シェアハウス・ロック2406下旬投稿分
都市計画から見た『振袖火事』0621
明暦2年10月9日、吉原(当時は日本橋人形町付近にあった)の年寄たちが奉行所に呼び出され、移転を迫られた。市街地再開発の第一号ターゲットであった。ところが、これは、市街地再開発のほんの一端に過ぎなかった。
それに先だって、6月5日に屋敷小割奉行として喜多見五郎左衛門以下4名が任命された。7月11日には、この4名に寺社奉行・安藤重長、松平勝隆、町奉行・神尾元勝(南)、石谷貞清(北)、勘定頭・曾根源右衛門、村越知左衛門が、松平伊豆守信綱邸に集合している。松平伊豆守は、「知恵伊豆」という異名で知られた切れ者である。
『明暦の大火』(黒木喬)では、この会合について、
この屋敷割の主意事情は詳に知る事能わざれども、(後略)
と、『東京市史稿』から不可思議な部分を引用している。『東京市史稿』は明治34年(1901)年に史料集として編纂事業が開始されたもので、さらにその元資料は『徳川実記』などのはずである。
さらに黒木さんは『柳営日次記』『明暦日記』『明暦二録』などに拠り、伊豆守は当日登城すべき日であったのにも関わらず、この会合のためにとりやめたと言い、上記「主意事情」を、「推測」している。それは、「主には」武家屋敷地の拡張を基本とした計画立案である。とは言え、市域の拡張は多くの予算を要し、住民の移転が前提であり、困難を極めたことは言うまでもない。
ところが前記、吉原の年寄連中に申し渡したわずか一週間後に「神風」が吹いた。10月16日の火事で、中心街の四十八町が焼失したのである。
さて、明暦3年正月18日の昼過ぎ、本郷丸山の本妙寺から火が出て、これが端緒で、翌19日には小石川から出火。これは午前中だったが、午後になり麹町から出火。後二者は、江戸をほぼ南に直線に走ったが、本妙寺からのものは墨田川沿いに南下した。神田あたりから分岐した火は、墨田川を渡り、本所にまで至った。
ちなみに、明暦3年は、正月早々から火事に見舞われた年だった。まず元旦の夜に四谷竹町から火が出て二、三町が焼け、2日の午前9時に半蔵門外から、4日夜には赤坂近辺から、10時には駿河台から火が出て、この火は明け方まで燃えた。9日の真夜中、麹町で失火。
前年11月以来、江戸では一滴も雨が降らず、乾燥しきっていた。
かくて、前回お話しした18日、19日を迎える。
「第一火元」になった本妙寺は、火災後、多くの寺が移動させられたなかで、なぜか移転せず、その場に留まったという。また、特に罰を受けた様子もない。それどころか、寛文7年には勝劣諸派の触頭を仰せつけられている。これも不思議なことである。
不思議なことと言えば、本妙寺の書上には、
当寺より出火し、大火となって江戸じゅうの三分の二が灰燼に帰した。これを世間では丸山本妙寺火事といって未曾有のこととした。
と他人事のように書いてあるが、これは『改撰江戸志』の丸写しであるという。
黒木さんは、
本妙寺は江戸の北方にあり、冬の季節風が激しく吹けば、絶好の発火点になる。(中略)都市計画担当者のだれかが(「だれか」に傍点)、住職の日暁に意を含めて「明暦の大火」の幕をあげさせたのではあるまいか。(p.60)
ことによると、(中略)都市計画の最高責任者、松平信綱ではなかったか。信綱の指示であればこそ、本妙寺は火元でありながら移動も命ぜられず、罰も受けず、出世コースを歩むことができたのではなかったか。(p.61)
と、幕府主犯説を展開している。
なお、「振袖火事」は後の俗称らしく、この表記は同時代の資料にはまったく見えない。「丁酉の火事」「酉年の大火」が普通であり、「明暦の大火」も見えない。
ペコちゃん牧場0622
「ヘコむ ペコちゃん牧場」という記事が『毎日新聞』(6月19日夕刊)に出ていた。不二家のペコちゃんは、私が記憶する限り、キャラクター人形としては最古のナショナルブランドのものだ。象のサトちゃん(1959年)や、コルゲンコーワのカエル(1963年)などは、ペコちゃんに比べれば新参者である。カーネル・サンダースなんて、日本上陸は1970年だったはず。新参者もいいところである。
不二家によると、ペコちゃんは1950年に店頭人形としてデビューしている。「最古」は間違いないと思う。
表題のペコちゃん牧場は、北海道八雲にできる予定のものだ。
2005年、ある雑誌にペコちゃん誕生「秘話」が掲載された。それによると、1950年ごろ、八雲町の「あすなろ牧場」に一人娘がおり、牛乳を買い付けに来た不二家の社員が、その子をマスコットキャラクターに仕立てあげたという。ところが、不二家によると、「社内でそのような事実は把握していない」。謎である。謎ではあるが、謎と伝説は親和性が高い。
