アニメぼっち・ざ・ろっく!最終回文化祭ライブで演奏されなかった幻の3曲目を考察する。
覚悟はしていたが、とんでもなく長いnoteになってしまった。
なにせ今回はアルバム『結束バンド』収録曲全曲の歌詞精読が不可欠な部分であるためである。
毎度長いタイトルで恐縮なのだが、今回のタイトルを正しく書くならば「アニメぼっち・ざ・ろっく!最終回文化祭ライブで演奏されなかった幻の3曲目を考察するためにアルバム『結束バンド』の全曲を考察し導きだす」といった具合になるだろう。
図らずも2万字を超えてしまった。
「しおり」機能のないnote仕様のため、いつも以上に目次を多めに設けてみた。
ぜひ活用していただければと思う。
3曲目を導くための手順
前回までのあらすじは各noteをお読みいただくとして、
今回必要となる最低限のおさらいをしよう。
まずぼっちの作詞スタイルである。
これは日々の生活のなかで感じたことを詞に落とし込む傾向がある。
「05.ギターと孤独と蒼い惑星」
「01.青春コンプレックス」
「07.あのバンド」がこの代表例といえよう。
それだけではなく、あるいは象徴的な出来事を経験したときは、それを詞にする。
「11.忘れてやらない」や
「12.星座になれたら」が
この例に含まれるだろう。
後藤ひとりの認識としては、自身の歌詞は日々の生活のなかで感じたこと、あるいは象徴的な出来事を経験したことを【原作3巻68P】にあるように「抽象的な歌詞でカッコよく言ってるだけ」なのである。
逆に言えば、想像妄想を多分に含んだ歌詞は苦手だともいえる。
きゃぴきゃぴした恋愛模様を描いたり、あるいは自分と異なる境遇の人間を描いたり、ファンタジーやSFチックな歌詞というのも書きづらい
次に山田の作曲スケジュールである。
現在判明している曲の制作時期を並べてみよう。
これを見ると、物理的に山田が作曲できるタイミングは、
8月14日(日)台風ライブを挟んだ8月上旬~中旬ごろのみである。
ライブに向けた練習で手一杯になる可能性もあるが、作曲者本人であるため、ほかのメンバーと比較して時間に余裕があったと思われる。
また夏休み期間中であるため、作曲に費やす時間もあっただろう。
(山田の場合、夏休みだろうとそうでなかろうと大差ないかもしれないが)
また、山田は気分屋であるきらいがあり、「05.ギターと孤独と蒼い惑星」や「07.あのバンド」、「12.星座になれたら」の経緯を鑑みるに、
後藤ひとりの詞にインスピレーションを受け作曲をする傾向がある。
そのため、後藤ひとりが歌詞を書けば山田も作曲を進める可能性が高い。
先述の通り、後藤ひとりの作詞スタイルは、日々の生活のなかで感じたことを書くか、象徴的な出来事を経験したことを書く傾向が強い。
そのため、アルバム『結束バンド』のなかにある、日々の生活のなかで感じたことを書いてそうな歌詞をピックアップする必要が出てくる。
また、象徴的な出来事を経験したことを書くと記載したが、8月4日(木)に、ぼっちは人生初の路上ライブという大変刺激的な経験をした。
つまりアルバム『結束バンド』のなかに路上ライブの経験を描いたような歌詞があるとするならば、それはこのころ書かれた可能性が高い。
故に、手順としては、アルバム『結束バンド』のなかから、
(A)路上ライブの経験を描いたような歌詞を探し、
これが見つからない場合、
(B)日々の生活のなかで感じたことを書いてそうな歌詞を探す。
AまたはBのうちどちらかを見つけることができれば、山田が8月上旬~中旬ごろ作曲した候補曲であると考えることができる。
ただし、この曲が文化祭ライブの3曲目だと結論づけるのは時期尚早であろう。
なぜなら、台風ライブで演奏した3曲のなかから1曲をセットリストに組み込んだ可能性もあるからである。
つまり我々は、2段階に分けて考察を加える必要がある。
1段階目は、文化祭ライブまでに曲がつくられているか。
2段階目は、文化祭ライブに適切な曲であるか、
である。
文化祭ライブのセットリストは、前回話したように9月2日(木)に作られた。
作成者は山田で、
・文化祭に出るという話が上がった時点から熟考されたもので、
