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aiko 花火 / その時代性について

本来は綾戸智恵が歌うブルージーな拍子と旋律を、オーバーオールのじゃりン子チエらしき少女(?)が跳ねまわるように歌っていた。
1999年、ミュージックステーションだったか、スペースシャワーTVだったか記憶は定かでない。衝撃だった。動物的なまでに躍動するリズム。メランコリックに揺らぐメロディー。個人的に大好きな曲なのは間違いない。
でも何故、この風変わりな曲がリリース後20年以上を経ても根強い人気を誇るのか? 
曲の普遍性を別として、その歌詞と時代性との関連から考えてみたい。

まずは「花火」の世界観が凝縮された、このフレーズに着目してみる。

夏の星座にぶらさがって 上から花火を見下ろして
こんなに好きなんです 仕方ないんです

花火(作詞:AIKO)

ぶらさがる夏の星座には、はくちょう座、こぐま座等々可愛らしいものが多々あるが、実は蠍座もある。蠍座はaikoの太陽星座だ。蠍座は欲望に忠実で、執念深く、人に深くコミットしていく。そして自閉・内向する。
ライブ映像で、客席からの「aiko大好きー!」にaikoがこう返事をしたのが印象的だった。「ややこしいで、私」と。それは蠍座の一面がダイレクトに露呈された瞬間だった。
そもそも「ぶらさがる」ということは、そこに重力らしきものがあるらしい。それに抗い必死にその星座につかまっているのだ。それは、かろうじて保たれた危うい均衡の上に成り立っている世界だ。ふふんと安直に腰をかけているのとは訳が違う。

そして「花火」の主役は、好きという状態を自制することができない。自分の意志から既に離れているからなのだろう。
その手に負えない心情が吐露されるのは、上から花火を見下ろした時だ。
花火は今抱えている恋の隠喩であり、幻影でもある。それを下からでも、横からでもなく、上から見下ろすのだ。上から見下ろすということは、世界を俯瞰している状態であり、客観的だ。つまり現状(相手との関係あるいは無関係と、周辺の要素)を正確に把握できているのだ。
確かに、決して届くことのない相手との隔絶された空間と距離から生じる憧憬の念を表現するのであれば、下から見上げる花火になるだろう。その背後には星々が煌めく夜空に包まれている。
しかし、上から見下ろす花火の下に広がるのは実生活が営まれる地上であり、鮮やかな花火自体も連続したリアルに取り込まれた情景だ。つまり、それはただ美しいだけ、というわけにはいかない。
この世界観が映すのは、内在する狂気と正気のせめぎ会う精神状態と、今現在を生きる日本の時代とが絡み合った世界ではないだろうか。
そこで、次のフレーズの対比を見てみよう。

三角の目をした羽ある天使が恋の知らせを聞いて
右腕に止まって目くばせをして
「疲れてるんならやめれば?」

三角の耳した羽ある天使は恋のため息聞いて
目を丸くしたあたしを指さし
「一度や二度は転んでみれば」

花火(作詞:AIKO)

恋する主人公の前には2種類の天使が降臨し、相反する提案を囁く。
一方で消極的な天使は、「疲れてれるんならやめれば?」とブレーキを掛ける。
他方で積極的な天使は「一度や二度は転んでみれば?」とアクセルを促す。

果たして一体この天使たちは何者なのか?

消極的な天使の言葉を翻訳すると、こうなる。
「そんなに自分を酷使することないのでは?体力的にも精神的にも疲弊した上に、自分が壊れちゃったら元も子もないよ。しかも、そんなに頑張ったって想いが叶うかどうかも分からないし。」
疲れることのデメリットに基づく提案の背景は、未来展望の暗さにある。つまり先が見えない不景気に起因している。であれば、あくせくしてもしょうがない、「ゆるく」いこう、疲れないように。自分を大事に。
そこには社会に広がる閉塞感と諦念の影響が少なからず含まれているのだろう。

反して積極的な天使はこう言う。
「やってみないと分からないし、ダメでもいい経験になるんじゃない?それはそれで未来に活かせるだろうし、想いはいつか叶うかも知れないよ。」
この背景は言うまでもなく未来の展望の明るさであり、好景気によるものだ。その先に大きな落とし穴があるかも知れない、などと露程もよぎることはない。多少「きつく」ても大丈夫、栄養ドリンクを飲んでさえいれば。
これは好景気と親和性の高い開放感と希望への執念の影響だろう。