八雲町もペコちゃん伝説を追ったものの、「あすなろ牧場」にはたどり着けなかった。それでも、町は不二家に接触し、ふるさと納税の返礼品に不二家製品をラインアップしたり、逆に不二家が八雲限定商品を開発したり、北海道新幹線「新八雲駅」周辺に「ペコちゃん牧場」をつくることを提案した。「ペコちゃんレストラン」やモニュメント設置なども俎上にのぼっていたという。岩村克詔町長も「小さなテーマパークのようにしたい」と構想を語っていた。
現在新幹線は八雲の50Km手前の北斗市まで開通しており、本来ならば、30年度には八雲まで延伸。その年はちょうど不二家の創業120年、ペコちゃんの生誕80年にあたり、ちょうど時期的には切りのいい計画だったのである。ところが、工事の難航により延伸計画は先送りにされ、鉄道建設・運輸施設整備支援機構は30年度開業延期を発表することになった。なんとかしてやれよ、鉄道建設・運輸施設整備支援機構。線路引っ張って、その地域が発展するまでを射程にいれろよな。線路引っ張るだけが能じゃあるまい。
記事のニュアンスでは、「ペコちゃん」計画が暗礁に乗り上げたというほどのことでもないようだが、不二家側の担当者は「(この状況下で)どういうことが実現可能かこれから検討していく。まだ具体的にはなっていないので、開業延期についてはコメントしづらい」としている。
町側は計画に前のめりだが、岩村町長がペコちゃん関連の施設やイベントを町の起爆剤にと考えるのには背景がある。
同町は「北海道近代酪農発祥の地」と言われているものの、少子高齢化による酪農家の減少に歯止めがかからない状態にある。1950年代に900戸以上あった酪農農家は、70戸程度にまで落ち込んでいるという。
しかし、ペコちゃんがもし早生まれなら、私と同学年なんだな。同級生だから、なんとなく親近感があるのかね。
ペコちゃんの受難0623
2007年(平成19年)だろうか、確かTBSテレビ報道番組『みのもんたの朝ズバッ!』が、「反不二家キャンペーン」みたいなことを始めた。発端は、不二家が製造工程で「消費期限切れの牛乳」を使ったということだったと思う。ただ、この「消費期限」は、当初番組中では「内規」と言っていたと思う。
これは、ちょっと自信がない。ただ、「『内規』の消費期限と、世間一般での消費期限の両方を明示しなければ報道としてダメだろう」と考えたことや、また、「どう考えても、『内規』のほうが厳しいはずなのに、なんでこんなに騒ぐんだ」と考えたことはおぼえている。だから、放送では「内規」と言ったんだと思う。
今回これを書くために、ネットで調べてみた。「フィナシー」という、投資専門サイトのようなところでは、
・不二家の不祥事が発覚したのは2007年1月10日のことです。不二家の埼玉工場において、消費期限が切れた牛乳を使っていたことが報道されました。
・不二家が公表した「信頼回復対策会議最終報告書」によると、経営陣は消費期限切れの牛乳が使われていた事実を、2006年11月13日時点で外部のコンサルタント会社から指摘されていました。
・しかし、不祥事が明るみに出ることを恐れた経営陣は事実の隠蔽を図ります。結果的にこの不誠実な対応が世間の怒りを大いに買い、報道の翌日から全店休業に追い込まれてしまいました。
とあり、「消費期限が切れた牛乳」としか書いていない。また、「報道の翌日から全店休業」は、「1月10日の翌日」であれば、私の記憶とは一致しない。
一方、Wikipediaには、
2007年(平成19年)1月22日放送の『みのもんたの朝ズバッ!』で、情報提供者として不二家平塚工場の元従業員とされる女性の顔は映さず音声を変えた証言映像と、ナレーションと字幕説明が入ったVTRが放送された。
とあるが、その内容は、「消費期限の切れたチョコレートを店頭から集め、溶かし、再び製品に仕立て直して出荷している」というもの。
みのもんたは放送翌日の1月23日(火)の同番組において、不二家の新社長就任のニュースを伝え、「古くなったチョコレートを集めてきて、それを溶かして、新しい製品に平気で作り替える会社は、もうはっきり言って、廃業してもらいたい」と発言している。
私は、このときもテレビを見ていた。「古くなったチョコレートを集めて…」など聞いたこともなかったので、大がひとつでは足らない大親友のタダオちゃんに電話した。タダオちゃんは、独立系のコンビニを経営してたのである。
「あのさあ、賞味期限切れのチョコレートを回収するルートって、あるのかい」
