霧がかる夕焼けと湘南平
西の空が茜色できれいだった。
こんな日はドライブをしようと地元の田園を走らせていたら、湘南平に霧がかかっているのに気がついた。
湘南平。
標高約180M、平塚の西南にある山の名前だ。
正しくはその山の頂上を指す名称で、千畳敷とも呼ばれる。一帯が平らで、散歩やキャッチボール、季節によっては花見をする地元の人たちが訪れる。
このちいさな山の麓で育った僕にとって、それこそ「親の顔より見た」と形容できる相手だ。
コンクリート造のレストハウスと、白と赤の鉄骨で造られた東京タワーみたいなやつ(テレビ塔と呼ぶ人もいる)が、千畳敷の両端に建っていて、それが自室の窓から見えるのだ。
湘南平に霧がかかること自体は珍しくない。
相模湾に壁のように立ちはだかる湘南平は、湿った南風を全身で受け止めるため、付近は晴れていても、湘南平だけは曇っていたり、濃霧に包まれていたり、なんてことはよくある。
人によっては、湘南平の雲のかかり方で天気を占う人もいるほどだ。(※)
その日の霧は湘南平のテレビ塔の中ほどのみを隠し、脚の部分と先端はくっきりと見える構図であった。
さながら霧の帯が巻かれているようであった。
であるならば、ぜひとも巻かれてみたいという衝動が湧いて出てくるのは自然である。
ハンドルを握る僕は、自ずと湘南平に向けてアクセルを踏むのであった。
湘南平の駐車場に車を停め、丸太の土留めでつくられた階段をのぼる。
駐車場や階段にいるときは霧らしさを感じなかったけれども、頂上の広場が見えだしたあたりで、気温と湿り気と香りに変化を感じた。
あからさまな涼しさに、息を吸うと水の粒子が喉に触れる。香りは、雨のそれだ。
広場は一面霧に包まれていた。レストハウスの展望台にいる人が、風景を撮っている影が見える程度の、うっすらとした霧であった。
でも、麓で見たときは見えたテレビ塔の先は、そこになかった。
平日の午後6時過ぎだというのに、ちらほら広場を散策する人がいる。その多くは夫婦やカップルだけど、なかには麓からジョギングやウォーキングで訪れたのであろう強者も幾人か見られた。
逆にいえば、わざわざ霧の湘南平を見に独りやってきた人間は僕くらいなのではないだろうか。
さておき、風で霧が流れているのを感じる。
風の方向へ延びていく霧を見るたび、僕らが認識する「霧」とは「雲」なのだと実感できて、僕は好きだ。
僕は今、雲のなかにいる。
写真を撮ってると霧が移ろい、頭上から十数メートルの帯状になった。
麓で見た湘南平の光景は、おそらくこういった感じの霧によって形作られたのではないか。
それにしても帯状になるのは、どういった理屈なのだろう。冷えた空気がその部分にだけ留まっているのか、あるいはもっと別の理由からなのか。
こういうとき、知識のない自分自身のことが少しだけ好きになれる。
答えの知らない問いを投げかけて、あれこれ理由を探す楽しさにひたることができるのだから。
薄霧のなか、広場を散策する。
僕は生まれてこの方海外へ足を運んだことはないのだが、ロンドンの朝はきっとこんな具合なのだろう。
外へと目を向けると、晴れと曇りのあわいと呼ぶべきか、幻想的な風景があった。
まるで雲海の上から連峰を眺めている心地がした。
より子細に述べるならば、数年前に立ち寄った美ヶ原高原で見た朝もやを思わせたわけだが、冒頭で述べた通り、200メートルにも満たない低地からの風景である。
湘南平は県内有数の夜景スポットらしいことはなんとなく知っている。
関東平野と丘陵地帯の狭間に位置するため、人々の営む灯りが一面に広がる東方と、暗黒の西方、という対比が美しいのだ。
その「暗黒」側に位置するのが西方にある大磯丘陵で、言ってしまえば木々に覆われた起伏である。
特に空気の澄んでいないこの季節は、はっきり言って誰も見向きしない方角なのだが、1日のなかで、人々を魅了するひとときが、ほんの一瞬、訪れる。
それは陽が沈みかける時間帯で、普段は霞んで見えない富士山が、朱色の光を浴びてその姿を現すのだ。
とはいえ夕焼けと富士山の風景は、たびたびこの地に訪れる僕にとっては、ありきたりなものだったりする。
