かつてバンドマンだったすべての人たちへ
以前書いた記事(『音楽における愛と歴史』)の中でぼくは、知的探究と愛情のあいだに量的な正比例関係を求める音楽観を〈脱構築〉し、環境論的な反論の提示による状況整理を試みた。その狙いは、「知識と愛がある音楽オタク」vs「知識も愛もないライトユーザー」という対立的な図式によってこれまで助長され続けてきた無益な敵対心の解除にあった。
しかしそのせいで、音楽オタク的な関わり方それ自体が否定されていると感じてしまうひとがいる可能性に満ちた論調に、あの記事はなってしまっているのではないかと危惧している。
ぼく自身も〈音楽オタク〉のひとりであり、それゆえに起こるディスコミュニケーションへの自戒も込めて書いた。音楽に対する知的探究そのものを否定する意図はもちろんない。
弁明としてではなく、今回は〈音楽オタクであること〉について感じるところを書こうと思う。
ぼくの音楽への深い関心は、俗に“バンドマン”と呼ばれる界隈に属することを目標とすることでスタートした。個人的にはその呼び名にしっくりきたことはそれほどないが、実質的にはそうだったとしか言いようがない。
ぼくは学生時代、文化祭でコピー演奏をするためにバンドを組んでいた友人たちの姿を、指を加えて羨ましく見ていた。誘ってくれる様子がなかったので、我慢できなくなったぼくは「リズムギターでいいからぼくも混ぜてよ」と声をかけた。みんなは快く受け入れてくれた。弾き語りでステージにあがるという手段だってあったはずだが、それよりみんなでわいわいやりたかった。
文化祭と共にそのバンドの活動もなくなったが、高校になって新しくできた友達たちの中に文化祭などではなくライブハウスやイベントなどで演奏するバンドマン・カルチャーの人たちがおり、彼らの自由な楽しみ方に憧れた。それで彼らとステージを共にするための苦肉の策として、一人でステージに立つための方法を模索した。
バンドマンになる前段階として、演奏を機械(ドラムマシンやMTR)に打ち込みながら編曲し、ミックスし、バンド演奏となるべく近い音響を作る、カッコつけた呼び方をすれば一人のマルチプレイヤーだった。
バンド演奏とは何か。バンド演奏の神髄のようなものは、通常実際のバンド演奏を経験していくなかで培われるものだが、マルチプレイヤーになる必要性にかられたぼくは、経験も知識もほとんどないにも関わらず、音源制作の必須条件である各パートのアレンジに関する「バンド演奏ってこういうものかな」というイメージを自分で勝手に拵える必要が出てきたのだ。なんとか知識を集めなければいけない。ぼくが〈音楽オタク〉になったのは、もちろん音楽を聴くことが好きだったこともあるが、“バンドマン”に近づこうとしたことが大きい。
ぼくはもとよりサッカーやバスケなどの集団スポーツへの憧れが強かった。
“バンドマン”の志向性は、シンガーソングライターや歌手の志向性とはおそらく根本的な発想が異なる。ひとりで表現を練るのと比べ、集団制作を前提とすることで自分ひとりでは表現しようがなかったパワーを扱う機会が格段に増える。それはスポーツにおけるチーム戦のような連帯感であり、その界隈全体としても体育会系的ノリが支配的になる部分が多くなる。
現在の若いバンドマンたちの中には、自分たちの界隈に体育会系的な、あるいはヤンキー的なノリを意識することはむしろなくなってきているかもしれない。情報と機材の流行によって、バンドがかつてよりも「シンガーソングライターの集まり」を意味する例も増えてきている。わかりやすい例としては、軽音楽系の音楽スクール内で組まれたバンドのメジャー志向的活動である。このタイプのバンドマンたちはマルチプレイヤーであることにさしたる自意識も少なく、自身を「音楽オタク」と捉えることにも慣れている。