「ねえよ、そんなもん」
3秒でわかった。みのもんたのスタッフは、この3秒の手間を惜しんだのだろうか。
Wikipediaの別のところでは、
また1月31日(水)の同番組でも、「異物じゃなくて汚物だね、こうなると」などと告発内容が確定的事実である、との前提に立った断定的発言を(みのは)行った。
とあるし、
さらに2月2日放送の同番組では、出演者の吉川美代子が「知人から聞いた話」として、「不二家の工場って汚ったないんですって」と発言した。
とある。
だから、今回のはじめに「反不二家キャンペーン」みたいなことと書いたように、同番組では、かなり執拗にこのネタを追ったことになる。
ペコちゃんの受難(続き)0624
また、Wikipediaでは、「カントリーマアム」(クッキー)について、賞味期限切れ商品の再包装による不正利用が平塚工場で行われているとするVTRの女性証言にもとづく放送(『みのもんたの朝ズバッ!』)もあったという。私はこれを見ていないのでなんとも言えないが、TBSは放送前に不二家に取材を行い、不二家側は「そのような不正利用は行っていない」「平塚工場ではカントリーマアムは製造していない」と回答したにもかかわらず、不二家側の見解にはいっさい触れずに放送された。
この件に関しては、不手際を通り越して、なにやら意図的なものをすら感じてしまう。
これら一連の放送の影響で不二家の業績はみるみるうちに悪化し、結局2007年2月、山崎製パンが資本支援を表明、翌月に不二家は山崎製パンと業務資本提携を締結し、事件以来停止していた生産と販売を再開、2008年11月には第三者割当によって山崎製パンの出資比率が上昇し、不二家は同社の子会社という形で存続することになった。
『みのもんたの朝ズバッ!』が不二家をこういうところに追い込んだと言えるが、この問題は、放送倫理検証委員会に持ち込まれ、さらに審理を申し立てた郷原信郎(弁護士)は「TBSの話が本当かどうかの検証は行われていない」として、その後も国会や論壇等でこの問題の追及を続けた。
だが、この問題の焦点は、基本的に2点しかない。
まず、2007年1月22日の放送でナレーターとみのもんたがVTRの女性(番組上では顔にモザイク、音声も変換)以外にも「複数の証言がある」と語っているが、Wikipediaを調べた限りでは、この女性ともうひとりしかいない。そのもうひとりは、VTRの女性から担当ディレクターの携帯電話番号を教えてもらって連絡してきたという人物であり、その人物からは面談や撮影取材を番組側は断られている。放送後1回電話応対があり、その後連絡が取れなくなったといい、その人物との電話のやりとりのメモは紛失したという。だから、「もうひとりの存在」自体すらもTBS側は証明できる状態ではない。
次に、「賞味期限切れのチョコレートを回収するルート」など明らかにないことである。材料(賞味期限切れのチョコレート)が手に入らないのに、「溶かし、再び製品に仕立て直して出荷」などできようはずがない。
ようするに、ほとんど公共の放送による企業テロだ。現在、この問題は「TBS不二家捏造報道問題」と呼ばれているようだ。
同番組の内容は、「捏造」とまでは言わなくとも、少なくとも報道姿勢としては相当に杜撰であり、それによって不二家が山崎製パンの子会社化せざるを得なかった引き金を引いた責はまぬがれない。
では、それを放送したTBSはどうだったのか。
放送倫理検証委員会はこの問題を審理し、「放送倫理上、見逃すことができない落ち度があったが、内部告発の存在自体に捏造はなく、放送倫理上の責任を問うことはできない」とし、TBSは「見解を真摯に受け止め今後の報道にいかしていきたい」と出来の悪い政府答弁のようなコメントをしたのみである。確かに捏造する「意図」はなかっただろう。ただ、これではVTRの女性の証言「だけ」により、不二家を倒産寸前までに追い込んだ道義的責任にはまったく触れられないままであり、不二家はやりたい放題やられたということになる。
もちろん、その責は、TBSおよび番組制作者にも課されるべきであるが、みのもんたは、後日週刊誌で、「僕が報道の取材をしているわけじゃないんだからさ、消費期限と賞味期限の違いも解らずに、放送作家に言われた通りにしゃべっただけ」と答えた。みのの発言は、「バカだから免責してくれ」ということである。そうは言わなくとも、そういう意味だ。こいつには良心などを期待しても無駄のようである。
