シェアハウス・ロック2407下旬投稿分
【Live】ソフト・ナショナリズム0721
ナショナリズム。愛国心。そういうものが暴走すると恐い。私たちは15年戦争で、身に染みてそれを知っているはずである。
だから、安倍晋三が「世界の中心で輝く日本」と言い出したときには、本当に腹が立った。「またやるつもりかよ、おまえ」ということである。「愛国心は、ならず者の最後の拠りどころ」という言葉がある。安倍晋三は、知れば知るほどひどい。国家戦略特区で、加計一派を超優遇した(というか、あれは国家戦略特区の私物化である)が、国家戦略特区の「がん治療の部」でも相当ひどいことをやっている。これを書いている今日、『がん「エセ治療」の罠』(岩澤倫彦)で知った。もはや、安倍晋三は愛国者ではなく「ならず者」のほうに近い。これは、近々お話しする。きっちりとお話しする。
国家戦略特区は、もしかしたら「やりたい放題特区」だったのではないか。誰か、時間と能力と調査力を持っている人が、「国家戦略特区の闇」を暴いてくれないものか。まだまだネタは出てくると思う。
ソフト・スターリニズムという言葉があるそうだ。それと同じデンで、ソフト・ナショナリズムという言葉もあっていい。あっていいというか、「youは何しに日本へ」などという番組は、ソフト・ナショナリズムそのものだと思える。
安倍晋三は「世界の中心で輝く日本」と言ったが、どこが輝くのか、どう輝くかの言明は抜きである。これが悪しきナショナリズムの特徴で、なんらの例証もなく、根拠も示さず、ただただ「日本すごい」「日本素晴らしい」と言う。これは、簡単に「神国日本」に至る道である。論理じゃないものに反駁するのは、相当に大変であることは言うまでもないだろう。
「youは何しに日本へ」などいう番組も、まったく同じ構造で、やはりやみくもに日本偉いを言いたいようである。ただし、こちらのほうは、私がたまたま見た回では多少は見どころはあり、箱根細工、うなぎの蒲焼き、大衆食堂にいかれた外国人が出てきて、それなりに日本文化を掘り下げているとは感じた。だが、それを外国人に指摘されて、という構造が情けない。あんまり情けないんで、私の言ってることも、ナショナリストなんだか、反ナショナリストなんだか、わからなくなってきている。
こんなことを言い始めたのは、7月16日に『今夜はナゾトレ』という番組を、チラッとではあるが見たからである。私が見た部分は、「東京駅が凄い」というところだったが、これが情けない。「ここが凄い」と言うのが、なぜか全員インバウンダーだった。
辰野金吾の設計の素晴らしさを、なにも、インバウンダーに教えてもらう必要はない。『今夜はナゾトレ』の当日のテレビ欄を見たら、制作者の根性は一目瞭然であった。「世界中が感動!」「日本のスゴいとこ!」。こんなメンタリティで番組をつくらないでほしい。
なんで日本文化の素晴らしさを言うのに、外国人を引っ張り出してくるのか。明治時代のメンタリティから一歩も進んでいないじゃないか。クルトが評価したから写楽が素晴らしいんじゃあるまい。フェノロサが評価したから、日本の美がつくられたわけでもない。
私が若いころ、文化人なる連中が、「アメリカでは」「フランスでは」「イギリスでは」と安っぽいごたくを並べ、それに対して「日本では」という論調が相当あり、私はその都度腹を立てていたのだが、いまに至っても、これは変わらないね。
この軽薄さはなんなのか。どこから来ているのか。それがわかったら、相当程度、この国はまともになれるような気がしてならない。
悪しきナショナリズム0722
前回、フェノロサの話をしたときに、「フェノロサが評価したから、日本の美がつくられたわけでもない」なんぞと悪たれたが、この人、薬師寺の東塔を見て、「凍れる音楽」と讃えたという。「凍れる音楽」という表現それ自体ですごいが、これは慣用句とまでは言わないけれども、ドイツロマン派あたりではよく使われた表現で、シェリングやゲーテなどは使っている。
でも、薬師寺の東塔に対して使ったというそれだけでも、フェノロサくん、たいしたもんである。
ジャン・コクトーに文楽を見せたら、「あの苦痛を訴えている人(太夫さんのことね)は、なんと言っているのだ」と傍にいる人に聞いたという。これがヘミングウェイならまだわかる。言いそうである。でも、ジャン・コクトーなんて、欧米人のなかでは、文楽わかりそうな感じがするじゃないの。フェノロサくん、たいしたもんである。
文楽は、通常、太夫(義太夫語り)、三味線、人形遣いでセットであるが、人形抜きの「素浄瑠璃」というものがある。3か月ほど前、東京東部で催された素浄瑠璃の会に行った。その太夫さんは、おばさんと私が贔屓にしている人である。演目は『菅原伝授手習鑑』(文楽の三大名作のひとつ。他のふたつは『仮名手本忠臣蔵』、『義経千本桜』)だった。
