吉本隆明さんを語る(私広告4)
江戸川区・平井駅前の書店で『共同幻想論』を買った。18歳のときのことだ。
1968年あたりである。当然、吉本隆明さんご本人も私は知らず、ただただタイトルに惹かれて買ったのである。おもしろかった。もちろん、18歳の、下町(というか場末)の、薄バカの少年にすべてが理解できたとは思えないのだが、それでも、おもしろかった。
この本で「共同幻想」とは、ようするに「上部構造」(マルクスの言うところの)のことだ。それを「上部構造」と呼ばず、「共同幻想」と呼ぶ「ズレ」のようなものに、まずイカれた。「これ」を「上部構造」と呼ぶとマルクスに規定されてしまうが、「共同幻想」と呼べば、マルクスからは自由になれる。私は、言語の秘密に触れた気がした。
「論」を立てるのに使ったテキストは、『古事記』と『遠野物語』である。このスタイルにもまいった。『古事記』と『遠野物語』で、こんなことができるんだというのは新鮮な驚きだった。
「共同幻想」に対して「個幻想」というものを対置し、その間に「対幻想」というものを置く。「対」は、ようするに「カップル」。つまり男女関係。だが、LGBTQなんていう人たちもいるんで、男女問わず「対関係」というところまで拡張できるし、もっと言えば、性関係の有無に関わらず「カップル関係」における「幻想」としてもいい。吉本さんご自身は、兄弟、姉妹、親子の関係まで想定しているように読める。
この三つの「幻想」によって、世界とその構造を「解析」していくのが『共同幻想論』であると言っていい。「個幻想と共同幻想は逆立する」というのをいまだにおぼえている。この三つの区分けは、幾何の補助線を引く手つきと同一であり、私はこの補助線で世界が相当によく視えるようになった気がした。初等の幾何では、補助線をうまく引けさえすれば、問題は相当程度解決する。
読後の感想は、場末で、自己流にマルクスだヘチマだ言って与太っている不良少年のところへ、本物のヤクザがやってきて、薄バカの不良少年が口をぽかんと開け見ている前で、あれよあれよという間に手際よくバタバタバタと問題を片付け、颯爽と去っていったというものだった。
吉本さんをヤクザになぞらえるなんて不穏当にもほどがあると思われるかもしれないが、つい最近、「吉本さんという人は、相手がたとえつまらないやつでも、本気で差し違えるというところを持っている」という批評に出会い、薄バカの不良少年の感想もそれほど的外れではなかったんだなと、意を強くしたわけである。確か、河野信子さんと長谷川四郎さんの対談で、長谷川さんの発言だったと思う。これを書くために確かめようとしたが、その本が発見できず、果たせなかった。
後年、吉本さんは、『アフリカ的段階について』で、アジア的、アフリカ的などと言い始めた。このモチーフは、どこかに書いてらした「遡っていって、どんどん遡れば、天皇制はじめ多くのものが無効になる」ということなのだろうと思う。もうひとつ、ヘーゲル的な進歩史観への異議申し立てなのだろう。
私は、縄文時代が好きで、ずっと、「これは単なる趣味なのかな」と思っていたのだが、吉本さんの前述の言葉で、なるほどなと納得がいったのである。
吉本さんについては、まとめて書いてはいない。バラバラである。
・味の記憶1113
・実験料理1114
・長女が初めてつくった料理らしきもの1119
・【Live】貧乏と貧乏くさいと0310
・【Live】3月8日の下八0314
このなかで、『隆明だもの』(ハルノ宵子著)を(他のところで)紹介したと言っているが、それはウソ。勘違いである。『隆明だもの』は、とてもいい本なので、もう一度読んで、改めて紹介したい。
・言葉にすると内実よりも形式が伝わってしまう0323
・勇気について0523
・ベルリンの壁崩壊0617
・ヴェイユvsトロツキー0619
・【Live】パリ・オリンピック0729
今回は、(私広告)の第四弾。(私広告)がわからなくて気になるんだったら、「『ぼけと利他』を読む(私広告1)」「『規則より思いやりが大事な場所で』を読む(私広告2)」の末尾をごらんください。読むほどのこともないと思うけど。
上記の「・」は、以下に収まっている。
・シェアハウス・ロック2311中旬投稿分
・シェアハウス・ロック2403初旬投稿分
・シェアハウス・ロック2403中旬投稿分
・シェアハウス・ロック2403下旬投稿分
・シェアハウス・ロック2405下旬投稿分
・シェアハウス・ロック2406中旬投稿分
・シェアハウス・ロック2407下旬投稿分