予測不能にもほどがある 21 ギリシャ編 (7 昭和的実録 海外ひとり旅日記
日記_023 夢は叶っている
15 / 16/ jun 1978 同室のEngland人
Athensに戻れば戻ったで、途端に憂鬱になる。
2日続きで夜、思い切って洗濯をすれば、些かの気は落ち着くか。
John’s Placeの同室に、MarkというEngland人が入って来た。
なかなか気さくで、俺の英語を褒めてくれた。
(恐らく俺の英語はQeen’s English仕立て(American Englishは習ってはいないし、知らない)で、England人には馴染めるし、カチンとこない(?)のだろう)
調子に乗ってAthensを案内したら、喜んでくれた。(優しい奴)
アドレスを交換し合うことになったので、Englandに行くことになれば寄ることになるかも知れない。
今日はHaşmetとBursaのパン屋の親爺Mehmet(「トルコのパンは美味しいから、暫く見学させて欲しい」とお願いしたら甚く感激してくれて、今釜から出したばかりの”エクメック”やら”シミット”をçayと一緒にご馳走してくれ、山ほど”パンのみやげ”を持たせてくれたのだ)の写真も出来上がって来たので、手紙を書くことにした。
コラム_39 再びサッカーの話 [Markの場合]
(こいつ、頭おかしいのか?)
同室のMarkとは、朝一緒に街へ出ると直ぐに別れ、俺がAthens市内見学を一段落し、再びホテル近辺に戻ってくるとよくcafeで彼を見かけた。
別に声を掛けるでもなく、再び通りかかった時そのcafeを覗き込むと「あれっまだいるっ・・」。翌日も同じcafeに終日居座っている気配、その翌日も・・。
夜部屋へ戻った時聞いてみると、”・・・World Cup.”と言っていた。(何、それ?)
(以前にも書いたが・・)この時”世界が熱狂するサッカー”その頂点が”WC”などそんな知識、露とも俺の頭の中には存在していなかったのだ。
(1978年6月は正にFIFA第11回アルゼンチン大会 対蘭決勝で アルゼンチン優勝の年)
(このnote記事の方針(リライトする場合、その当時の思い|知り得る状況内で表現すること)とは些か離れるのだが、このサッカーに対する無知は、旅を完了し、帰国するや社会復帰・起業|結婚|長女・長男出産そして1993年Jリーグ開幕と同時に地元少年団のサッカーコーチになるまで、続くことになる。
(そう息子が「サッカーやりたい」と同時に、保護者兼としてサッカーをやり始め、その魅力に気付き猛勉強もして、息子が卒団してもコーチを20年近く経験した)
因みに俺の日本に帰国後、Markは間髪入れず独身一人暮らしの俺のマンションに1ヶ月ほど居候し続けていたものだ。
今なら”フーリガン”やら”マンチェ”(Markを友人に紹介し、日本でのManchesterのユニフォームの販売権をMarkが獲得するよう支援したこともある)など、サッカー周辺情報も理解できるようになったわけだから、当時、Markが観光など其方退けでcafeに入り浸り、地元の人たちと一緒になってTVにかぶり付いていた意味も分かろうというものである。
まったくもって世界の常識を知らなかった俺の方こそ、(頭おかしかった)?
コラム_40 日本人はAthensがお好き
Athensでは日本人によく遭う。
ツアーの旅行者を別にしても、バックパッカー同士(?)は目配せで分かるのか、何とは無しのすれ違い様の日本人独特のしつらいを感じた時、お互いの心の嘆息(やあ!)が出るのだろう。
”キブツ”(イスラエルの理想郷的な共同社会運動体)に居て、インドを”最終寄港地”として目指すという若者だったり、既に仏でコック修行2年を終え、日本に帰国する前に南米にも回ろうと、実績を財産としようとしている人だったり、女性はどういうわけか3人組みの楽しそうなグループだったりに、よく遭遇する。
旅のスタイルも色々だ。
各地を渡り歩いている人は、明らかに自分をピエロにする術を心得ている。だから話も面白い。
あらゆる最新情報を収集して旅をする細心型。カセットテープに録音しているヤツもいた。
1.5l入りのジュース(15DRX)を抱えて貧乏旅気取りのヤツ。流石に話は面白く無い。
で俺は、情報集めはその時任せ、安旅に徹する訳でもなくでも高い金を払う気も無い、旅に確たる信念を持っている訳でも無い、どっち付かずの曖昧模糊とした、これもまた一つの典型と云うべきか。
17 / 18 / 19/ 20 / jun 失望の日
しかし失望の日はやって来てしまった。
Julus & Melina夫妻は今週も帰って来てはいなかった。
(もう決断しなければいけないのだろう)
公衆電話の受話器を置くか、置かぬか、俺の足は既に街に繰り出して、土産物屋のウィンドウを覗き回りながら、
(ギリシャには目星い土産は無い!これ以上探すモノは無い!)
足並みはきっぱりしていた。
そして終日、何処と云う当てもあるでもなく市内を徘徊し、確認するように一つ一つ頷き、忘れたものは無いか、無くしたものは無いか。
(Istanbulのような人懐っこい情緒感を欲している訳では無いが、もはや流れる街並に、退屈以外の形容が当て嵌まらないというのか)
21 / jun Julesの書斎
既に夕刻、俺はJules & Melina夫妻の家のあの黒塀の前に立っていた。
桐の下駄と豆絞りの紅い鼻緒のついた草履の入った紙包みを持って。
案の定、夫妻は帰って来ては、いなかった。
「そのままVacationをとっている」
出て来たマネージャーのAngelikiが済まなそうに弁解した。
俺は頷くように、持って来た紙包みを差し出した。
Angelikiは中身を確認するでもなく、手招きした。
天井高の低い、薄暗く狭い書斎のような部屋に通された。
沈黙は嫌だったので、改めて「石畳の上を歩くものでは無いけど、日本の古くからの履き物です。二人へのプレゼントです。」と言って、紙包みの中身を開いてもらった。
(Melinaには豆絞りの紅い鼻緒の草履を履いて欲しかった、あの大股の堂々とした足取りで・・・)
Angelikiもこの重い空気を回避しようとしたのか、二人の最新作のこと、62才(Julesの歳、67才?)であること、書斎のShakespeareの目立ったこと、年老いた犬がいること、3人の子は前妻の子であり一人がJoh Dassinでシャンソン歌手であること、Melinaはsocialist partyの一員であること、などなど延々と、そして一方的に喋ってくれた。
(聴いている程に、やはり彼らに一眼でもと思うのだが・・・ちょっと、二人と同じ空気に触れることができたような気もする・・・)
彼らの家を離れるに連れ、
(夢は思っていることで、すでに叶っているのかな)
(ここまで足を運ばせてくれただけで、十分実現してるのかも)
何か胸の支えが降りた風で、足取りが軽い。
(Athensよ、さらば!)
22 / jun Athosへ
出発の時、Angelikiが「2日前にTessalonikiで地震があった」ことを教えてくれた。
列車の車中、その殺気からか人々の話題はそれで持ち切り。新聞にはかなり残酷な写真が掲載されていた。
しかし、Tessalonikiを迂回しようとは思わなかった。
ギリシャを去る前にもう一ヶ所Athosは体験しておかなければ、という奇妙な使命感様の気概に支配されていた。
そのための通過点であろうともTessalonikiへは向かわなければ。