昭和的実録 海外ひとり旅日記 予測不能にも程がある 17 ギリシャ編 (3
日記_019 実現したい
26/27/28/may 1978
実は昨日博物館の帰り道、”Broadway Theater”の場所を探し当て、しかもシアターのマネージャーと称する人からJules & Melina夫妻の住所まで聞き出すことができたのだ。
(日本を出る前、ギリシャ大使館で「現在、夫妻で舞台を上演している」ことを教えてもらってきていたのだ。舞台は既に楽日となっていた)
帰路、マネージャーから戴いたMelinaのパンフレット・スチールを抱え、アテネに来て良かったかも知れないという思いが、俺の歩速を軽くした。
教えて貰った住所はすぐ分かった。
中はまるで見えないが、その黒い塀がまるで舞台の袖でもあるかのように、しばらくするとhelperのKaterigiという初老の夫人がフーッと現れた。
夫人に「Jules & Melina 夫妻のファンで、日本から2人に逢いたいと思い、Athensに来た」ことをたどたどしい英語で汗だくで伝えた。
(実は夫人も英語はあまり得意ではないらしく)しかしこちらの趣旨は充分理解してくれたようで、
「カンヌ映画祭に行って、今二人は留守・・、来週の火曜日には帰ってくるだろう・・」と親切に、実直な声色で(?)教えてくれた。
彼女の対応は(逢えそう)という力を与えてくれた。
気分が上がった勢いでMarathonに遠出をしたが、褐色の丘にオリーブの樹々ばかりで、何もない。あぁmistake!
教えてくれた日まで近場で面白そうな処ということで、Aegina行きフェリーを選択。
フェリーのデッキは既に、実に陽気な気配に溢れていた。観光客も余り利用しない、多く地元の人たちの利用するフェリーなのかもしれない。
汽笛信号も待つか待たずか、持ち込んだカセットデッキにギター・ハーモニカ・アコーディオンまで搔き鳴らし、早々のミニコンサート。
一緒のグループなのか?既に打ち解けすぎて、激しい抱擁をしている者たちも、何を祝っているのだ。
(これぞギリシャ、これぞアテネ人!ピレウス万才!「日曜はダメよ」(1960年)の真骨頂だ!)
Aeginaでフェリーを降り損なった。
Aeginaを終点と勘違いしていて、みんなが降りないから、まだ到着していないものと思ってしまったのだ。
お蔭で(?)Porosまで無賃乗船!
(途中検札も来ず、降船時も切符回収などもなく申告しそびれてしまったのだ。言い訳)
Peloponnesos半島を背景に真っ白な家並みはやっぱりギリシャ。
ツーリストポリス(ポリス帽被ったこんな人がいるんだぁ)に教えて貰ったMonasty Beachの民宿で、一段と陽に焼けた。
コラム_31 映画「10:30 PM, Summer」
(1966年)
小学2年生の時「ベンハー」(監督:ウィリアム・ワイラー)を観て、"映画監督"になると決め、高校で映画研究会を勝手に創り、映画館主をタブラかしてはタダ見をしていた映画の中に「10:30PM,Summer」(夏の夜の10時30分)に出逢った。
初老を迎えようとする夫婦+夫と愛の過去を持つ女性3人での奇妙なスペイン旅行。伏線に不貞の妻|愛人を殺してしまった土地の若者の逃亡に徐々に心惹かれていく初老の妻。
雷雨の中の銃声・・場末のバー・・フラメンコの手拍子・・苛酷な太陽・・丘の岩盤の意志・・不定の愛・・失踪・・
一つ々のシークエンスを練り上げることで観る人を一気にガツーンと共感の高みに引き摺り込んでいく創り手たちのその熱量の激烈さに唖然とさせられたのだ。
「かくも長き不在」のマルグリット・デュラスとジュールス・ダッシンの共同脚本とあのメリナ・メルクーリの涙も枯れたかの虚無が堪らないのだ。
少年の頃の映画との出逢いが果たした勝手な思い込みと、既に映画監督とは違う道筋を行こうとしている今が、ここまで足を運ばせているということ。
コラム_32 「Never on Sunday」
Athensは深い緑の公園がとても多い。
ギリシャ人は公然とキスをするのを厭わないようで、男女関係はとてもオープンに見えるから、公園は恋人たちの格好の場であるのだろう。
俺はと言えば、ギリシャもまた(トルコと比較)路上売りのパン類は美味しいので、ランチを頬張るためによく利用した。落差。
「日曜はダメよ」名タイトルですよね。
「"・・・ダメよ"?どんな理由で?」が必ず続くが、これが洒落てる。
何を想像する?
「教会に行くから」ブーゥッ、「洗濯をするから」ブーゥッ、
(ネタバレ、言っちゃダメ、でももうダメ!)
「ギリシャ劇観劇のため」
しかも続きがあって、彼女(娼婦)の独特な感性による解釈は、ギリシャ悲劇を全てハッピーエンドにしてしまうこと。
子殺し・親殺し・裏切り・違い etc.