みのもんたに言っておく。おまえには捏造するだけの頭などないが、それでもバカの罪というものはある。バカでも静かに暮らしていれば、それほどの害毒を世の中に流すことはないだろうが(と信じたい)、影響力のあるバカほど始末におえないものはない。少なくともおまえがバカのせいで(これは、前述の週刊誌でのコメントで、ご本人も認めていることになる)、不二家はひどい目にあったのだ。それを、「放送作家の言われた通りしゃべっただけ」とは、責任転嫁にもほどがある。報道人の資格などないと言われても仕方ないが、みののような人間は、「自分は報道人じゃない。単なるタレントだ」などと居直るのだろうな。
沖縄についての涙について10625
一昨日6月23日は、第二次世界大戦末期、沖縄戦で犠牲になった人々を悼む「慰霊の日」であった。Wikipediaには、
沖縄戦は1945年(昭和20年)3月26日から始まり、主な戦闘は沖縄本島で行われ、組織的な戦闘は4月2日に開始、6月23日に終了した。
とあるが、それに先立つ3日前、渡嘉敷島では「米軍機の執拗な空爆と、機動部隊艦艇からの艦砲射撃にさらされた」という。だから、Wikipediaの上記の文は、正確ではないことになる。
また、6月23日に日本軍の司令官が自決したことにより、組織的な戦闘が終結したとしているが、これも、実際のところ、それほど正確な話ではないだろうと、私は感じる。その後も、散発的な戦闘はあったに違いない。
再び、Wikipediaによれば、
4月16日に、アメリカ軍第77歩兵師団が、沖縄本島の北西海上に浮かぶ伊江島に上陸した。同島に、飛行場とレーダーサイトを設置するためである。伊江島には、独立混成第44旅団第2歩兵隊第1大隊650名を基幹とする日本軍守備隊2,000人(約半数は現地召集の特設部隊)が配置されていた。
島民は人口8,000人のうち5,000人が残留していた。日本軍は島民多数とともに抵抗し激戦となったが、21日までに全島が占領された。アメリカ軍によれば、日本側は民間人多数を含む4,706人が戦闘により死亡した。
つまり、私が言いたいのは「主な戦闘は沖縄本島で行われ」が必ずしも正しくはなく、また、時系列も相当に錯綜を極めていて、それだけ激しい戦闘が並列的に行われたということである。沖縄全島で住民の死者は9万4千人と推計され、これに沖縄出身の軍人・軍属2万8千人余りを合わせると、島民の4人にひとりが亡くなったという。この犠牲のうえに、今日の日本があることを、私たちは絶対に忘れてはいけない。
話の場所を渡嘉敷島へ、時制を3月23日に戻す。
渡嘉敷島の戦闘は、「戦跡碑」の碑文を紹介することで換える。これは、どうも全文らしい。
ここに記すのは、昭和20年(1945年)この島に於いて戦われた激しい戦闘と、島民の死の歴史である。
大東亜戦争の最後の年の3月23日より、この渡嘉敷島は、米軍機の執拗な空爆と、機動部隊艦艇からの艦砲射撃にさらされた。山は燃え続け、煙は島を包んだ。当時島にあったベニヤ板張りの船を利用した、夜間攻撃用の特攻船艇部隊は、出撃不可能となり、艇を自らの手によって自沈するようにとの命令をうけた。こうして、当時、島にあった海上艇進第三戦隊、同基地隊などの将兵315名は、僅かな火器を持っただけで、島の守備隊とならざるを得なかった。
3月27日、豪雨の中を米軍の攻撃に追いつめられた島の住民たちは、恩納河原ほか数か所に集結したが、翌28日敵の手に掛かるよりは自らの手で自決する道を選んだ。一家は或いは、車座になって手榴弾を抜き或いは力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。そこにあるのは愛であった。この日の前後に394人の島民の命が失われた。
その後、生き残った人々を襲ったのは激しい飢えであった。人々はトカゲ、ネズミ、ソテツの幹までを食した。死期が近づくと人々の衣服の縫い目にたかっていたシラミはいなくなり、まだ辛うじて呼吸を続けている人の目に、早くもハエが卵を生みつけた。
315名の将兵のうち18名は栄養失調のために死亡し、52名は、米軍の攻撃により戦死した。 昭和20年8月23日、軍は命令により降伏した。
「8月20日、第一中隊前進陣地ニ於テ、各隊兵器ヲ集積シ、遥カ東方皇居ヲ拝シ兵器訣別式ヲ行ウ。太陽ハ輝キ、青イ空、青イ海、周囲ノ海上ニハ数百ノ敵艦艇ガ静カニ遊戈或イハ碇泊中ナリ、唯、茫然、戦ヒ既ニ終ル」
(陣中日誌より)昭和54年3月 曾野 綾子選
沖縄についての涙について20626
前回掲げた「戦跡碑」の碑文を読むたびに、私は胸のあたりが熱くなる。怒りのためである。「そこにあるのは愛であった」などと、なぜ言えるのか。
大江健三郎は『定義集』のなかで、
・追い詰めたのは米軍だけか?
