書けない part.x
そう、書けないのだ。
今回の書けないはしかし深い絶望を孕まない。
5月のすっきりとした青い空のような書けなさだ。
3週間ほどが経過するので、時節にも合う「書けない」なのがまた面白い。
どうして書けないか。いつもならどうして書けないのかの理由も分からず途方に暮れることが多いけれど、不思議と今回は目星がついている。
僕は人を書けないし、変化も書けない。
だから書けないのだ。
人物が書けない
現在長篇小説『his will』を書いていることはnoteやその他媒体で垂れ流している話であるが、やはりと言うべきか、複数名の人物が出てきたところで筆が止まった。人物の台詞や動作は指人形の劇場のような印象を抱き、それに伴って風景も一枚の画用紙に描かれたものに変わった。こんなもののために血肉を捧げる気にはどうしてもなれなかった。これを「プライドが許さなかった」と言い換えるのは容易だが、それはプライドが許さない。なぜなら作品を書く気は潰えていないからだ。
字数で言えば3万字の壁を越えたあたりであるが、全体の構成からすると1/10にも満たない序盤の序盤である。
人物を書けないのは今に始まったことではない。中学高校時代から人物を描くのを苦手としてきたし、大した改善もできずに今に至る。
正直、新しく人物を作り出すことは困難と言わざるを得ない。今現在の僕がつくりだした人物を、きっと僕は愛せないからだ。
しかし方法がないわけではない。僕には過去に書いてきた物語があって、そのなかで息をする人たちがいる。彼らならばもしかすると僕の助けになってくれるかもしれない。そうでなくても彼らの生き様から着想を得ることはできるだろう。
事実『his will』の主人公はある作品から連れ出してきた。今となっては名前を除けば似ても似つかぬ人物になったが、僕はそれで構わないと思っている。
以前であれば手抜きな手法だと考えていたが、今はむしろ人物を2作品で掘り下げる有効手なのではないかと改めた。
ひとりだけ真にオリジナルな人物も構想しているが、果たしてその人物を僕は受け容れることができるのだろうか。
まあ、十中八九僕は苦しむことになるだろうが、せっかく叩き台になるのだ。充分叩いてやろうではないか。
変化が書けない
物語を単純化すると、日常から非日常へ向かい、そして日常へと還ることだ。
そして還ってきた日常は、かつてのものとわずかに違うものになる。
神話やおとぎ話の時代から物語の構造とはこういうものであるわけだが、今の僕は変化が書けない。
それは哀しいかな、僕自身に変化がないからであるように思えてならない。
だから僕は変化しなければならない……と、かつての僕ならばそう考えただろう。しかしその発想は小売業界における値下げ戦争のようなもので、最終的に訪れるのは焦土しかない。
僕は書けない。書ける環境は用意すべきだ。しかし書ける環境は居所でなければならない。
腰を据えられる場所があるとすればその場所に踏みとどまるくらいの努めはしなければいけない。放浪する埃はやがて他の生物の餌となってしまうのだから。
よって僕は、変化のない世界で変化のある物語を書く必要がある。
しかしながら、僕の人生になにひとつ変化がないのかといえば嘘になる。ホームセンターに毎日のように入荷するセンター便をひたすら陳列する代わり映えのない日々であるが、しかし商品満載のオリコンを折りたたむ心地よさ、一箱一箱消えていき納品置場が空っぽになったときの爽快さは、紛れもない「変化」ありきの気分だ。
(そして爽快さを抱いた矢先に翌日の納品が来て、変化の無常さを思わせるのだ)
そう、実感としては薄いけれど、僕は案外変化のある世界にいるらしい。
変化があったとしてもそこに意味がないと考えているから、変化を機敏に捉える感覚器が乏しくなっているのだと思う。
加えて『his will』はひたすら長い物語だ。
変化のない世界は書く側の人間にとってもモチベーションの上がらない話になる。もちろん最後には物語の構造通り変化があるわけだが、そこに至る40万字を、それも意味を持ち合わせた40万字を、大した代わり映えもなく書き進めるのは、とてつもなく酷な話である。
当たり前だけど小さな変化はほしい。プロットを読み返すと、この「小さな変化」がまったく意識されずに書かれていることに気づいた。
今まで40の断片を10の断章にまとめた4本のラインで緩急をつける、ブレイク・スナイダーの脚本術をもとに手掛けていたけど、それだけではモチベーションの維持には足りないのだ。
1本のラインごとに40の断章に細断して、ラインひとつであたかも短篇であるように手掛けるのだ。
これは連載小説のような考え方に近い。連載小説も区切りが明確である分、僕にとって気持ちの維持を図るうえで好都合かと思うし、小学時代に手掛けた『ソフィアの物語』以降、僕が長いものを書くときは決まって連載方式であった。
だから書くのだ
新刊がある。
エッセイ『だから僕は他人の為の書くのをやめた。』
短篇集『ユーメと命がけの夢想家』
この2本の作品を世に出した直後に、「書けない」と易々言ってのけるのはあまりに無様で滑稽であほくさであると思って、しばし臆病になっていた。
これらエッセイも短篇集も、言ってることは同じだ。
「書きつづけろ」「書きつづけるには書きつづけるしかない」という当たり前のことを綴っている。
そんなことを言った矢先に書かなくなっているのは、実に愚かであると思われるのではないかと、怯えていたのだ。
けれども、たぶん、そんなことはどうだっていいのだ。
僕は書けない。遅かれ早かれその日が訪れることは理解していた。ビギナーズラックの終焉シグナルがきらめいたにすぎない。
重要なのは、どうして書けないのか、書く気が起きない僕自身の嫌な部分はどこか。その部分から目を背けることなく考えていくことなのだ。
だからこの「書けない」は手離さずにいたい。離したいけど、ここで離してはいけないのだ。
どうせ書けないのだ。
一度死んだ身なのだし、書けたらそれはものになるし、でなければ変わり映えないだけ。最低値に立つ身は気楽なものだ。
そんなわけで、明日は文学フリマ岩手が開催される。
https://c.bunfree.net/c/iwate09/35687
僕にとっては腐れ縁みたいな地だし、一千万年読みつがれてほしい作品の舞台でもある。
そんな地に僕は2本の新刊、
エッセイ
『だから僕は他人の為の書くのを
やめた。』
短篇集
『ユーメと命がけの夢想家』
これらをお披露目できることを誇りに思う。
僕は今書けないし、清々しい書けなさというのは「書かなきゃいけない」という焦燥感が霧消しているところが恐ろしい。
けれども、それでも、僕は書く。
書きつづける。
この呪いを何度でも吐こう。
書き続けるしかないのだから。