見出し画像

共産主義的【平和主義者】をアジってみた

戦争さえなければ、無数の英霊はそれぞれにかけ替えがない(遺族にとっても)命を失わずにすんだのである。ならば二度と戦争を起こすまいとする努力が英霊への恩返しにもなる。
戦争を防止するためには、歴史の教訓として戦争の実相を正確に分析し、そして語り伝える事が必要である。そしてなぜ【戦争】をしなければならない状態になったのか真摯な反省をもつことである。反省なくしては、我々は歴史からなにも学び取ることはできない。
特に1945年(昭和20年)8月15日正午の昭和天皇陛下による玉音放送から75年になる今、戦争の記憶は風化し、戦争を生き延びられた体験者は僅かになられた。
バブルを含む数度の好景気などの経済繁栄を経て、戦争の傷痕は薄らぎ、永久平和を誓った平和憲法を堅持しつつなか、周辺国(中華人民共和国、大韓民国、ロシア連邦)の大幅な軍事拡大により永久平和が動揺しつつある。その中で、自民党(小泉政権時)、民主党(現在立憲民主党)のデフレ政策での失敗による不景気から、軍事費GNP1パーセント枠からさらに減らされて、かつて米ソ軍事対決の構図からは兵器の性能、インターネットでの新たな戦術、衛星という宇宙戦略というあり得なかった戦術・兵器の向上は、かつての米ソ冷戦の枠組みでの安全保障では何ともし得難い状況が発生している。かつての第二次世界大戦における日本の体制や役割を軍国主義の【罪】として戦争の愚かさ、非人間性を日本国及び日本国民に押し付けてきたことは、2020年の現代の日本人ならば判りうることであるはずである。1991年にソ連が崩壊し、ペレストロイカでの情報開示で、1995年アメリカ国家安全保障局NSAが【ヴェノナ文書】を開示し、ロシア現代史史料保存・研究センターが【RGASPI】の文書を公開したことがきっかけで、ソ連における日本と米国を争わせるための工作を進めていたことや、その一端として当時のソ連の意向を受けていた中国共産党工作(西南事件)により、時期尚早であった抗日戦闘が繰り返し行われ、挙句中国大陸全体を戦果に巻き込む【紛争(事変)】となったということが一部の書類の分析から判っている。このことは日本国のみが反省を試みるという次元ではなく、いま本当に反省が求められていることは、当時の分析と再考である。日本軍国主義の【罪業】と、今でも【レッテル】を貼り付けることは簡単である。オーム真理教というカルトと同じく、何も考えずに唱えれば目の前の教授・教師に恭順を示すことはでき、良い心象と内申書の点数を得るかもしれない。しかしながら、当時は2.26事件前までは、英米仏ら四カ国条約などで、結んだ軍縮の動きを評価せずに、また満州エリアという清国の領有地の明確な国境もなく、ソ連は国境策定にわざと参加しない状態での、安全保障上きわめて困難な日本の状況を理解せずに、後に起こり得る満州事変や支那事変をして、【罪業】と簡単に言えなくなっている。
現代の日本人の愛国の方法は知らない。国を愛する方法は【銃を取るしかない】と単純に信じている人がいるか、それもわからない。中華人民共和国は大量の核ミサイル、通常攻撃ミサイルを日本側に常に向けているし、ソ連を【国家継承】すると2020年の憲法改正で【明記】したロシア連邦は、明確に日本国の敵国となってしまった。それでも【自分の視野周囲3メートル余りが幸せすぎて】【銃を取るしかない】ことへの反対論を堅持する人はいるだろう。それは【現状認識】のちがいだから仕方がないとおもう。私は、反対の人がいたら、【現代の戦闘】は【銃器】だけではないのですよ。政治、情報、思想、経済など様々な手法によって、【日本国の自決権】や【自由】【平和】をおびやかす【戦闘】スタイルに変わってしまっている。それに対応することは非常に広範囲で【銃を取る】だけでは対応できることが難しいと言及したい。それでもなお【銃を取らない】ことが【平和に繋がる】と盲信し、反対する方にも、決して暴力的に妨害したり取り除こうとおもわない。
しかし、自分の妄想からの【銃を取らない】ことが平和に繋がる式の【平和】愛国様式を他人に押しつけないでもらいたい。祖国に二度と戦争をさせないために努力をすることこそ最大の愛国であり、無意味な戦争を防ぐために、もてる能力のすべてを傾けている人たちに、【銃を取らない】ことが平和に繋がる式の【平和】愛国様式の能がない人たちは、『ヴェノナ文書』や【ゾルゲ事件(朝日新聞記者の尾崎秀実)】、【ソ連】、【共産主義】をもう一度調べなおすべきである。