・母親も幼児も自分から死を選んだのか?
・愛というのはこのような言葉か?
と言っている。
前二者は、私も同様な思いを持つ。
ただ、後者は、私には多少別の感慨めいたものがある。
このころ、誰が言いだしたかは知らないが、米軍が日本に上陸したら男は全員去勢され、奴隷にされ、女は全員売春婦にされると言われていた。ちょっと冷静に考えればそんな馬鹿なことはないのが自明なのに、それなりにこれは信じられていたようだ。だから、自分の愛する娘や息子がそういう目に合わないようにという、そういう形の愛もあるのかもしれない。
私が大江健三郎の小説を初めて読んだのは15歳のときで、『芽むしり仔撃ち』だった。そこにあったのは相当ひねこびた『十五少年漂流記』の世界であり、私はたちまちのうちにイカレた。『芽むしり子撃ち』を大江健三郎は23歳で書いた。処女作『奇妙な仕事』が評価され、学生作家としてデビュー。すぐに芥川賞も受賞した。順風満帆と言っていい。
さらに、筋金入りの戦後民主主義者たる大江健三郎には、こういった、仄暗い愛はわからないのかもしれない。あるいは、わかってもそれには言及しないのかもしれない。
だが、帝国軍が住民に自死を迫ったのは、もっと低劣、冷徹な理由である。ようするに、彼らが捕虜になった場合、彼らから軍の機密が漏れることを恐れたのである。防衛隊員であった国民学校の訓導が、身寄りのない身重の婦人や子どもの安否を気遣い、訪れるために数回部隊を離れた。それで、敵と通謀するおそれがあるとして処刑された例すらある。
前回、全文と思われる「戦跡碑」文を紹介したが、そのなかの「3月27日、」から「394人の島民の命が失われた。」までは、渡嘉敷島の教育委員会の発行する社会科郷土資料(六年生)には(少なくとも)かつては掲載されていたという。現在でもそうなのかもしれない。であれば、これは許し難い。
「戦跡碑」の文章は「曽野綾子選」とはなっているが、そもそも誰が書いたのだろうか。『ある神話の背景』(曽野綾子)からの抜粋ではないかと私は思っているのだが、『ある神話の背景』を読む気はまったくないので、確かめる方法はない。
なお、大江健三郎は『沖縄ノート』を書き、これらの件でその発行元岩波書店とともに、名誉毀損で訴えられている。原告は元沖縄戦指揮官および遺族であるが、原告二名が実際に『沖縄ノート』を読み、自らの積極的な意思によって提訴したわけではなく「自由主義史観」を掲げるグループに担ぎ出されての提訴であったという。
裁判は原告側が敗訴した。
「お兄ちゃん、みんなで死んじゃおうか」0627
私が小学2年生の三学期に、父親は精神病院に収監された。母親は、和裁の仕立職だった。針一本で、父親の入院費、私と妹、自分の生活費を稼いだことになる。大変な苦労だったと思う。
この期間で、忘れられないことがひとつある。昭和32年(1957年)のことだ。
私は、母親が夜なべの針仕事をしている前で横になっていた。横になってはいたものの、目はさめていた。
「お兄ちゃん」
母が呼びかけた。妹が生まれてから、私は「お兄ちゃん」と呼ばれていたのである。
「お兄ちゃん。みんなで死んじゃおうか」
私は、
「いやだよ。こわいよ」
と言って泣き、母に抱きついた。
母は、
「バカだね。冗談だよ。誰が死ぬもんか」
と言い、その話は終わった。妹は、幼稚園に入るか入らないかの歳だった。私は録音記憶があるので、母の声音までおぼえている。
たぶん、私が「うん」と言ったら、母子心中していたのではないか。人間は、そんなに強いものではない。
母が、なんとかこいつらのために生き抜かないとと考え直したのは、「誰が死ぬもんか」という自分の言葉に鼓舞されたときだろうと思う。言葉、それも自分の言葉は、それだけ決定的なものだと私は信じる。人間は、そんなに弱いものでもない。
だが、これはけっして嫌な記憶ではなく、むしろ、甘美に近い記憶である。
後年、母の家に泊まり込み、私は母の自宅介護をしたのだが、最初のケアマネージャーが相当にヘンなヤツで、あまりにふざけたことを言うので、「おまえ、いまから殴りに行くから、そこを動くな」と言ったことがある。そのときに、こういうことがあとふたつ三つ重なったら、母を殺して、自分も自殺するんだろうなと思ったことがあった。