それでも、雲海のなかにかすかな橙色によって夕陽の存在をほのめかす――そんな今回の風景は、どうしようもなく心打つものがあった。
やがて、霧は晴れていく。
僕にとって見知った風景が浮かんでくる。
大学時代まで、ここから見える風景も湘南平そのものも、あまり好きではなかった。
いや、好きとか嫌いとかそういう単純な言葉で片付けられないものがある。
中学時代、クラスメイトと遊んでいて、気分が高じてしまったとき、なぜか自転車のペダルを踏んでのぼってしまう場所。
その身近さには親しみを覚える一方、他に選択肢がないから仕方なくここへ訪れた感があって、惨めな気分にもなる。
日中、夕方、夜、天気や季節によって風景は変わるとはいえ、見えるのは地元の団地や田園や新幹線や山や海であることに変化はない。
そういう意味では、代わり映えのない風景なのだ。
関東平野の地平、太平洋の地平、丘陵の地平。
あらゆる地平を見ることができる一方で、僕はここにいるばかり。
地平の、その先にだって風景はあるはずなのに、ここにいる限り僕はそれを想像するしかできない。
見えるのは、味気ない、馴染みのものだけ。
そんなもどかしさを感じる風景なのだ。
少なくとも、大学時代までは、そう考えていた。
けれども、今こうして改めてここからの風景を見ると、馴染みのなかにある小さな「変化」を、素直に受け止めることができている自分がいた。
それは、当時の僕より、少しだけ世界を知ることができたからなのかもしれない。
あるいは、ほんの1年かそこらのことだけど、別の土地で暮らしたことがあったからなのかもしれない。
まあ、どんな理由であろうと、構わない。
僕は見飽きるほど見てきた風景のなかに、美ヶ原高原の朝もやを見た。
そしておそらくこれから先、雲の上から見る山の連なりを見たとき、僕はこの湘南平からの風景を思い浮かべることだろう。
もしかすると、そういうふうに世界を見てしまうのは、ある意味でもったいないことなのかもしれない。
美ヶ原高原からの風景と湘南平からの風景は、どちらも似ているだけであって、同じものではない。それを似てるからと言って「誤読」するのは、あまりに雑な風景観賞である、と。
多分そうだと思う。それにとても贅沢だ。
でもやはり、大切なことなんじゃないかと思う。
巷で有名な絶景ポイントがあったとして、それを見に行くとしよう。
SNSで流れてきた写真や、ガイドブックや、行ってみた動画で知って、気になったとしよう。
貴重な休みの日を使ってその場所へ訪れたとして、ビュー・ポイントで立ち止まって見てみたとして、そこにあるのはSNSやガイドブックで見た風景で、それ以上でもそれ以下でもない。
同じものを見て、共感して、満足してそのうち忘れてしまうのもひとつの観光ではあるだろうけれど、せっかくだから僕は、その風景を僕だけのものにしたいと思ってる。
そのために、僕は僕なりの言葉で、その風景を表現したいと考えている。
そうすることで、僕の人生になんらかの有意義性が出てくるのかは知らない。たぶんそんなものはないのだと思う。
だとしても、僕は風景を誤読する。そういう人間なのだ。
……このあたりで、思索は途切れた。
湘南平は、僕の数ある執筆場所のひとつだ。
この季節は夜でもカップルとやぶ蚊が多いのが難点だけど、時々赴いては、どうせ没になる小説を書いている。
といった因縁もあり、この場所について、いつかnoteにしたいと考えていた。
思ってた内容とずいぶんズレてしまった感が否めないけれど、そういうのも含めて、僕と湘南平の関係性に近しいものがあるのかもしれない。
彼についての深い内容は、また別の機会に取っておこうと思う。
ちなみに、湘南平にある東京タワーみたいなやつ、通称テレビ塔に関しては、以前『アレ』の誌面で少し触れた。
また、地元と僕の関係性については、こちらの『アレ』で思いがけず深掘りしたので、こちらもぜひ楽しんで読んでいただければ幸いである。
今後も各地を散策して、思索がまとまったらnoteにしていきたい。
お楽しみに。