・ぼっちと喜多ちゃんが主役であると意識して組まれ、
・かつて山田が体験した「お通夜」ライブの二の舞を避ける
曲目である。
余談:山田の「ギターソロ」発言からの検証
なお、この考察をするにあたり、
山田の台詞「2曲目にはぼっちのギターソロ入れる」【10話19:52】を深読みして、
1曲目と3曲目にはぼっちのギターソロがないのではないか、という仮説を打ち立てた。
これが立証されれば、3曲目は容易に導き出せる。
ギターソロというものがそもそもなんなのか僕は理解が浅いので恐縮であるが、
「イントロとアウトロを除く歌唱のない部分で」「リードギターが目立つ演奏シーン」をギターソロとした。
というわけで全曲を聴いてみた。
ギターソロのある曲は「◎」、ない曲は「×」を、ギターソロっぽいけどコーラスも目立つ曲には「コ」、ただの間奏かギターソロか判別が難しい曲には「?」をそれぞれ行頭に記し、列挙する。
上記から分かるように、
まず明らかにギターソロがない曲というものはない。
唯一「06.ラブソングが歌えない」が間奏かギターソロか判別不能であったが、その点は読者の皆さんが各々判断していただければと思う。
というより重要なのは、文化祭1曲目で歌われた「11.忘れてやらない」にもギターソロが入っている点である。
つまりアルバム『結束バンド』に収録された曲は、ライブで演奏されたものとは構成が異なるという点である。
確かにアニメ本編内で流れた『05.ギターと孤独と蒼い惑星』『07.あのバンド』もギターソロ部分はカットされている。
このことから、アルバム『結束バンド』のギターソロ部分から文化祭ライブ3曲目を導き出すのは難しいという結論に達した。
というわけで、別の方向、というより正攻法でいかなくてはならないことが判明した。
1段階目:文化祭ライブまでに作られた曲目を洗い出す
遠回りになったが、本題に移ろうと思う。
アルバム『結束バンド』収録曲のなかから、文化祭ライブまでに曲がつくられている可能性があるものを検討する。
というわけで、アルバム『結束バンド』収録順に各曲を吟味していきたい。
便宜上、過去に検討した曲目もここで改めて考察する。
01.青春コンプレックス
シリーズ第2回で考察したとおり、結束バンド2曲目の可能性が高い。
歌詞面で言えば、3番目に制作された楽曲「07.あのバンド」に関連する「悲しい歌」が登場し、
作曲面で言えば最初に作られた楽曲「05.ギターと孤独と蒼い惑星」にインスパイアされ、山田がぼっちのギターテクニックを試すような冒頭パートが残っている点から、
両曲に挟まれる順序で「01.青春コンプレックス」が誕生したと思われる。
02.ひとりぼっち東京
メタ的な制作秘話はさておき、
僕個人の意見として、アルバム『結束バンド』内の楽曲でもっとも考察のしがいがある曲であると同時に、
誰も知らない未来の後藤ひとりを感じさせる楽曲であるとも感じている。
というのも、ここに登場する語り手は、明らかに我々の知る後藤ひとりとは違う存在であるからだ。
歌詞に散らばる「妙なフレーズ」
妙なフレーズはいくつかあるが、まず第1スタンザの
「人の波に乗って抜ける駅の改札」がある。
ぼっちは、基本人混みが苦手である。
SICK HACKライブのために新宿駅へ足を踏み入れた際も、ホームの時点で拒絶感を抱き「あ、今日ライブすごくよかったです、ありがとうございました」【12:56】と言って帰ろうとするほどには苦手意識が強い。
また原作を参考にすると、人の波に乗って抜けることも苦手であることが伺える。
これは野外フェスでの一幕であるが、人混みにうまく乗って移動するには、まだまだスキルが未熟であるように見える。
ぼっちの創作スタイルは、「日々の生活のなかで感じたこと」をレトリックを駆使して表現することが特徴であり、そう考えると「人の波に乗りながらすれ違う人の知らない匂いに懐かしい思い出を巡らせる」という気付きに至るのは難しいように思える。
この詞がどのように書かれたのかは、最後にまとめて述べようと思うので、まずはそのまま、アニメ本編内のぼっちが書いたとすると違和感を覚えるフレーズをそのままピックアップしていこうと思う。