だからあのときの母も、ふたつや三つとんでもないことが重なったんだろう。
これからお話しするのは、新聞記事の話だ。ちょうど母の自宅介護をやっていたときのことで、同じ境遇だから、よくおぼえている。やはり介護をしていた子ども(といってもほぼ当時の私と同年配)が、彼の母を殺して、自分も死のうとしたが失敗し、逮捕され、裁判にかけられた。確か、生活保護が打ち切られたのが引き金だったはずだ。裁判官は異例のことだが、判決申し渡しの後に被告に声をかけ、「まだ先が長いので、真摯に生きてください」と諭したという。大阪から江東区にやってきた親子だった。彼も、ふたつや三つ重なったんだろうと思う。
母にとっては、たぶん恥ずかしい話だろうと思われることをなぜしたかと言えば、こういう仄暗い愛もあることはあると言いたかったからである。それは、当事者ならばわかる。
だが、当事者でもない人間に、
一家は或いは、車座になって手榴弾を抜き或いは力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。そこにあるのは愛であった。
などと、なぜ言えるのか。あえて暴言と言うが、私は、この暴言を初めて読んだときに、「セカンドレイプ」という言葉が頭に浮かんだ。彼らは、二度卑しめられ、二度殺されたのだ。
前回、「誰が言いだしたかは知らないが、米軍が日本に上陸したら男は全員去勢され、奴隷にされ、女は全員売春婦にされると言われていた」と言った。それでも、そういう目に遭わないように殺すのが「愛であった」などと、なぜ当事者でもない人間に言えるのか。それ以前に、当事者でもないのに、なぜ、そんなことがわかるのか。
自分の子ども、孫たちに、私は70歳を越えたからこそ言えるようになったことがある。去勢されても、売春婦にされても生きていけというのが愛だということだ。生きてさえいれば、一度や二度は、生きていてよかったと思うことがあるはずだ。そのときのために私たちは生きている。
いや、これはいかにも偉そうな物言いだ。言い直す。私はそのときのために生きてきたし、いまでも、これからもあるかもしれないそのときのために生きている。これだけは間違いない。
沖縄についての涙について30628
日本軍の司令官が自決したことにより、とりあえず終戦となり、その日6月23日は、沖縄戦で犠牲になった人々を悼む「慰霊の日」になった。
だが、混迷を極めていた沖縄戦で、たかだか司令官が自決したくらいで、実質戦闘が終わったとはとても思えない。それ以降でも、散発的な戦闘は多数あったに違いない。
このことは、昭和20年8月11日に書かれた「今後予見すべき情勢判断」と題する東條英機の文書の冒頭からでも十分に推測できる。
その文書冒頭は「第一線将兵は今日其の必勝を信じ敢闘しつつ在り若者は勇躍大義の為喜で死地に就きつつ在り。幾十万の戦死戦病死亦戦争目的の達成に殉じ其の遺家族も亦其の苦難を甘受しつつあり、多数戦災者に於いても亦然り。(中略)『敗戦者なり』との観念に立ちたる無条件降服を応諾せりとの印象は軍将兵の志気を挫折せしめ国民の戦闘意思さなきだに逓下せんとしつつある(後略)」というものだ。
(後略)は、とてもその後を続ける元気が私にはないのと、読まれる方も、まともな精神であれば、とても読み続けられないだろうと考えたからである。
これは、8月9日から10日にかけての御前会議で「聖断」が下った後の文章である。これだけでも東條英機の異常さはわかるが、これは「聖断」を潔しとしない帝国陸軍の将兵に向けたものということでも、帝国陸軍の異常さがわかるというものである。
私は、基本的にテレビを見ないのだが、10年程度前、新聞をとっていない時期があり、その時期にはテレビが唯一の情報源だった。その当時、終戦記念日になると東條英機の娘だか孫娘だかなんだかがしゃしゃり出て来て、一丁前のご託を並べた。もちろん、東条英機の娘だか孫娘だかは、東条英機とは別人格であり、娘だか孫娘だかにはなんの罪もない。テレビに出て来て、東条英機の娘だか孫娘だかの資格で、なにごとかを言うまでは。