国を愛するということは、銃を取るだけの幅の狭いものではない。最も単純に解釈しても、国を愛し、国に忠実であるということは、国の基本姿勢を規定した憲法の精神に忠実であることである。
憲法前文に「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し(中略)日本国民は国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な目的を達成することを誓」い、二十一条において「言論、出版、その他一切の表現の自由は、これを保障」しており、九十七条において、この「基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は過去幾多の試練に堪へ(中略)侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」規定されている。
これらの規定と精神に忠実たらんとすれば、必要な軍事力拡大と日米軍事同盟の強化、大日本帝国の何が道を誤ったのかの分析、近代史の教科書の見直し、核武装、憲法改訂とならざるを得ない。それは左右のイデオロギーの違いではなく、戦争か平和か二者択一のような単純な問題ではないということに気がつき、そもそも【戦争】は日本国が国際連合に加盟しているのであり得ないことは明白として、安全保障上やむ得ない【戦闘行為】以外の【紛争】をいかに防いでいくかを考える必要がある。
近年、中華人民共和国の著しい軍拡と尖閣諸島への度重なる領海侵犯、それと時節を同じくして行われている大韓民国の軍事拡大は、非常に懸念されることであり、仮に現在の【永久平和】を歌った平和憲法下での日本国・日本国民を守るためにも税制を含めて考えていかねばならない。
夥しい英霊の犠牲の上に、再び同じような戦争の惨禍を重ねるようなことがあれば、それこそ英霊に対する冒涜であり、英霊は死んでも死にきれないおもいであろう。
先の大戦は、いったい誰が起こしたのか? 誰が【戦闘】を欲したのか? よくよく分析する必要がある。
かつて、【蛮行などと無知と認識違いをした南京事件】を語った東史郎元上等兵が、
「…悪は誰が起こしたのか。責められるものは誰なのか。…」という言葉を借りれば、いったい誰が目論んで日本を紛争から戦争に巻き込んだのか。「数ヶ月前まで、家庭で良夫、恋人、兄弟でありし人々を」を紛争と戦争に送り出す仕儀になったのか。
大日本帝国の原因はもとより、ソ連、共産主義者、蒋介石国民党、中国共産党、アメリカ共産党、アメリカキリスト教関係者の一部もその原因を明らかにすべき必要がある。
しかし、決定したのは、当時の日本国の内閣であり、軍部であり、ソ連の工作員に騙されて引き込まれたのは明らかに大きな過失と責任の一端はあるとも考える。
二度とそういうことのないように、戦争の実相を明らかにし、後の世代に語り伝えようと努力している者を、歴史修正主義者とか反知性主義者、レイシストなどとレッテルを貼って【排除】しようとするのではなく、そのような憲法で保障されている主義主張できる権利を迫害する人々が口にする【平和】は、私には理解できないし、【平和】を本当に守るのならば、どうやったらば日本やアメリカが騙されたような二の舞を防ぐのか考える必要がある。
ゾルゲ事件の一味であり、日本国の内閣を2度も率いた近衛文麿の個人の政策諮問機関の一員であった尾崎秀実は決してソ連を擁護したり、当時の中国の軍閥らを擁護したわけではない。
経済や平和を口にしたのであって、【利益】を用いて誘導しただけという単純な話であったわけである。
戦前の内閣や軍部や日本国民の大多数が、【銃を取るしか能のない愛国主義】だっために、国土は荒廃し、無数の英霊が生まれた生まれたという単純な話ではない。現在でも中華人民共和国という中国共産党が国家、法律、人民の上に君臨する民主主義ではない国家の危険性は、尖閣諸島やスプラトリー諸島周辺(南沙諸島)やウイグルやチベット、モンゴルなどから虚偽かもしれないが漏れ聞こえてくる【ジェノサイド(定義としては「虐殺・民族浄化」)】の【噂】からも理解できるはずであるが、現在の経済状況から無視することはできない現状と似ているということである。そういったことを我々は忘れてはならない。