「揚げたてのポテト」は長くなるのであとにまわすとして、
「踏切の音」と言えば「07.あのバンド」である。
「07.あのバンド」のころはまるですぐ目の前でつんざくような音をしていた踏切の音が、「02.ひとりぼっち東京」では遠くに、それもうしろで鳴っている。
(ここで、「遠く聞こえた」ではなく「遠く聴こえた」と歌詞に書かれている点にも注目したい。踏切の音が、単純な日常の環境音として聞こえたのでなく、音楽のように聴こえたともとれる)
詞全体の香りとしても、どこか哀愁やノスタルジアを感じさせる内容に変化している。
踏切の音はつまり「あのバンドの歌」であり、それは以前考察したことを踏まえれば「青春コンプレックスを刺激する歌」である。
あのぼっちが、青春コンプレックスを刺激する歌を耳にしても、振り返ることなく進むのである。
これはとんでもない天変地異のように感じられる。
また、軽く触れるにとどめることにするが、
「いくよ」と言って浮かべるのは、喜多郁代である。
百歩譲って喜多ちゃんにこれを歌わせるのは面白いまだいいとしても、
ぼっちも山田も文化祭ライブで全校生徒の集まるなか、喜多ちゃんの弱みをさらけだす所業はさすがに行わないだろうと思う。
これは文化祭のセットリストを組むにあたり、山田が「ぼっちと喜多ちゃんが主役であると意識」しているという点からも矛盾する。
さらに極めつけは、最後から2番目のスタンザである。
ここに登場する「ひとりじゃない」というフレーズであるが、
これは4話で「ヒットしたバンドらしいのがいいのかな」【18:14】と思って書いてきた、ぼっちらしさの感じられない歌詞にも登場する。
……等々の理由から、「02.ひとりぼっち東京」は後藤ひとりが書いた詞ではないのではないかと推察する読者諸賢もおられるだろう。
しかし、それでも僕はこの詞が後藤ひとりの書いたものであると主張したい。
我々の知り得ぬ「ぼっち観」
ではこの曲がいつ書かれたのかだが、
それは「14.転がる岩、君に朝が降る」をカバーする少し前に書かれた考えられる。
もしかするとそれよりもっとずっと先の話かもしれない。
とにかく、極度の青春コンプレックスと打ち解け、自らの思い出と消化(昇華)したあとの後藤ひとりが手掛けたのだと言える。
そう仮定して歌詞を読むと、影を落としていた1行1行に夕方の陽射しがさしかかるような、そんな心地を抱く。
後藤ひとりが書いたという理由であるが、
まずギターに対する想いと、「ひとりぼっち」に対する解像度の高さであろう。
ぼっちが人混みを上手く歩けるようになっても、踏切の音を聞いても進めるようになっても、大人になったとしても、ギターをかき鳴らす青い炎は絶えることがない。
青い炎は、正直自信のある解釈ではないが、自らが経験した「青春の思い出」なのかもしれない。
結束バンドと共に過ごした青春の日々が、今なお原動力となっている。
「重なる声」も、これはギターの音という意味と、結束バンドのメンバーの声という意味が含まれていると思われる。
ただ「声」そのものというより、ギタードラムベース、楽器の声が重なる、という意味も含まれているだろうし、むしろその感が強いようにも思える。
そしてそのうえで、「誰もがひとりぼっち」であると語る。
決して冷ややかな文脈ではなく、「ちょっと優しく見えた」と語る距離感で、誰もがひとりぼっちなのである。
揚げたてのポテトはラッキー
そしてこの曲は、ぼっちがファストフードでポテトを頼めるようになる程度には社会生活が送れるようになった未来でもある。
「揚げたてのポテト」の話に戻るが、まず第一にぼっちはポテトが好きである可能性が非常に高い。
劇中におけるぼっちの食卓シーンは、江ノ島や秀華祭を除くと3回登場する。
7話でまず虹夏と喜多ちゃんを歓迎するために両親が開いたパーティがある。
父お手製の唐揚げは(ぼっちから見て)「奥がにんにく醤油で手前が塩麴、お好みでレモンと七味」【12:07】をつけるトッピング付き。
この香りで「自分の世界」から還るところからして、ぼっちは唐揚げが好物であることが伺える。
と同時に、食卓にはサラダとピザに加え、ポテトが並んでいる。
次は8話の居酒屋シーンであるが、
