中で5人分しか割り当てがなかった。

次女:戦争が終わったとき、16歳やった。道沿いにイネを植えて、田んぼをならして、平らにできたところに植えた。でも、水浸しで何にもできなくてね。今みたいにポンプなんてない。イネを植え直して、食べるものもなかった。イネは実ってもちょっとしかできないから、買って食べるしかない。国の補助もないから、自分で何とかしないとあかんかった。
その時はおかずがなくても、醤油がなくても平気。ごはんを塩とか魚醤で食べた。飲み水はないから大きくて深い池を掘ってそこの水汲んで飲んだ。今は農薬使うからよう飲まんけど。今はエビの養殖してて塩水やから飲めへんね。

T翁:昔は雨が降ったら腰くらいまで水浸しになった。やから1 côngあたり、イネを 7-8kgくらい高密度で植えたら枯れる。枯れたらその分赤字になる。密度低く植えるんや。そしたら植えた分だけとれる。水が浸かったんは(旧暦)7~10月くらいまでや。
水が浸かる時には網を仕掛けてライギョとかキノボリウオを獲って、サイゴンまで売りにいったんや。Cá sạc rằn [3]も大きいのがおって捕まえた。ポンプで水を出して魚を捕まえては売ってお金にしてたもんや。1kgで10ドンちょっとになった。17ドンも売れたら儲かった方や。街までいって、そこからサイゴン行のバスに乗る。夕方5時に出て朝5時につく。そのバスはカマウとかチャウドックにもいくんや。氷なしで、魚死んでもまだ生きてても売れた。
その時は道はがたがたやった。魚の袋に入れてた水がなくなっちゃうからどこかで止まったらまた水を入れ直さなあかん。
サイゴンには1人で行ってた。年に2,3回。テトの前ときとか。その時は40いくつくらいやった。知り合いの仲買人に売っていた。100-200kgくらい買ってくれる。けどもう売ってた場所はなくなってるやろうな。
 
---語りは以上です---
語りの中の脚注
[1]ベトナム南部では、敬称に生まれた順番に1を足した数字を付けて呼ぶ習慣がある。例えば、長子であっても「第2子」という言い方をする。T翁が言及した「5番目のおばあさん」はベトナム語ではBà 5 という。高齢女性や年齢を問わず女性の敬称として用いるBà に生まれた順番に1を足した数字5を付け加えている。Bà 5は四女であることに注意。

[2]ベトナム語では真正マングローブのヒルギ科に属する樹種を総称してcây đướcと呼ぶ。cây đướcは支柱根が発達している。

[3]Trichopodus pectoralisの現地名。メコンデルタでは干物にして食べることが多い。

Nhật Bản(日本)とNhựt Bổn (日本)

T翁たちが生き伸びたのは、家族しか信じられないような、想像を絶する時代です。T翁ご家族の語りは、その時々に対応しながら、どうやって暮らしたのかを教えてくれます。この語りを書き起こしたいと同世代のベトナム人の友人に話した時、「昔のベトナムの話とどう関係あるの?発展のためには昔ばかり振り返ってもしょうがない」という反応でした。
T翁たちの生き様は、語られなければ、書かれなければ、誰にも顧みられずに静かに閉じていきます。そのように過去のものとして人々からの関心が薄れるがままに、放っておくのは嫌だと思うのは、私だけでしょうか。

ベトナム語で日本は、基本的にはNhật Bản と言います。同じく日本を意味する単語、Nhựt Bổn という言い方があります。その意味は、地域差はあるのかもしれませんが、私の調査地では、ベトナムを侵略していた時代の日本を指す蔑称です。Nhựt Bổn という言葉には、卑劣で酷悪な旧日本軍のイメージが伴います。

調査地でのある日、聞き取りを終えて村の人たちと車座になって話を続けていた時に、冗談半分で1人が言いました。「君はNhật Bản人?それともNhựt Bổn 人?」
あなたは何と答えますか。





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