その「なにごとか」が、慚愧の念であればまだいい。だが、娘だか孫娘だかが言ったことは東条英機を讃美まではしないものの、肯定的な言説だった。肯定的とまでは言えなくとも、少なくとも否定的ではなかった。
前述の気分が悪くなる文章中の「若者は勇躍大義の為喜で死地に就きつつ在り」「其の遺家族も亦其の苦難を甘受しつつあり、多数戦災者に於いても亦然り」と、「そこにあるのは愛であった」とは、まったく同一のメンタリティによる言葉であると、私は断定する。「大義」の前では、私らは「虫けら」なのである。そういう国だった。
近代の小説論で「神の視点」問題というのがあった。簡単に説明すると、一人称小説の一場面で、一人称の主人公Aが、Bを殴る。これを、「おれ(A)はBを殴った。Bは痛さを感じなかった」と書くのが「神の視点」である。AにBが痛さを感じるかどうかがわかるはずがない。
戦前、天皇は「神」であった。東条英機は自己認識においては少なくとも「やや神」だったのだろう。自動的に帝国軍は「やややや神」になる。しかし、これらは戦中のことだ。
だが、渡嘉敷島「戦跡碑」の碑文は、戦後のものなのである。
沖縄についての涙について40629
『毎日新聞』6月24日の夕刊に掲載されたコラム「犬が西向きゃ…」にあった話を今回は紹介する。執筆者は高尾具成さんである。
沖縄シリーズの掉尾を多少なりとも明るい話で締めくくれるのを、とてもうれしく思う。
沖縄戦終結後、住民は住む場所を失い、田畑は荒らされ、食料も衣類も十分にない生活を送らざるを得なかった。米軍による秩序回復後は、米軍からの配給が命綱という状態であったが、配給の列におとなしく並ぶ人たちばかりではなかった。
米軍の物資集積所、保管倉庫などから食料品等々をこっそり持ち出す連中も大勢いたのである。
その結果である物資を、住民は「戦果」と呼んだ。当初、敵国から物資を奪い、戦闘力を奪うという含みもあったのだろう。それで「戦果」だ。8月15日までは戦闘中だったのである。敵の戦闘力を奪うというのは、ゲリラ戦の基本でもある。
だが、その意味合いは徐々に薄れ、「失敬する」「くすねる」というニュアンスが強くなり、後には米軍から正式に譲り受けたものまで「戦果」と言うようになった。現地では、「戦果」を「せんかあ」と発音する。
だが、連中が住民の田畑から農作物を盗むことはほぼなかったという。
とりわけ食料の「せんかあ」は家族、隣人、知人らと分け合い、「せんかあ」をあげた人の体験談は「せんかあ」そのものとともに共有され、多くのフォークロアを生むこととなった。
高尾さんはそのコラムで、ある男性の「武勇伝」を書いている。
ある女性が、戦後初めて口にした肉類は米兵用の缶詰の「せんかあ」であったという。その「せんかあ」がもたらされた集落のある男性は、運よく米軍の施設内に入った際、軍用車両の横にあった缶詰を拾い、いったんは付近のゴミ箱に押し込んだ。夕刻、警備担当者に「ゴミを持ち帰っていいか?」と聞き、ゴミとともに堂々その「せんかあ」を持ち帰ったという。本当に「拾った」のかなあ。疑わしい。疑わしいが、この行為を支持したい。
警備担当者が現地雇用のウチナーンチュなら、当然見て見ぬふりをするだろうし、米兵でも気のいいやつだったなら、やはり見て見ぬふりをするに違いない。
「せんかあ」は食料品だけでなく、衣類、薬品、モーター、タイヤなどにも及び、これらは本島から島伝いに与那国にまで送られ、台湾、香港との密貿易の「輸出品」になった。「輸入品」は米、砂糖などである。『海燕ジョーの奇跡』(佐木隆三)の世界を彷彿させる。
もちろんここまで大掛かりになると、窃盗団、密輸団といったオーダーであり、出来心の範囲を大きく超える。当然、米軍施設の内部、運送担当や警備担当などの協力なしには不可能だろうし、輸送のシステムの構築などもそれなりのネットワークがなければ無理である。