画面手前のフライドポテトはぼっちが頼んだ一品である。
このシーンの数分前に、虹夏と料理を選ぶシーンがあるのだが、
そのとき虹夏は、おそらく後藤家での出来事を踏まえたうえで
「ぼっちちゃんなににする? あたしはね~唐揚げ頼みたいかな~」【11:28】と、注文に不慣れなぼっちをフォローしている。
が、そのくだりのあとでフライドポテトを頼んでいるあたり、唐揚げと同じくらいか、あるいはそれ以上に好物なのではないかと想像できる。
(唐揚げよりも、誰かとシェアが容易であるからという説もあるが、その配慮ができるほど居酒屋には慣れていないと思われるし、ポテトの配置的に誰かと分けて食べるというより自分用に頼んだと見たほうが自然であろう)
10話のSICK HACKライブ後のファミレスでは、山田を除き各々料理を頼んでいる。
そして、テーブルの中央にはポテトが置かれている。
ただし、ここのポテトは前の2例とはやや異なる文脈である。
このあと腹を空かしたベーシストに、虹夏がポテトを1本施し、さらに「んも~たくさん食え!」【19:41】と皿ごと渡すシーンに続く。
ポテトの主導権は虹夏にあるため、彼女がこのポテトを頼んだということが想像できる。
以上のシーンから、ぼっちは唐揚げと同じくらいポテトが好きであるという推測が導き出せるのである。
というくだりを考慮したあとで、「駅前ファストフード 揚げたてのポテトはラッキー」という歌詞を見ると、少しだけ大人になったぼっちが、心弾ませつつ坂道を下る様子がありありと浮かぶ。
(そしてその後方では「踏切の音」が聴こえた気がするのだ)
では例の「ヒットしたバンドらしいのがいいのかな」【18:14】と書いてきた、ぼっちらしさの感じられない歌詞と重複する「ひとりじゃない」というフレーズはなんなのか。
これにも様々な解釈ができるようになる。
まず、文脈が違うという解釈である。
ボツ歌詞に出てくる「ひとりじゃない」は、「心折れそうな君」に送るエールである。
「心折れそうな君」とあるが、これは明確な相手を想定した「君」ではない。実に曖昧で抽象的な「君」である。
しかし一方で「02.ひとりぼっち東京」では、「影 引き連れてゆけ ひとりじゃない」とある。
ここでいう「影」は、「夕焼け」を浴びて自らから伸びる影であると言え、つまるところ「過去の自分」「思い出」、さらに言えば「青い炎(=結束バンドと共にあった青春)」とも読める。
つまり「ひとりじゃない」とは、ひとりぼっちに怯えていた自分自身に向けて投げかけられた、誰もがひとりぼっちだけど、「影」を持つ自分はひとりぼっちに怯える必要はないんだよ、というメッセージであると解釈ができる。
似た境遇の「君」へ
これだけでも充分魅力のある歌詞であると思えるわけだが、
同時にこの曲は、自分自身ではない、別の誰かに向けられた歌詞であるとも考えられる。
そしておそらく、結束バンドメンバー以外の人間に向けて書かれたものであろう。
これは、以下のスタンザからも読みとることができる。
みんなひとりきりだけど、なにか共通言語があるはずだから、つながり合うことができるよ。
と、ぼっちは誰かに投げかけている。
それは誰なのか。
曖昧で抽象的な「君」なのだろうか。
否である。
後藤ひとりは、この「02.ひとりぼっち東京」という歌詞で、自分とよく似た境遇の、ある相手を想定して投げかけたのではないだろうか。
ひとりぼっちで、ギターの音を熱くかき鳴らし、誰かとつながりを求めていて、ぼっちがよく知る誰か。
大槻ヨヨコである。
詳しくは本題から逸れるので割愛するが、メタ的な視点で考えると、ヨヨコは「結束バンドがインディーズで活動する選択したIF世界のぼっち」であると僕は考えている。
少なくともぼっちにとってシンパシーを感じる人物であり、似た境遇を持つ相手と出会えたというのは、それだけで自分自身を見つめるきっかけになりうる。
「02.ひとりぼっち東京」が書かれたのは、ヨヨコと出会ってからずいぶん長い年月を経たあとであると思われるが、
ヨヨコとぼっちが今後どんな関係を築いていくのか、今後の原作やアニメ本編の行く末に注目したい。
長々と考察したが、