菅丞相(菅原道真)の息子(菅秀才)と家来の物語である。
菅秀才の首を討って渡すよう命じられた源蔵は、寺子屋に入った育ちのよさそうな小太郎を見て、菅秀才の身代りにすることを決意し、実行する。
敵方の松王丸が首実検にやってきて、菅秀才の首であると認め、源蔵はほっとするが、実は、小太郎は松王丸の実子で、同じ年頃の菅秀才の身代わりにするために寺子屋に送り込んだのである。松王丸は、いまは敵方に回ってしまっているが、もともとは菅丞相の家来である。
つまり、主家の若君(菅秀才)を守るために、自分の子どもを松王丸は差し出し、小太郎は、父親の主家の若君を守るために犠牲になったことになる。
松王丸は「でかいた」(でかした)と言って笑い、そして泣く。見せ場である。
ここの段が、素浄瑠璃の会では語られた。
区の主宰なので、浄瑠璃の後、懇談を兼ねて質問の時間が持たれた。
いかにも賢しらという感じの女が立ち上がり、「たとえ主家のためとは言え、自分の子どもを犠牲にするなんて考えられない」と言い出した。本当は、これは質問になっていない。自分の感想を述べているだけである。そういう話なんだからしょうがないとしか言いようがないし、たかだか80年前に、この国では、泣く泣くかもしれないけれども、自分の子どもを国家に差し出した。彼らが死地に向かうとき、建前かもしれないけれども「万歳」を叫んだ。
太夫さんは、「文楽の演目には、けっこうご都合主義というか、荒唐無稽な筋立てといいますか、そういうのがありまして」云々と答えた。
太夫さんが話しているとき、並んでいた三味線の人が、見る見る青筋を立てたのがわかった。たぶん、文楽原理主義みたいな人だったんだろうなあ。
で、彼は「日本人だったらわかるはずです」と言った。これは、実のところ回答になっていない。ところが、驚いたことにこの回答に拍手がわいた。
これが、悪しきナショナリズムの典型的なものである。しかも、答えになっているようで、まったく答えになっていない。これも、悪しきナショナリズムの特徴である。
【Live】おじさん救急搬送される0723
先週の木曜日、散歩がてらに図書館に行った帰りのバスで、我がシェアハウスのおじさんと一緒になった。おじさんは気がつかなかったので、後ろから観察した。というのは、ここのところおじさんは膝、腰の具合が悪いようなので、様子を見たのである。バス停から約50mの交差点まで歩くのに、おじさんは中間点で立ち止まり、かなり長い間休んでいた。
早速、おばさんに密告。おばさんのほうが、私よりも細かくおじさんの健康に注意しているからである。
日曜日、おじさんは朝のおつとめ(スポーツ新聞を買い、喫茶店で競馬欄を検討する)の帰りが遅かった。普通は8時には帰ってくるのだが、9時を回った。
昼飯後自分の部屋にいたときに、階下のおばさんから声がかかった。降りていくと、おじさんが自分で救急車の要請をしているところだった。息苦しいという。
救急車が到着し、玄関先で問診、簡単な検査等々をやった。この結果で、搬送先を決めるのだろう。指先にセンサーをパッチンし、酸素の血中濃度を測る検査では91とか92。私も喘息の発作のときにこれをやられたが、91、92くらいだと相当に苦しい。94くらいで普通に苦しい。96になれば、ほぼ平常運転。
救急搬送は、本来はおばさんが付いて行くほうがいいのだが、当日おばさんは体調不良(実は二日酔い)で、私が付いて行った。付いて行っても、入院申込書を書くくらいしかやることはない。だから本が読めた。文庫本ほぼ一冊読んだ。おじさんが救急処置室から病室に移されたので、それをシオに帰ってきた。
翌日。
この日、おばさんは先約があったので、そっちを優先せざるをえず、私が身の回り品等々を持って病院に行き、やっとおじさんと話せた。医者が言うには「肺が弱っている」そうである。ようするにCOPDだ。「酸素ボンベをガラガラ持って歩くのを覚悟してください」と言われたという。
おじさんもスモーカーだが、私もスモーカーで、しかも私は喘息患者である。だから、私が先にCOPDになり、酸素ボンベガラガラになると思っていた。
ただ、私は散歩を毎日しており、息があがるくらいは早く歩くので、心肺機能はおじさんよりは鍛えていることになるんじゃないかと思う。おじさん、膝と腰が悪いんで、ほとんど歩かないもんなあ。
また、疫学調査によると、男性のCOPD患者の29.2%に高血圧、12.3%に糖尿病、12.3%に脂質異常症が併存すると言われている。これはそれぞれの患者はCOPDになるリスクが高いということだろうから、こっちでも私は有利である。
