出雲口伝における物部伝承⑨大彦VS物部(補足)近江の銅鐸埋葬
前回の記事で、出雲口伝に関連する書籍より、「第一次物部東征」において「物部勢力」に圧され「大彦軍」が北に退却した内容を紹介しました。
この記事では、「考古学的な視点」で2世紀末ごろの近江について見ていきたいと思います。
<野洲川付近の主な弥生遺跡>
【服部遺跡】
弥生時代前期の広大な水田跡がある。
野洲川が形成した三角州に営まれた集落。
【下之郷遺跡】
弥生時代中期の大環壕集落。
【伊勢遺跡】
弥生時代後期の1世紀末にできた集落
2世紀末(倭国大乱の頃)に突然、放棄される。
その頃、近くの三上山系の大岩山に銅鐸を埋める。
【下鈎遺跡(しもまがり)】
弥生時代後期
伊勢遺跡とともに原倭国(近畿政権)の中核だった
伊勢遺跡が祭祀を中心に、下鈎遺跡が祭祀と青銅器生産を担っていたと考えられます。
下鈎遺跡では、銅鏃が数多く出土していること、未成品(鋳造しただけでまだ仕上げていない半製品)の銅鏃が見つかっていること、青銅製品の鋳型、鋳造の際に付随的に出てくる銅残渣(銅のカス)や銅湯玉なども出土していることなどを考え合わせると、この地で青銅器を生産していたと考えて間違いないでしょう。
野洲川下流域から湖東地方を見渡せば、青銅器生産にかかわった遺跡が多く、大掛かりな青銅器生産拠点がこのあたりにあったと考える考古学者もおられます。
また、下鈎遺跡からは水銀朱生産に用いたと推定される石杵も多数見つかっており、水銀朱生産も担当していたようです。
【下長遺跡】
弥生時代後期末から古墳時代前期にかけて栄えた。
伊勢遺跡の衰退後、この地域一帯を統括した首長が居住したと想定される居館跡などが見つかっている。
<伊勢遺跡>(補足)
<大岩山銅鐸>
野洲市の大岩山では、明治と昭和の2回の発見で合計24個の銅鐸が出土しており、一ヶ所から見つかった銅鐸の数としては、島根県の加茂岩倉遺跡の39個に次いで多い数です。
加茂岩倉遺跡の銅鐸は古い「聞く銅鐸」で、サイズの小さな銅鐸が出土。
一方で、大岩山の銅鐸は新しい「見る銅鐸」です。サイズが大きい銅鐸が出土しています。
*日本最大の銅鐸:
大岩山から高さ135cmの最新式かつ最後となる銅鐸が出ています
●出土の特徴
・古い銅鐸から新しい銅鐸まで、幅広い時代範囲にまたがった銅鐸が出土している
・近畿式銅鐸と三遠式銅鐸が同時に出土
<勝部神社>
所在地:滋賀県守山市勝部
御祭神: 祖神「物部布津神」
天火明命(あめのほあかりのみこと)(またの御名は饒速日命)
宇麻志間知命(うましまじのみこと)(天火明命の御孫)
布津主神(ふつぬしのかみ)
御由緒:
孝徳天皇(36代)の大化五年(六四九年)に領主であった物部宿彌広国が 物部郷の総社として創建。
<ちょっと考察です>
【伊勢遺跡】や【下鈎遺跡(しもまがり)】は 「ヤマトの既存勢力」の集落で、九州勢力である「物部軍」の侵攻により、大和盆地から「大彦」の勢力が逃げてきた。
そして、「物部軍」がこの地に迫っていることを知り、信仰の対象であった祭祀具の【銅鐸】を壊されないように【大岩山】に埋めて、この地から大彦たちは去っていった。
【物部軍】は野洲川付近を攻略した後、【下長遺跡】を野洲川付近の拠点とした。
(※この遺跡には、大きな居館跡などが見つかっている)
そして、時は移り、7世紀に物部氏の子孫が、祖神である「物部布津神」を祀るために【勝部神社】を創建した。
そのような光景が目に浮かびます。
(つづく)