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中学受験 サピックス5年生 平城京・平安京 (1)

今回は、サピックス5年生の歴史第三回になります。

天武天皇の政治
天智天皇の死後、皇位をめぐって大友皇子と大海人皇子とが争いました。これを壬申の乱といいます。勝利したのは大海人皇子で即位して天武天皇となりました。
彼は天皇と皇族を中心とした体制を築き、唐の政治制度を手本に飛鳥浄御原令あすかのきよみがはらりょうを出したと言われています。唐を見習って奈良のに藤原京の造営を計画しました。我が国初めての貨幣である富本銭を作りました。また倭と呼ばれていた国号を「日本」としたのも、大王を天皇と称するようにしたのも天武天皇の治世の時代だと言われています。また、完成したのは奈良時代ですが、「日本書紀」「古事記」を作るようにも命じました。次に天皇となった持統天皇は天武天皇の皇后でした。

律令政治と平城京建設

朝廷は唐の政治制度にならって701年に「大宝律令」という法律を制定しました。「律」は刑罰で、「令」は政治の仕組みを表します。これに基づいて政治を行うことから「律令政治」とよびます。
 朝廷は都に二官八省の役所を設置し、都の豪族は貴族となり朝廷の役職に就いて政治に参加しました。地方は五畿七道に分けました。東海地方、北陸地方、山陽地方、山陰地方など現在も当時の名前が使われています。そして六十の国には「国司」と呼ばれる役人を派遣しました。地方の豪族からは郡司、地元の有力者から里長を選び政治の仕組みを整えました。九州には大宰府が設けられ、中国や朝鮮半島との外交や九州全体の統治にあたりました。
こうして朝廷の命令が地方の隅々まで実行される、天皇を中心とした中央集権の国ができたました。
次に唐の都の長安をまねて、元明天皇の治世の710年に平城京を造営しました。北に天皇の住まいの内裏があり、その朱雀門を出ると南に向かってのびる大通りが朱雀大路で都から出るときには羅生門を通りました。都の東側の部分を右京区、西側を左京区と呼びました。さらに西側には外京と呼ばれる区が造られ、春日山を切り開いて作られた東大寺があります。
平城京の東西には市がたち、各地からもたらされた産物が扱われました。ここは現在の奈良市にあたります。


聖武天皇の治世

724年に即位した聖武天皇は、貴族同士の争いや天災、伝染病などがはやる時代を安定させようと都を平城京から恭仁京(京都)→難波宮(大阪)→紫香楽宮(滋賀)と何度もかえました。恭仁京にいたときに仏教の力で国を治めようと考え、各国に国分寺・国分尼寺を建てることを命じました。平城京の東側に総国分寺の東大寺を建て、春日山を切り崩してここに大仏を建立することを決めました。材料は銅が約500トン、すずが8.5トン、水銀、金などでした。完成したのは752年で命令から9年の歳月がかかりました。
僧の行基は諸国をめぐり橋や道を造り農民に仏教を説いて「菩薩」と呼ばれていましたが、天皇の命令で協力しました。大仏が完成したときの開眼供養はインド出身の僧が執り行い、中国や朝鮮の歌や踊りが行われるなど国際色豊かなもので、聖武天皇の時代の文化を特に天平文化と呼んでいます。

大陸では隋の後に唐王朝が興り、630年に犬上御田鍬が第一回の遣唐使として大陸に渡りました。船は四せきで合計500~600人の人たちが東シナ海を渡りました。留学生や留学僧たちは長期の留学をし、政治や文化・仏教を学び帰国後国の発展に大きな貢献をしました。717年に唐に渡った阿倍仲麻呂は唐の朝廷の役人として仕え、帰国がかなわず一生を終えました。この遣唐使は894年に菅原道真の意見によって中止になるまで十数回行われました。唐へは蚕から作った真綿、水晶、金などを持っていき現地で換金し、仏教の経典や香木などを買い求めました。東大寺の正倉院には天皇・皇后の宝物が収められていて、その中には中国とヨーロッパを結んだシルクロード通じてインドや西アジアからもたらされた物があり、正倉院はシルクロードの終着駅と言われています。
 唐の僧である鑑真は聖武天皇の招きに応じて、753年に6回目の航海で薩摩半島の坊津辺りに流れつきました。平城京に唐招提寺を建て仏教の制度を整えました。また薬草の知識なども広めました。
律令制の国になって国の歴史をまとめた歴史書が作成されました。一つはヤマトタケルの伝説などを所収した古事記と天皇中心の歴史で持統天皇を持って終わる日本書紀です。地方の名前の由来や伝説などを記した風土記の編纂も命じられました。庶民から天皇までの歌を4500首も集めた万葉集は7世紀後半から奈良時代中期にかけてまとめられました。

税の仕組み

 朝廷は中国の制度にならって戸籍を作りました。これは税の徴収と兵の調達の基礎とするためでした。戸籍に基づいて良民の六才以上の男女に口分田という田を貸し与え、死後国に返すようにしました。この制度を班田収授法といいます。収穫した稲の3%として地方の役所の国府に納税させました。また一般の成人男子には都で10日働くか、その代わりに布で納めると、各地の特産物で納める調などの税がありました。
三つのうち調の二つの税は、都まで運んで納めなければいけませんでした。兵役では都の警備をする衛士や九州の守りにつく防人がありました。各地にどのような特産物があったかは荷札として使われた木に墨で書かれた木簡と呼ばれるものからわかります。




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