おじさんは、高血圧(これは立派な患者)、脂質異常症(これは極めて疑わしい)という状態なのである。
ちなみに、おじさんは今週末には退院予定である。COPDの治療方法は、対症療法(吸入等)しかないようなので長く入院しても無意味なのだろう。
正しいナショナリズム0724
表題を書いていて、「正しいナショナリズム」ってのは、形容矛盾じゃないのかと、ふと思った。形容矛盾とまでは言わなくとも、「なにがなんでも日本好きっ!」みたいな「なにがなんでも感」がないと、ナショナリズムとしては迫力に欠ける気がする。
まあ、そういう頼りない地点から、日本のいいところを挙げてみる。
まず、四季がある。水がいい。だが、これは、日本という国が偉いというよりも、日本のある位置、地形が偉いということだ。少なくとも、この件に関しては、日本も、日本人もどこも偉くはない。
水道の蛇口をひねって出てくる水がそのまま飲めるという国は、世界に20もないだろう。その20でも、地域によってはNGというところもある。もともと水がいいということに助けられてはいるけれども、日本の水道行政は優れていると思う。これを民営化するという話があったが、そんなバカなことはやめたほうがいい。山勘で言うと、水道料金は逆ザヤになっていると思う。つまり、税金で補填されていると思う。
だけど、これは税金の使い方としては、万人に公平に使うわけだから、いい使い方である。皆さんハッキリ言わないけど、政治というのは皆さんから集めた税金を、どこに使うかというのが本質だからね。
国民皆保険制度は、世界に誇れるものである。標準的な、しかも相当に優れた医療を安心して受けられる。
数日前、『毎日新聞』で藻谷浩介さんが受け持つコラムで、アリゾナだかどこだかの町おこしを紹介していた。なんでも昔々の日本の下駄ばき住宅のようなものをつくり、徒歩で行ける範囲で生活が成り立つようにし、徒歩で行ける範囲に飲み屋もあるというスタイルがアメリカでも注目されているといった話だった。
この「生活の集積化」というのも、いまとなっては日本のいいところだと思う。通常のアメリカ人の生活は、住生活を重視するあまり、エネルギーロスがすごい。ただ、これは日本のいいところというよりも、アメリカのダメなところである。ヨーロッパでは、日本ほどではないけれども、アメリカよりはずっと集積している。
あと、と書いてはみたものの、落語とアニメくらいしか浮かばない。
アニメは説明不要だろうが、落語は、おそらく有名、無名の落語家それぞれが、ものすごい努力をし続けた結果が現在なのだと思う。三遊亭圓朝という大天才が明治期に出て、そこから現在の落語が始まったとは思うのだが、「それぞれがものすごい努力をし続けた結果」というのは、私にはQC運動を連想させる。
漫画も、手塚治虫という大天才が出た後、中天才、小天才がそれぞれ努力し、漫画を改良した。これも、QC運動を連想するし、いまの「世界に冠たるアニメ」を先導したことになる。
QC運動は、現場の労働者の改善提案などを受け入れ、品質向上を図ることで、まあ、生産現場の集団戦術といったものである。アメリカでは80年代ごろ、これを取り入れるという動きがあったが、その後、どうなったかは聞かない。たぶん、うまく行かなかったんだろうと思う。そもそも、現場の労働者の労働観がまったく違う。
落語、漫画がQC運動につながってしまったが、これは別の言い方をすると、職人的な工夫ということである。これは日本人のとても優れた特質であり、お家芸であると思う。これが壊れてきたように見えるのが残念でならない。でも、これは日本人の優れた特質であって、日本(という国)が優れているわけではない。
ここまでQC運動と言ってきたが、これは便宜のためであって、QC運動以前に、現場の人間が自分の持ち場を最大限守るといった精神性を感じさせるところがあり、それは日本の労働者の美点である。
1970年代だろうか、「経済一流、政治三流(五流だったかもしれない)」と言われた時代があった。ところが、経済は、残念ながら三流くらいになってしまった。私が見るところ、三流に落ちたのは小泉・竹中改革がスタートで、安倍晋三が仕上げをした。政治は、三流、五流どころか、目も当てられないところまで来ている。
あとは、文楽、和太鼓くらいだな。文楽はともかく、和太鼓も上述のQC運動っぽいところがある。ここで大天才は田耕(でん・たがやす)、林英哲であり、このおふたりは鬼太鼓座の創設メンバーである。
コロナがまた流行っているみたいだ0725