無意識レベルでの気分(鬱/躁)の働きに作用しているものは、何かしら大きな雰囲気であり、つまりそれは時代がもたらすものと推測できる。よって、天使は時代性の表れと言える。

この曲が広く長く受け入れられる理由は、「疲れてれるんならやめれば?」という言葉が90年代後半以降の日本と相性が良かったことが一つの要因と考えられよう。
逆に80年代後半から90年代前半では、このようには受け入れられなかったかもしれない。それは日本がモニュメンタルなまでの好況だったからだ。当時のヒット曲の歌詞からは想像だにしない「ゆるい」キーフレーズなのだ。
例えば1989年のプリンセスプリンセスのDiamonds/Mを見てみよう。
Mはバブル絶頂期の失恋ソングだが、そのキーフレーズは「So once again」だ。さらにA面のDiamondsでは「ダイアモンドだね」だ。
そして1990年のKAN「愛は勝つ」に極まる。「心配ないからね」と出だしからポジティブだ。キーフレーズは「信じることさ 必ず最後に愛は勝つ」だ。
当時の世相はバブル真っ只中で、エネルギーに満ち溢れていた。(当時のコカコーラのCMを見よ!)
とにかく今が楽しいし、未来をなんとなく信じることができた。頑張れば、その分報われるに違いないと。(例外はあるけれど)
仕事で疲弊しても、しば漬けを食べたら回復していたような時代だ。「ああ、しば漬け食べたい」(CM フジッコ・1987年)
そして「距離にためされて、ふたりは強くなる。」(CM JR東海・1991年)に至る。
私事だが90年代後半の大学、心理学の授業で最初に講師が放った一言は、「恋は県を跨がない」だった。
むしろバブル期の日本には、「一度や二度は転んでみれば」が自然と馴染むに違いない。

では1999年とは、どんな時代だったか? 
aikoは就職氷河期世代の主役だ。厚生労働省の定義する氷河期世代の幅*は想像以上に広いが、aikoこそがど真ん中の世代だ。(*: 概ね1993~2004年に学校卒業期を迎えた世代を指す。)
就職活動で言えば、最後の掲示板世代だ。その掲示板は空しくも、過去に見た賑わいは皆無だ。当然である。銀行や証券会社が破綻していき、完全失業率の記録更新を続けていた時代なのだから。
青春期にバブルを謳歌したアクセルの世代に対して、その負の遺産を背負うハメになった次世代がブレーキを踏んでしまうのは自然なことなのだ。時代と恋愛スタンスの関係は深い。取り巻く環境と雰囲気が生活スタイルに及ぼす影響力は絶大なのだから。つまり、恋愛への姿勢と経済の状況は何かしら関連しているのだ。

「疲れてれるんならやめれば?」は怠惰の勧めではなく、心身を健やかに保つためのアドバイスである。
自分の「恋愛ジャンキー」(aiko 桜の木の下・2000年)という狂気を熟知する故の、あるいは前途多難な恋への暴走と破滅を危惧する故の処方箋なのだ。
せっかく飼いならしたはずの恋の錯乱を解き放つ勇気は無い。
そして、逃げることは一つの選択肢だと知っている。前に進むこと(=接続)こそが良しとされていた時代の失敗から得た教訓であり、「過剰」との距離の取り方(=切断)を無意識に身につけたためである。
2度、ましてや1度だって転ぶことは許されない。転んだら起き上がれないかもしれないのだから。

最終的に、それぞれ異なる天使の提案に対する応答(選択)は次のフレーズに収斂される。

赤や緑の菊の花びら 指さして思う事は
ただ1つだけ そう1つだけど
「疲れてれるんならやめれば…」
花火は消えない 涙も枯れない

花火(作詞:AIKO)

夏の花火は菊へと変化する。菊は秋の季語であり、花言葉は「高貴」だ。
つまり心情内の季節は移り、この恋愛を自分の中で消化=昇華させたのだ。
「疲れてれるんならやめれば」という天使の言葉を、自ら咀嚼し「指さして思う」に至った末に。
それでも「花火は消えない」し、「涙も枯れない」けれど。

こうして見えてくるのは、「花火」は自らの恋愛に対する妄執気質の影を恐れる故の「ゆるさ」による「切断」の物語なのだ。不況という時代が用意した舞台(夜空)の上で。
その「ゆるさ」は、抑制せざるを得ない人々の共感を誘う。
その共感こそが「花火」の継続した人気の遠因であると言えるかもしれない。

不況は続く、故に人気も続く。
この結論はいささか性急過ぎるだろうか?




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