この密貿易で有卦に入った時期を、与那国では「時代」と呼び、長く語り継がれたという。私はそのことを、『喜屋武マリーの青春』(利根川裕)で知った。
最後にちょっと真面目な話をする。
あの戦争をなんと呼ぶべきなのだろう。まず、渡嘉敷島の「戦跡碑」の碑文にある「大東亜戦争」は論外である。「太平洋戦争」はアメリカでの呼称だ。「第二次世界大戦」は、確かにその一部があの戦争ではあるけれども、あの戦争を「第二次世界大戦」とは呼べない気がする。80年を経過してもなお、しっくりした呼び方を探し出せないところに、戦後のダメさ加減が象徴されていると思う。
なお、シリーズのタイトル『沖縄についての涙について』は、『ヒロシマについての涙について』(作:ふじたあさや、演出:秋浜悟史、劇団三十人会)のマネである。私は、1968年に紀伊国屋ホールで見た。秋浜悟史の天才ぶりが発揮されたいい舞台だった。
【Live】日常雑記・梅雨時編0630
フレイル防止のため、2日で一万歩歩くようにしている。1日5000歩だと、日によっては完遂できない日ができてしまうので、妥協策である。もちろん、これは「最低でも」ということであって、なにか用事があれば当然それ以上歩くことになる。
梅雨時になると、この日課のクリアがなかなか難しい。傘さして散歩なんてできないもんね。
昨年の梅雨時は、しかたないので最寄り駅近くのビル(一階にスーパーが入っている)に行き、そこの階段を昇り降りした。ただ、これは傍から見るとバカに見える危険性があるので、それを中和するため、そのビルの4階に入っている100均でなにか買い物をした。これも実はなかなか大変で、ついつい日常的な発想になり、「これもついでに買ってくか」などと考えてしまう。歩くために行っているのであって、買い物はバカに見えないためのアリバイづくりなのに、ついうっかり効率を考えてしまうのである。
人間は習慣の囚人であるとつくづく思う。もっともこれは、散歩そのものにも言えることで、運動のために歩いているのに、「こっちのコースのほうが近い」とか「こっちのコースのほうが楽だ」などと、ついつい考えてしまう。
ちなみに、4階分階段で昇り降りすると、体感では5000歩程度平坦な道を歩いた感じにはなる。
メダカは、ベランダに置いてある陶製の水槽(大、中)にいるが、現在「大」には20匹一歳児がいる。「小」のほうは当歳児である。こちらはたぶん50匹くらい。そのなかで3匹だけ、もう年中さん程度のがいる。
ちょっと前に、発泡スチロールの臨時水槽には200匹程度いて、どうしたものかと言ったが、この臨時水槽の連中は全滅した。臨時水槽1のほうの連中が、どうも少なくなってきたと思ったので、なにか不都合が臨時水槽1にあるのかもしれないと思い、ことあるごとに臨時水槽2のほうへ何匹かずつ移していたのだが、両方ともゼロになった。死骸もほとんど見えない。彼らはr戦略とやらで、やたらに卵を産み、半分程度でも生き残ればOKという人生観なので、多少減るのはこちらも折り込み済みなのだが、こういうケースは初めてである。いろいろ原因を考えてはいるのだが、まだ考えつかない。
今年はホテイアオイを三波くらいに分けて買った。その第二波のホテイアオイがとても大きくて立派である。小さいほうも、いずれこいつらに追いつくのだろうと当初は思っていたのだが、どうも種類が違うのではないかと、ここ数日は考えるようになった。そう言えば、ヒメ(姫)ホテイアオイという名前をどこかで見た記憶がよみがえってきた。小さいほうは「ヒメ」なのだろう。
日常雑記といいながら、散歩とメダカしか日常がないのかとお思いかもしれないが、その通りである。なにもない日は、本当になにもない。
なにもない日を、出来の悪い小学生の出来の悪い作文みたいに書くと、次のようになる。
ぼくは朝起きてコーヒーを飲み、CDを聴き、パンを焼いて食べました。それからお昼ごはんをつくって食べました。散歩に行ってから夜ごはんをつくり、お酒を飲みながら食べ、それから寝ました。つまらない一日でした。
出来の悪い小学生と違うのは、酒を飲むところくらいだなあ。