昨日の話にひとつ追加する。日本はセキュリティがいい。夜間、女性が単独で、そこそこ安心して歩ける国はそうそうないはずだ。失くしたものがかなりの確率で出てくるというのも、日本の国民性の優れたところだろうと思う。でも、国民(=国民性)の総和が日本(=国)ではない。
あっ、花火もいい。だから、もうひとつ追加する。1960年代に入るころには、もう諸外国の花火と日本の花火は相当差がついていたが、スターマインというのが出て来たあたりで、激しく差がついてきた。青い花火というのも、どうもあれはストロンチウムを使っているようだが、諸外国に先立って出て来たものだ。このあたりで、もはや日本独走という体勢になっていた。
1970年代の外国の花火は、日本で言うと1950年代の花火とまったく変わらないものだった。つまり、ドンといって、赤いの黄色いのがパッと開く。ただそれだけ。
ところが、このごろは外国の花火もだいぶ追いついてきて、よくなってきている。もっとも、映画でしか見ていないけどね。
ところで、このところ、またコロナが流行っているようだ。
前々回の救急搬送時、救急隊員と看護師さんが、「コロナがどうのこうの」と話していたし、個室が好きなはずの我がシェアハウスのおじさんが2人部屋だったのも、個室はコロナ患者向けに空けている状態で、おじさんは個室に入れなかったと考えると納得できる。事実、そうだったようだ。
コロナの話は、駅近辺の立ち飲みバーでもよく聞く。でも、このあたりは、基本的に見ず知らずの人たちである。
ああ、そうそう。極私的なところでは、陶芸教室でマスクをまたするようになった。
畏友その2は感染している。
さらに身近なところでいけば、梅雨入りするかしないかという時期、千葉県の東京寄りにあるおばさんの同級生宅でバーベキュー大会があった。私もこの連中の集まりには何回か参加している。このときも参加した。
そこにTが自分の感染に気付かず参加した。その結果だろうか、その家の主のIが感染したという。私らも感染の危険にさらされたわけだ。
この連中は、小雨のなか、戸外で焼き方にまわって、それで感染したものと思われる。おばさんにそう言ったら、「それは違う」と言う。その理由を聞いたところ、「一緒に焼いていたSは感染していない」。あのねえ、あれは確率的に感染するんであって、確率的にIは感染し、確率的にSは感染しなかったというだけのことである。Sが感染しなかったことが、あの場では感染していない理由には絶対にならない。だが、こんな理屈、まして私が言う理屈を認めるおばさんではないので、私は黙っていた。泣く子と地頭とおばさんには勝てない。
ところで、またコロナが流行っていても、今年の花火大会はやるんだろうな。今日、八王子市の花火大会のチラシが入っていたのである。
5類指定になっているし、毒性も弱くなっているし。だいいち、ムードがそうなっていないもんな。
ああ、このムードで行っちゃうというのは、日本人の国民性のダメなところだな。科学的なエビデンスよりも、ムードで動く。前述の「泣く子と地頭には勝てない」とか、「長いものには巻かれろ」なんて、諺にある国はそうそうないと思うが、これもどっちかと言えばムードだもんな。
がんの「自由診療」0726
7月24日の『毎日新聞』4面に、『「有効」と宣伝 実証無く』という記事が載っていた。このがん治療に関する記事は、勝俣範之さんによる。この人は、日本医科大学武蔵小杉病院腫瘍内科教授である。つい最近読み終わった、『がん「エセ医療」の罠』(岩澤倫彦)の「メインキャラクター」でもある。
この本については、いつか紹介しようと思っていて、事実何回か前にそう話したのだが、この新聞記事を見て、フライイング気味の紹介になった。
我がシェアハウスのおばさんにがんが発見されたものの、手術は無事成功、予後も問題なしだが、おばさんはこれをきっかけに、がん関係の本を読みあさっている。上記は、そのうちの一冊であり、私に回ってきたものだ。
さて、同記事に戻る。同記事では、ネット検索で見つかる書籍をまとめると、クエン酸療法、コロイドヨード療法、活性化酸素療法、漢方療法、野菜スープなどがあるという。また、クリニック等が宣伝しているHPでは、がん複合免疫療法、オーダーメード免疫療法、活性NK細胞免疫療法、樹状細胞ワクチン療法、自己がんワクチン療法などがあるそうだ。これらはすべて「自由診療」である。
しかし、その記事では「こうした治療法の中で、現時点で『がんに有効』という効果を実証したものはありません」と言い切っている。
前述の『がん「エセ医療」の罠』は、「自由診療」にはまって、悲惨な状態に陥り、最終的に亡くなった例のオンパレードである。
同書の「はじめに」に、次の文章がある。
