生からの逃走について
はじめに
この記事は読者を不快にさせる可能性の高いセンシティブな内容を扱っています。ご注意ください。
今回は、「この世から消えること」について書きたいと思う。
本題に入る前に、まずいくつかの注意点を述べておきたい。
一つ目。これはあくまで私個人の、現時点での考えに過ぎないということ。
二つ目。現在の私の精神状態は悪いということ。部分的には病的ですらある。ただし、自殺企図などは行っていないし、今後も行わない。
では前書きが長くなったが、「消えること」について述べていきたいと思う。
昨今、「死にたい」という声の代わりに「消えたい」という言葉を耳にする機会が増えた。
その当初、「死にたい」と「消えたい」はイコールだと私は思っていた。
そのころ跋扈したいわゆる「不謹慎狩り」などによって死のタブー化が進行し、その結果として彼らはおおっぴらに死について言及することを避けるようになったのだろう、死のマイルドな代替表現として「消失」が用いられたのだろうと私は考えていたのだ。
しかし最近、どうもそうではないらしいことに気がつき始めた。
「消えたい人々」は、死にたいのではなく「消えたい」らしいのだ。その二つの間には明確な差異がある。
だが「消える」ための現実的な方法は死ぬことしかないため、二つは混同されやすい。
私自身はどうかというと、ここ十数年のうちで「死にたい」と思うことは幾度かあったが「消えたい」と思ったことはないように思う。死ぬことなく消えることはできないのだし、そのような状態を想像することすらできなかった。今もよくわからない。
だがもしかしたら私も、「消えたい人々」のうちの一人なのかもしれない。もしかしたら、割と昔から。
この間、私はエレベーターに乗った。なんてことはない普通の、扉にガラス窓がついた、毎日でも乗るようなごくありふれたエレベーターだ。
窓越しに、一階の天井が上から下に流れていくのを見ながら、ふと、
このまま永遠に二階に辿り着かなければいいのにと猛烈に感じた。
時間にして僅か数秒の間だったが、このまま異空間にでも飛ばされて、永遠に上昇し続けるエレベーターの中に閉じ込められていられないだろうかと、私は祈りさえした。
実際にはそのようなことは起こらず、すぐに二階の床が上から降りてきて、私の足元と同じ高さまで降りてきたところでエレベーターのドアは開き、私を吐き出してしまった。
まあ、それは仕方のないことだ。私は恨みがましい視線をエレベーターのドアに向けたが、エレベーターは悪くない。
しかし、だったらどうしたら良いというのだろう?
だって、死なずに消えることなんてできないじゃないか。
生きる者は、生に伴う不安や恐怖や苦痛、そして責任から逃れることはできない。
死ぬ者は、死に伴う不安や恐怖や苦痛、そして責任から逃れることはできない。
逃げることなんて絶対にできはしない。できはしないのだ。
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