ネタ元は下にあるので、中学生・高校生の方は、どちらが正しいことを言っているか、他の書籍・資料を読んで考えてみて欲しい。
今から、あと何十年でいろんなことが起こるかもしれない。
その時、日本という国をどう維持したいか、または放棄したいかは、君ら中高生にかかっている。

P.197
戦争さえなければ、無数の英霊はそれぞれにかけ替えがない(遺族にとっても)命を失わずにすんだのである。ならば二度と戦争を起こすまいとする努力が、なぜ英霊に対する冒涜になるのか。
戦争を防止するためには、歴史の教訓として戦争の実相を正確に語り伝える事が必要である。そして常に真摯な反省をもつことである。反省なくしては、我々は歴史からなにも学び取ることはできない。
戦後四十余年して戦争の記憶は風化し、戦争体験者は毎日に少なくなっていく。
戦争の傷痕は薄らぎ、永久平和を誓った平和憲法が動揺し、軍事費GNP一パーセント枠突破、米ソ軍事対決の構図の中に組み込まれて、軍拡路線を突っ走りつつある現在こそ、軍国主義の罪を摘発して「のど元の熱さ」になった戦争の愚かさ、非人間性を国民に再認識させる必要があるのである。他国の反省よりも、いま日本の反省がもとめられているのだ。
日本軍国主義の罪業には、時効はない。
人はそれぞれに愛国の方法はあるだろう。国を愛する方法は銃を取るしかないと信じている人がいても、それは信念のちがいだから仕方がないとおもう。私は、反対の人がいても、決して暴力的に妨害したり取り除こうとおもわない。
しかし、自分の愛国様式を他人に押しつけないでもらいたい。祖国に二度と戦争をさせないために努力をすることこそ最大の愛国であり、無意味な戦争を防ぐために、もてる能力のすべてを傾けている人たちに、銃を取るしか愛国の能がない人たちは、その銃口を向けたのである。
国を愛するということは、銃を取るだけの幅の狭いものではない。最も単純に解釈しても、国を愛し、国に忠実であるということは、国の基本姿勢を規定した憲法の精神に忠実であることである。
憲法前文に「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し(中略)日本国民は国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な目的を達成することを誓」い、二十一条において「言論、出版、その他一切の表現の自由は、これを保障」しており、九十七条において、この「基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は過去幾多の試練に堪へ(中略)侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」規定されている。
これらの規定と精神に忠実たらんとすれば、軍拡路線反対、教科書検定反対、核空母原潜寄港反対、日米軍事同盟反対、憲法改訂反対、日本軍国主義復活反対とならざるを得ない。それは左右のイデオロギーの違いではなく、戦争か平和か二者択一の問題に帰結するのである。
夥しい英霊の犠牲の上に、再び同じような戦争の惨禍を重ねるようなことがあれば、それこそ英霊に対する冒涜であり、英霊は死んでも死にきれないおもいであろう。
そういうことのないように、戦争の実相を明らかにし、後の世代に語り伝えようと努力している者を暴力的に妨害し、憲法で保障されている権利を侵す人たちが口にする「愛国」は、私には理解できない。
銃を取るしか能のない愛国主義のために国土は荒廃し、無数の英霊が生まれたことを我々は忘れてはならない。
『隠された聯隊史』は国民に再び銃を取らせないための歴史の教訓を、兵士の血にまみれた陣中日誌の中から掘り起こしたものである。

P.194 10行目
東史郎元上等兵は、万年筆をにぎり直し、原稿執筆を再開した。
「…悪は誰が起こしたのか。責められるものは誰なのか。数ヶ月前まで、家庭で良夫、恋人、兄弟でありし人々を、誰が、何が変心させ、蛮行に走らせたのか……その探求を我々三人は、会見した記者諸君に呼びかけたのである。」
ひたいに汗をにじませながら、七十五歳の老兵は、胸にたぎる感情をおさえ、おさえしつつ投書を書き進めていった。

出典:下里正樹『隠された聯隊史―「20i」下級兵士の見た南京事件の実相』
青木書店 1987年11月30日 平和のための京都戦争展実効委員会/日本機関紙協会京滋地方本部

いいなと思ったら応援しよう!