がん治療に関わる真っ当な医師たちは、エセ医療に対して苦々しい思いを抱いているが、自分の患者がエセ医療を希望したときに、強く引き留めはしないだろう。
正しくはできない、と言うべきかもしれない。なぜなら2014年に施行された「再生医療等の安全性に関する法律(以下再生医療安全法)」で、自由診療の免疫細胞療法が公認されたからである。
つまり、エセ医療とは思っていても、法律で公認されている以上、現場の医師は、「その療法はやめるべきだ」と言えなくなってしまったということである。だから、良心的な医師は、「その療法をやっても、標準治療も続けてくださいね」と言って、はかない抵抗をするのがせいぜいである。
忘れないうちに、言っておく。
この法律を通したのは安倍晋三である。
同書によると、
安倍政権が成長戦略の一つに掲げ、有効性の確立していない免疫細胞療法を、患者が高額な費用を負担して行うことができるように認めたのである。以来、この法律は世界標準のEBMを無視して、エセ医療を国が公認した”天下の悪法”といわれるようになった。
ここで、EBMとあるのは、エビデンス・ベースド・メディシンの略である。「根拠に基づく医療」ということであり、上記「標準治療」はイコールとお考えいただいていい。
しかも、安倍政権/内閣府は、免疫細胞療法を標榜する瀬田クリニックを東京圏国家戦略特区の構成員に選定、その一環として、国は順天堂大学付属病院のなかに、19床のベッドを認めるという特別措置を与えたのである。これは異例中の異例と言っていい。ここでも、安倍晋三は、とんでもないことをやっている。つまり、医療を経済成長戦略の一環と位置付けたのである。
免疫細胞療法とは、大雑把に言えば免疫細胞を取り出し、それを培養して増殖し、体内に戻すというものである。自分の細胞だから副作用もなく、効きそうな気がするが、そんなことはない。
まず、体内に戻された免疫細胞は3日程度で死滅する確率が高い。次に、がん細胞にまでたどりつく確率が極めて低い。最後に、がん細胞そのものがこの免疫反応にブレーキをかける。つまり、無効にする。
最後の「ブレーキ」は「免疫チェックポイント」のことであり、これを外すのが免疫チェックポイント阻害薬・オブジーボなのである。
コーヒー不作0727
コーヒーが不作らしい。
コーヒーの安定供給のために、ルワンダだかどこだかに駐在する伊藤忠だかどこだかの商社マンが、地元に溶け込むために、小学校の運営をサポートしていて、そうやって努力していてもそれでも今年はちょっと品切れになるかも、といったふうな新聞記事を読んだのが5月ごろ(記憶で書いてるんで全然具体性がない。まあ、その程度の記憶力しかないんで仕方ない)。で、これはヤバいと思っていたら、近所のスーパーで「豆が入って来ないので、8月ごろまで、品切れする恐れがあります」と紙が貼り出してあって、これはますますヤバいと思ったのが6月に入ったあたり。
私はコーヒーが好きな割には、豆にはそれほどこだわりがなく、そのスーパーのオリジナルの豆を買っていた。こっちに移ってきたころは450gで400円を切っていたのだが、味はまずまず。それが去年あたりからじわじわと値上がりし、現在は600円弱になっている。
しかも、現在は棚が完全に空っぽになっている。このまま手をこまねいていたら、コーヒー難民になる。
高値、品切れの原因の一番大きなものは、コーヒー豆の生産で世界の4割近くを占めるブラジルで起きた異変である。2年前、8月あたりで約30年ぶりと言われる記録的な寒波に見舞われた。このダメージから回復していないうちに、他のコーヒー産地でも気候変動が原因と思われる豪雨によって、洪水や土砂崩れが起き、逆に干ばつも起こっている。
コーヒーは、そのほとんどが「コーヒー・ベルト」と呼ばれる熱帯、亜熱帯のエリアで生産されているが、ブラジルを除く産地では、ほとんどコーヒー農民が背負い、山から平地まで運ぶといった零細な産業である。
本来なら、林道を通し、それを使って集積し、トロッコ等で平地に運べばいいのだが、零細農民が主体なので、まったくそういう対応がとれない。だから、灌漑や病害対策、寒冷/温暖化対策などもとれないのだろう。
その一方で、コーヒー農民への収奪の構造は相当なものがある。
コーヒー豆は、たぶんいまでも現地の集荷所、商社、一次問屋、二次問屋という過程を経て店頭に並ぶのだろうが、30年前にちょっと必要があり調べたところ、ひとつ段階を経るたびに、価格はおよそ10倍になっていた。いまでもそれほど変わっていないのではないか。