ヒトの性を題材とすることが多いギリシャ悲劇が・・・。
日本で言えば、歌舞伎を観て涙し、共感の気晴らし、とは似て非なる感覚。
アメリカでの”赤狩り”を逃れ(米でのハリウッド映画とは一線を画した”フィルムノワール”の先駆者)、自分の自由な表現を求めた監督Jules Dassinだからこそ、この”ギリシャ”、この”天真爛漫”さ、で映画を撮れる開放感こそが、この映画を創らせたように思う。
ウゥゥ、こういうネタに、弱いのだ、
アァァ、Never ,Never , ダメ!
※ 2024.01.29 記
”赤狩り”時代の”Film Noire”は、当時から映画館に架かる機会が本当に少なく、観るチャンスを失くしていた。
そして遂にほんの先日(2024.1月)1947〜1950年のJules Dassinの4作品を観ることができた。大感激。
予想に違わず否超えて、映画の可能性への創り手側の強い信念と可能性すらも突き抜け突破しようとする冒険心の熱さには、本当に涙が溢れるほどであった。
後世映画界の多くの巨匠と言われる人たちにも多大な影響を与えている訳だが、ヌーベルバーグの10年も前に実践しているということに驚きの念を禁じ得ない。
改めてその生涯を讃えたいと思う。
Jules Dassin 1911.12.18 - 2008.3.31没
Melina Mercouri 1920.10.18 - 1994.3.6没
29/ 30/31 may
Hydraへのフェリーを逃し、 致し方なく戻ることに。帰り道、今度こそのAeginaへ。
空模様が怪しくなって来た、スコールかなと思いきや雲間からの陽射しが、一瞬線状の光束となり、放射状に広がり、アポロン神殿にたった一本残されたcolumnを逆光にするように射抜いた・・・。
(Oh,my God!)
こういう光景って有るんだな。
Piraeusに戻り、John’s houseに行ったら明日何かの検査があるらしく、宿泊客は誰も入れていなかった。
ロビーのソファで寝かせてもらうことになった。
Katerigiの言っていた日なのだが、緊張で気持ちがグズグズしている。
思い切って電話をしてみると、別の女性の声で「まだ帰っていない。来週だろう。」と。
(ホッと気が緩んだような)イヤな予感もよぎる。(トルコでの仲々下りないパスポートのような)
直接Katerigiから聞いたわけじゃないと勝手な思いで気を取り直し、それでも虚ろな足取りで、街中へ。
写真屋に、トルコで撮った写真ネガが出来上がっていた。
結構良く撮れていた。HaşmetとBursaのパン屋、それとEciに送ると約束した写真をプリントに出す。
https://note.com/jolly_alpaca572/n/n35e23aa7273b
トルコと比較すると、カラー36枚撮フィルム160DRX(トルコ2500円位)、キャビネプリント10DRX/枚、まあなんとかなる値段か。
日本大使館でAthos入域許可の推薦状を、明日貰うことになった。
[Athos山域はギリシャ正教の聖山で、ギリシャ国内でありながら独立国の様相を呈し、今だ中世が生きていると形容される地域]
国々の生活を感じたいと思えば,宗教は切り離せないだろう。日本のように行事でしか残っていない国とは違って、多くの国は日常に宗教観を残しているだろう。
その空気感はぜひ感じて試たいと思う一つが、ギリシャ正教だった。
翌日推薦状を持って外務省に足を運ぶと、簡単な手続きでAthosへの入域許可を貰えた。
何故入域許可が必要なのかはよく分からないのだが。
1-1/jun
Peloponnesos半島をグルっと回ろうとも思ったのだが、週末にJules & Melina夫妻が帰るかもということで、廻れる範囲でMykinesまで行こうと思う。
概ねKorintosに着こうかという時、バスは奇妙な場所を通過した。慌てて降りて、確かめることにした。
俺の近づく道に直角に交差するカッターの切り口のような真っ直ぐな線が、褐色の地平線の左右に消えている。
(何?)辿り着いてその切開部を覗き込んで、思わず竦んだ。
正に鋭利な切断面の褐色の両壁が競り込んで、その下端は明らかでない。思い切って乗り出そうとするが、手摺がある訳でもないから竦んで立っていられない。腹這いになっていざり寄り、確かめるように覗き込んだ先に真っ青な水面が軌線となって現れた。優に7・80m直下なのだろう。
(何?まだ飲み込めていない。こんな人工的な削面をもつ川など無い!運河?スエズ?)
その真っ青な水面を揺らす木の葉のようなものが見えた。
しかもその上で蠢いているものもある。
やっと合点がいった。
フェリーのデッキ上の観光客らしい人たちが、こちらに向かって手を振っていたのである。
俺もそれに全身で答えようとするのだが、すぐに目眩を覚える危うい態勢であることに気づき、止む無く目一杯の気持ちを片手に込めて、振り返した。
Korintos運河であった。