そういう時代の流れがあるにも関わらず、自分たちの肉体を1つのスタジオに集合させ、その状態こそを「バンドの条件」とする場合、原理的に体育会系ノリは生成される。それはおそらく、1つの表象を、シンガーソングライターやマルチプレイヤーとは異なり、担当楽器それぞれの職人的な修練によって部分的に達成することを目標に置くことで生まれる。
吹奏楽部が運動部さながらの体育会系的精神性を自然発生させるメカニズムとおそらく同様に、個人活動とは違う部活動の延長としての全体性を含んでいるのが「バンド」の「バンド性」といえる。〈音楽オタク〉は音楽という表現を信じているが、メンバーという人間そのものは信じられない。バンドマンは反対に、音楽という表現を信じることはできないが、代わりにメンバーという人間への信頼はできる。
なので自分の担当するパート以外の楽器や演奏に対する関心は、自分の担当楽器以上にはモチベーションを保ちにくく、結果的に表現されるものに対する判断に責任を持ちにくくなる。
表現されたものへの判断をメンバー間のコミュニケーションによって行うときに具体的にそこで交わされているのは、〈音楽オタク〉的な知識と職人的感性の相互の翻訳である。
分業化して全体を見渡せなくなる産業社会が常に優秀な中間管理職を求めるのに似ていて、各パートを纏め上げる全体像の把握が困難になると「自分のパートが何のためにそのフレーズを演奏しているか」がわからなくなり、そうなった人から順にバンドから退却していくことになるのである。
経験的に振り返っても、「音楽オタクではないバンドマン」にとっての音楽への探究は、バンドに所属しているあいだにしか起動しない。それぐらいかつてのバンドマンたちは音楽それ自体への関心よりも「バンド活動」の中に欲望の対象を発見していたのである。
バンドから離れても音楽に関心を持ち続けるひとは〈音楽オタク〉としての知識欲を有している場合がほとんどである。そして、ある種そういったバンド休止中の期間にも新たなフィールドやジャンルの音楽に触れることで、自分の表現そのものと対面し続ける。しかし、だからといって芸術家として、一人のアーティストとして、自律した世界に閉じこもることも選べない。
バンドマンと音楽オタクとの間で揺れ動くある種の中途半端で「不純な欲望」を抱えた人々は、そこから何を目指すべきなのかだろうか。
純粋さは声を上げやすい。彼らは自分にとっての真実のみを集めているので、自分が自分を裏切るかもしれないという不安から自由でいられるからだ。
その反面、〈不純さ〉や〈中途半端さ〉は声を大きく上げにくい。彼らは分裂した欲望を抱え、なおかつそのことを自覚してもいるので、純粋さの表明であるアジテーション行為そのものへの動機が少ないからである。
現在は純粋な人々で溢れた時代である。オタクであること、芸術家であることはある意味フツウのことだ。オタクや芸術家は一人一人がアジテーターとしての才能を持っている。しかし、アジテーションだけで成り立つほどコミュニティは純粋ではない。コミュニティは多数の欲望を抱えているので、存在そのものとして不純さをもっているからだ。
コミュニティの萌芽に耳を澄ませば、小さな〈不純なささやき〉が呼吸として聴こえてくる。その意味で、不純なもの、中途半端なものはそれらの声を聴き取るという能力がある。
知識への純粋な欲望と、その知識の活かし方についての不純な欲望の間に適切なつながりを拵えることが難しくなりつつある昨今、コミュニティづくりの必要性は音楽やバンドマン・カルチャーの人々にも同様の課題を与えている。
ある人はアイドル界隈に。
ある人はストリート界隈に。
ある人はアニメ界隈に。
ある人はアート界隈に。
様々な界隈に軽やかに憑依する音楽特有の〈不純なささやき〉を辿って、再びバンドマンにとっての肉体である〈スタジオ〉への回帰を願い、彼らもぼくも智慧と気力を蓄えている。新しいコミュニティの形成には、おそらく〈不純な欲望〉がもつ〈中途半端さ〉が必ず大きなパワーを発揮するだろう。