フェアトレードという、つまり、この収奪を緩和しようという動きがある。だが、私が知っている限りのフェアトレードは、集荷所で買い上げる段階で、最高値と最安値(コーヒーの買上価格は変動する)の中間値を支払うというものである。よって、たいした「フェア」ではない。
この間の不作記事で、日本で栽培できるように努力している企業もあることを知った。コーヒー愛飲者としては、是非がんばっていただきたいが、本当の解決は、前述の伊藤忠だかどこだかのような商社が、小学校の支援も大事だろうけど、灌漑や病害対策、寒冷/温暖化対策をすることである。あと、気候変動に強い品種を開発する研究を先導することである。
これこそが成長戦略だと思う。日本内部だけを視野にしてたら、人口が減少しつつあるときに、成長戦略は、個々人が贅沢するところにしかないはずである。
【Live】おじさんの凱旋0728
金曜日、畏友その1が我がシェアハウスの最寄り駅まで鉢を持って来てくれた。結構大きな鉢である。畏友その1は、キム・ミンギを偲ぶ会に参加予定なので、酒を制御している(痛風持ちなのだ)。だから、酒抜きで沖縄料理店で会ったわけだが、隣の隣駅に住む畏友その2も参加。1と2が会うのは数年ぶりだろうと思う。畏友その2は酒を飲まないのである。よって、会う機会はその分減る。久々に、50年来の友人ふたりと会い、私は久々に楽しい時間を過ごした。
さて、翌土曜日は、我がシェアハウスのおじさんの退院日である。結局、まるまる一週間入院していたことになる。病院は午前10時前に迎えに来てくれと言っているそうだった。これは、たぶん、おじさん→おばさん間のラインによる連絡であろう。
待つことしばし(なんだか、段取りの悪い病院なのである)、おじさんが、入院階のロビーに現れた。「酸素ボンベをガラガラ」はまぬがれたようだ。よかった、よかった。あれ、結構面倒臭いみたいだからね。見るからに面倒臭そう。
おばさんは、矢継ぎ早に「診断は?」「病名は?」と浴びせかける。おじさん、「あまりしゃべらない医者なんで、聞いてない」。いくら無口な医者でも、そんなことあるかよ。おばさん、口をぱくぱくさせる。なんか罵声を浴びせるところだったのだろうが、相手は病人なのでさすがに自重したものと見える。
だが、その病院から、おじさんが普段行っている駅前クリニックの医者宛に送り状とCD-ROMがあったので、たぶんそっちの医者から病状は詳しく聞けるだろうと思う。おばさんもそのクリニックで、同じ医者にかかっているので、なんなく白状させるに違いない。医者は、とりあえず「患者のプライバシーだから」と言って情報公開を拒むだろうが、そこをやすやすと突破するのがおばさんという方である。
おばさんが、口をぱくぱくの後に「閉塞性肺疾患とか、COPDとか言われなかった?」と聞いたのへ、「そう言えば、そのCなんとかというのは聞いた気がする」と、おじさんなんとも頼りない。頼りないと言えば、退院時の酸素の数値は、おじさんによれば92だったということである。これも、「ホントかよ」だ。
私の経験だと、91、92という数値だと居ても立ってもいられないほど苦しく、94くらいで普通に苦しい。「普通に苦しい」をやや詳しく説明すると、たとえば、椅子に座っていて(こういうときは横になるとかえって苦しい。縦になっているほうが楽である)、「いまの苦しさだと、なんとかトイレに行って、戻っては来られるな」と見積もり、恐る恐るそうして、椅子に座る前に、たとえば床に落ちているタオルをなんの気なしに拾ってしまうと、この「なんの気なし」分で相当苦しくなる。つまり、余計な運動分の酸素を使ってしまうのだろう。
でも、個人差があるのかもしれないな。
会計を済ませ、病院からタクシーを呼び、3人で帰ってきた。おじさん、もともと長距離を歩けないし、しかもいまは病人だからね。
お昼は冷やしたぬき蕎麦を我がシェアハウスで食べた。おじさん、「久しぶりに食事をした気分だ」と大喜び。濃い味が好きなので、それだけでもう病院食はNGなんだろうな。あれは食事というよりも、栄養摂取である。
さて、本日は朝のおつとめ(『シェアハウス・ロック』おじさん救急搬送される0723参照)は行ったようだ。午後のおつとめは、日曜だからない。
【Live】パリ・オリンピック0729
私は、オリンピックにも、スポーツにもまったく興味はない。多少なりとも興味があるとするならば、社会現象としてのそれに対してである。つまり、社会にはまだ興味がある。
だから、昨日の朝刊でパリ・オリンピック開幕記事は、ほとんど斜め読みである。目についたのは、セリーヌ・ディオンが開会式(かな?)で『愛の賛歌』を歌ったことと、マリ共和国出身のマヤ・ナカムラが日本のなにやらでパフォーマンスしたということぐらいである。
