見出し画像

彦坐王の血統⑰まとめ

 これまでの記事で、「彦坐王(日子坐王:ひこいます王)」の一族について伝承を調べてきました。この「彦坐王」は 開化天皇(9代)の皇子ですね。

 この記事では これまでの情報をまとめたいと思います。

【なぜ「彦坐王」一族を調べたのか?】 

「3世紀中頃」に「銅鏡の文化」が北九州から大和にシフトしていき、そのころ纏向遺跡(奈良)にて古墳が作られ始め、古墳に銅鏡が埋葬されるようになります。
 この「纒向遺跡」の成立が『実質的な日本の建国』と考えます。ここでの最大の疑問は、「卑弥呼」と「古代天皇」の関係です。

 これらを理解するために、ここまで「初代」~「13代」の古代天皇に関する記紀の記載を調べてきました。そして、その中で次の3つのキーワードが気になり、深掘りを進めています。

(1)『孝霊天皇(7代)の鳥取遠征』 :済
(2)『垂仁天皇(11代)が丹波国と連携』     
    ← 今ここ

(3)『孝元天皇(8代)が物部氏と連携』:未

『垂仁天皇(11代)が丹波国と連携』


『なぜ、垂仁天皇が 丹波国からたくさんの后妃を迎えているのか?』を把握するにあたり、垂仁天皇の后妃が「開化天皇(9代)の皇子である「彦坐王(日子坐王)」の一族から多く出ていることに着目し、この一族について調べてきました。

「記紀での記載」によると

 垂仁天皇(11代)の最初の皇后は沙本毘売命(狭穂姫命)でした。
「彦坐王(日子坐王)」の娘で、同母兄の沙本毘古命(狭穂彦命)」が垂仁天皇(11代)に対して軍事衝突を起こしてしまいます。

 「沙本毘古命(狭穂彦命)」が鎮圧され戦死する際に、沙本毘売命(狭穂姫命)も兄とともに亡くなります。

 沙本毘売命(狭穂姫命)は亡くなる間際に、旦那である垂仁天皇(11)に皇子の「誉津別命」を託すとともに、遺言を残します。「私の代わりに、「丹波道主命」のところの姪を后に迎えてください。」と。

 その言葉通り、「丹波道主命」の娘たちを后妃に迎えます。「日葉酢媛」は2番目の皇后となり、景行天皇(12代)を産むことになります。


「畿内北部の神社の伝承」によると

 この「彦坐王(日子坐王)」の一族は、畿内北部の神社に多くの伝承を残していました。
 これまでの記事で紹介しきれなかった神社もありますが、地図上にまとめてみると以下のようになります。


彦坐王の一族を祀る主な神社の位置(祭神を記載)

 このようにまとめてみると、畿内北部に大きな勢力を誇っていたことが分かります。


<ここから、ちょっと考察です>

 垂仁天皇(11代)は この畿内北部に勢力を広げる「彦坐王(日子坐王)」の一族から「狭穂姫」を皇后として迎え、子をなしたが、その同母兄の「狭穂彦」と軍事衝突を起こした。

 それでも、垂仁天皇(11代)は この一族から 後継の「皇后」を迎えるだけでなく、複数の妃を迎え入れることになります。


 垂仁天皇(11代)は、畿内北部の勢力と繋がり、基盤を築きたかったと思われます。


  出雲口伝によると、
 『この理由として、
  垂仁天皇(11代)は九州からやって来た大和への侵攻者だった。
  そして狹穂彦は大和の在来政権側だった。』としています。

 つまり「狹穂彦は侵攻に対する防衛戦を繰り広げていた」という構図で語られています。

 また出雲口伝では、
 「崇神天皇(10代)は 開化天皇(9代)と血が繋がっていない」となっています。 図でいうと以下のようになります。


出雲口伝では、崇神天皇(10代)は開化天皇(9代)の血統でない。


 「彦坐王」
の一族が 畿内北部の多くの神社に祀られている事実は、この説に矛盾するものではなさそうです。


 
 いずれにしろ、開化天皇(9代)の皇子の一人である「彦坐王」を詳しく調べてみると、畿内北部に勢力を誇る一族として存在していたことが伺えました。

いいなと思ったら応援しよう!