シェアハウス・ロック(or日録)0124
吉本隆明さんが、テレビに出なかった理由
吉本隆明さんがテレビに出なかったと言っても、何回かは出たことがある。一番有名なのは、吉本さんが伊豆の海で溺れかかって比較的すぐに、『進ぬ!電波少年』とかいう番組での、水を張った洗面器に顔をつけるという、愚にもつかない企画である。
その話を聞いたときには、吉本さんよくそんなのに付き合ったなと思ったものだし、そんな企画を立てた連中に腹も立てた。あの人(吉本さん)、自分を普通のおっさんだと思っている傾向があるからな。困ったもんだ。
それ以外にも、糸井重里がプロデュースして、何回か出たことはある。
あるとき、吉本さんと話していて、「吉本さん、なんでテレビに出ないんですか?」と聞いたことがある。
吉本さんの答えは、「ぼくの読者は、6000人なんです。それ以上でも、以下でもない。間違って、それ以上売れちゃうときもありますけど。テレビは、100万とか、そういう単位でしょう。ぼくの言うことは通じないですよ」というものだった。
100万に通じるとは、どういうことなんだろう。
旧聞だが、明石散人『日本語千里眼』のプロローグに、男子高校生が千キロも離れたところの人妻をメールで口説き、呼び寄せ、性行為に及んだあげく殺したという事件に触れている箇所がある。その事件を扱ったワイドショウのコメンテーターが、「人妻の軽薄さと少年の無謀さが招いた悲劇」と言ったのへ、「想像力が皆無としか言いようがない」と明石は述べている。
私としては、想像力が皆無どころか、これはなにも言ってないコメントであると感じる。
あたりさわりがないどころか、単に事態を言い換えただけというか、無意味というか、無内容というか、そういったものである。
つまり、100万人に納得させるためには、こういったスベスベ、ツルツルといった「引っかかり」のないことしか言えないのだろう。
あるいは、100万人に話して、その一部からでも反発されないためには(こっちのほうが大きいかもしれない)、スベスベ、ツルツルといった、どこにも「引っかかり」がないようなことを言うしかないのだろう。
前述のコメンテーターの発言を邪推すれば、「メールにはそういう危険性がある」とは言えなかったということである。DOCOMOがスポンサーだったかもしれないし。
「テレビ文法」とか「テレビ話法」というものがある。思いつくものを言ってみると「これは、今後の課題として残されます」「今後の行方に注目したいと思います」とか言ったもので、答えは明確なのに、そういうことを言うことがままある。これもイヤだ。
電波監理審議会、その親方たる総務省、さらに親方の日本政府、自民党政権、そのスポンサーたる財界、番組スポンサーそのものをおもんぱかると、そういうことになってしまうのだろう。視聴者にも、ちょっとは気をつかわなければならない。
これも、私が、テレビを嫌う理由である。
そのくせ、そういうのにひっかからない愚劣なバラエティショウなどでは、ここを先途と空騒ぎしてうるさい。だから、私はテレビが嫌いだ。