セリーヌ・ディオンは、それほど好きでもないが、難病でしばらくステージに立っていないことぐらいは知っていた。マヤ・ナカムラは、名前すら知らなかった。新聞には「多様性の象徴」、マリ共和国出身などと書いてあったので、もしかして両親のどちらかが日本人なのかと考えた。中村摩耶さんとか、麻耶さんとか、いそうじゃないの。
結論から言うと、マヤ・ナカムラさんは日本人との血縁はなく、アメリカのテレビドラマシリーズ『Heroes』の登場人物、マシ・オカ演じるヒロ・ナカムラから命名されたという。ヒロ・ナカムラは納得できるが、マシ・オカがよくわからない。「マシ」なんて名前の「オカ」(丘? 岡?)さんなんているのだろうか。
パリ・オリンピックの記事を見る前日、週刊誌で越路吹雪の記事を読んだので、『愛の賛歌』に過剰反応をしたのかもしれないけれども、youtubeで探してみた。当たり前だけど、ニュースを載せたものばっかりで、セリーヌ・ディオンの『愛の賛歌』はきれぎれにしか聴けない。どっかにはあるのかもしれないけど。
『愛の賛歌』の歌詞の日本語訳は岩谷時子のものと、永田文夫のものがある。越路吹雪が歌うのは当たり前だけど岩谷版であり、美川憲一が歌うのは永田版である。美輪明宏が歌うのは自らの訳だという。、
元の詞はエディット・ピアフによるもので、永田版、美輪版のほうが原詞に近い。
なんにもいらない あなたとふたり 生きてゆくのよ(岩谷版)
おのぞみならば 祖国や友をうらぎりましょう(永田版)
もしあんたが望むんだったら
愛する祖国も友達もみんな裏切ってみせるわ(美輪版)
吉本隆明さんの読者としては、この部分で「共同幻想と個幻想は逆立する」(『共同幻想論』)を思い出してしまう。「これは対幻想だろう」という反論が聞こえる気がする。それでも、これは対幻想から照射された個幻想からの発言である。でなければ、「祖国を裏切る」は当たり前だが、「友を裏切る」という言葉は出てこないはずだ。
セリーヌ・ディオンの歌う『愛の賛歌』を、是非通して聞きたいものである。
また、セリーヌ・ディオンの歌った場所がエッフェル搭の下の特設ステージというんで、『愛と哀しみのボレロ』(監督クロード・ルルーシュ)を思い出した。この映画のニコール・ガルシアがとてもいい。「愛と哀しみ」のほとんどは、アンヌ(ニコール・ガルシアの役名)に属するものである。パリ解放のときに、路上で歌い、踊る小柄な女性が出てくる。私は、あの人はエディット・ピアフだと思っている。
『隠喩としての病』(スーザン・ソンダク)0730
この隠喩によって示されるものは、「死」である。
スーザン・ソンダクはこの評論で、結核、梅毒、ペストなどにつきまとう隠喩的表象を検証し、癌についての隠喩の構造に至る。それでも、「病気とは隠喩などではなく、(中略)隠喩がらみの病気観を一掃すること」(まえがき)という近代主義的なくびきからは逃れられていない。
次の抜粋によっても、それは感じられる。がんに関しては、現在ではほぼソンダクの言っていること(遺伝説)は否定されている。
「結核にかかったと知るのが死刑判決を聞くにも等しかった頃」「今日、一般には癌すなわち死とされるのと同じである」「貧困と不健全な環境とが結核の元凶にされようと、この病気にかかるには結核型の性格類型が存在すると信じられた。癌には、遺伝的要因が絡んでいるかもしれないという証拠があっても、個々の人間を懲罰として襲う病気だという信念と両立し得る」。
それでもこれは、かなり根深いところを指摘している。「死」を、それも自らの死を目前にすると私たちは立ちすくみ、現代人、近代人から、一気に中世人、古代人に後退してしまう。
同書のまえがきでソンダクは、「病気が隠喩に頼るのは、『未知な何かがそこに潜んでいる』『恐怖心をかきたてる』からである。病気を病気として捉えるためには、病気を非神話化する必要がある」と言っている。これはとりあえず正しいと思う。
だが、「がん」は、厳密には病気ではない。「がん」は、私たち自身なのである。「がん」細胞の培養に世界で初めて成功した吉田富三の名言に、「がんも身のうち」というものがある。
結核菌、梅毒スピロヘータ、ペスト菌という外部からのインベーダーによる病気とは異なり、「がん」は自分自身の細胞が変異したものなのである。
我がシェアハウスのおばさんは、がんの手術以来、ひたすらがん関係の本を読み漁っている。以前紹介した『がん「エセ医療」の罠』(岩澤倫彦)も、おばさんから回ってきたものだ。かくいう私も、40代で直腸がんが発見され、入院したときには、手術を待つ入院期間に相当数のがんの本を読んだ。
おばさんも私も、ソンダクが言うように「非神話化」しようとしたのだろうと思う。
ところが、吉田富三の名言を参照すれば、「生のなかに抱えている死」ががんであることになる。これは、がんの発生を考えればわかる。ある日、細胞のひとつががん化する。免疫機構で、それが潰される。これが一日に何か所でも起こっている。そして、免疫機構で潰されないものが大きくなると、それを持つ者は、がん患者になる。
40代でがんが見つかったとき、私が一番衝撃を受けたのは次のことである。
私に対し、一貫してひどい対応をする人間がいた。私は、その人には基本的によくしてきたと思う。そして、「いつかわかるさ」と思っていた。ところが、がんを告知され、「その『いつか』はないかもしれない」と思ったときはショックだった。人生観が変わったと言っていいほどである。つまり、私にとって、「生」が「死」から初めて照射されたのである。そこから、この人とはうまくいかなくなった。
ちょっと余計な話だったかもしれない。
「生のなかに抱えている死」は同時性を言っているのであるが、時間軸を考えた場合、私たちは「死に進みつつ生きている」という当たり前の結論が導かれる。「生」と「死」は、私たち生命体にあっては絶対的な二項対立であるが、がんは二項対立ではなく、「生」と「死」の弁証法のようなものまで考えに含めるように迫って来る存在である。つまり、前述の私の「回心」は、がんの「神話性」がもたらしたものだったような気がする。ソンダクの「非神話化」はここで躓く。
『隠喩としての病』の翻訳の刊行は1982年であり、これらの言説は間違いなくその時代のものであるし、それを読んだ私も若く、誤読していた恐れも十分にある。『隠喩としての病』と、その続編たる『エイズとその隠喩』(1990年)は現在合本として刊行されているそうだ。いずれ読んでみようと思っている。
喩について0731
前回、『隠喩としての病』(スーザン・ソンダク)について書いた。
だが、正直なところ、喩というのが私にはわからない。隠喩、直喩くらいならわかる。一般的な説明では、
・直喩:「~のような」「~みたいな」などを使って例えること
・隠喩:「~のような」「~みたいな」などを使わずに、あるものを別のもので例えること
などとなっている。例を挙げる。
・直喩:象のような目
・隠喩:象の目
この例は、吉本隆明さんが、たぶん『言語にとって美とはなにか』のなかで使っていたものである。そこで吉本さんは、隠喩のほうが直喩よりも発生的に古いと言っていた。
私はなんの根拠もないが、それを読むまで直喩のほうが発生的に古く、隠喩のほうが後に出て来た「詞的表現」だと漠然と思っていたので、蒙を啓かれた気がしたものだった。それでよくおぼえている。
このへんまでは、私でもわかる。
だが、諷喩、提喩、換喩、活喩などになるとなんだかよくわからないし、包含、奇想、音喩(これらも喩の範囲なのだそうだ)などと言われると、ますますわからなくなる。音喩は、単にオノマトペじゃいけないのだろうかと思う。
まずネットなどにある説明を挙げる。上記、諷喩、提喩、換喩、活喩の説明をその順番で挙げる。
・例えだけを示し、例えられているものが何かを推測させること
・上位概念を下位概念で、または下位概念を上位概念で表すこと
・何かを表現するとき、その事柄と深く関係しているもので置き換えること
・無生物を命があるもののように扱うこと
活喩だけは別だが、それ以外は全部、「あるものを別のあるもので置き換え、表現すること」という説明じゃいけないのかいと思う。
では問題。「二刀流は、今日も健在」。二刀流は大谷翔平のことであることはわかる。5年以上前だったら宮本武蔵だな、急に古くなるけど。
で、上記カッコ内は、諷喩、提喩、換喩、活喩のどれでしょう?
活喩でないことはわかる。でも、私には、諷喩、提喩、換喩のいずれかが正しいのかはわからない。どれでも正しいような気もする。
これらの用語は言語学で扱うにしてはいささか明瞭さを欠いていると思う。それで私にはわからないのだろう。
もうひとつわかるのは、これらは出自が違っていて、修辞学出身の用語であり、私が修辞学なるものをまったく理解していないためにわからないということである。つまり、修辞学から越境してきた用語なのである。
修辞学のネットの説明は、「修辞学は、弁論、演説、説得の技術に関する学問分野。弁論術、雄弁術、説得術、レトリックともいう」といった感じが多い。つまり、喩も修辞学に含まれる。ようするに、自分で自分を定義しているんでよくわからないんだな、たぶん。
どうも、中学校の国語で教えることじゃないようだ。いまは教えてないのかもしれないけれども。つまり、私は中学校以来、諷喩以下がわからないのである。