「02.ひとりぼっち東京」が完成したのはずっと先のことであり、文化祭ライブでは演奏されなかった可能性が非常に高い。
というのが結論である。
(メモ)
又聞きなので正確な情報として記述はできないのであるが、製作関係者、おそらく原作音楽監修のinstant神より、この歌詞は喜多郁代が手掛けたと示唆する発言があったとのことである。
これもまた筋の通る話で、実に芯のある解釈だと僕も思う。
ただ本シリーズでは、アルバム『結束バンド』が後藤ひとりをメインに据え、後藤ひとりの成長を追ったアルバムであるというコンセプトのもと進めている、あるいは進めてしまったので「02.ひとりぼっち東京」も後藤ひとりが書いたものとして進めていく。
喜多郁代がこの歌詞を手掛けたとなると、このコンセプトの部分から再検討が必要になる。
(むしろコンセプトが薄まる感があって、僕は混乱する)
再検討は、また別の機会でもって行いたいと考えている。
歌詞の解釈は人の数ほどあり、自分自身がそうと頷ける解釈をしていきたい所存である。
どうかこのnoteで読者諸賢がより深く『ぼっち・ざ・ろっく!』を理解する一助になればさいわいである。
03.Distortion‼
まず感想を述べると、非常に楽しい曲だと思った。
楽器や音楽に浸る姿を思い描いている。
作中で描かれてるシーンのなかでは、喜多ちゃんにギターを教える風景がとてもよく似合うので、
これを鑑みると歌詞の製作時期は6月~8月上旬ごろなのだろうと思うわけだが、その頃の後藤ひとりがまだ喜多ちゃんのことを描けるほどの余裕があるのか分からない。
それよりかは、かつての自分を思い出して、当時の夢中でギターと接していた時代を思い出して書いたのだと思ったほうがまだそれらしい気がする。
しかしながら「今」ではない自分自身を歌詞にすることもまた、アニメ本編中のぼっちには難しいようにも思える。
(これは技術がないというより、「今」が与えるひとときがあまりに大きく、貴重で、振り返る暇もないのではないか)
ゆえに、この曲は後藤ひとりが書いたというより「結束バンド」のリリックライターとしての後藤ひとりが書いたのではないかと思う。
(スネア、ドラムの描写があるのは、ひとりぼっちの後藤ひとりではなかなか描けない)
そういう点でいえば、この曲は結束バンドがメジャーデビューを果たしたあとに披露された曲と考えてみると、なかなかロマンがあるかもしれない。
あるいは原作と交えて考えるとすれば、後輩の大山猫々がバンド活動をする様子から「03.Distortion!!」の着想を得る可能性もある。
5巻時点では積極的に関わっていこうと思われるほどぼっちに好かれているわけではなさそうだが、
「ギターヒーローじゃなくて結束バンドの私(後藤ひとり)を見てギター始めてくれた」という、経歴を持つ。
今後の展開が楽しみである。
以上の点から「03.Distortion‼」が文化祭ライブまでに完成した可能性は低いと思われる。
04.ひみつ基地
タイトルにある「ひみつ基地」であるが、歌詞を書いた後藤ひとりにとって、「ひみつ基地」とはどこを指すのか。
ひみつ基地はどこか
僕は「押入れ」なのだと、考えている。
別の解釈として「ぼっちの自室」や、学校の「じめーっとしていてナメクジが隠れそうなところ」などが考えられる。
しかし「ぼっちの自室」は、ふたりや母やジミヘン(+父)が比較的自由に出入りし、虹夏や喜多ちゃんも足を踏み入れた場所であり、ぼっちの知り合いの過半数が訪れたとなると「ひみつ基地」感は薄い。
「じめーっとしていてナメクジが隠れそうなところ」は、文化祭1日目でメイド服を着せられたぼっちが逃げ込んだ場所であるが、
「04.ひみつ基地」の歌詞を読むに
「ふとん」がある場所と言えば、家である。
そのため、家の外とは考えられにくい。
しかし一方で、布団があるのは「押入れ」ではなく「ぼっちの自室」である。
すると、第1スタンザと第2スタンザは、ひっくり返して読むと意味が通りやすい。
なにもすることがないからとりあえず布団に寝っ転がっていたが、
そんな今日を無駄にするために、秘密基地に行こう。
つまり布団ではなく押入れへ行き、ギターを弾こうと思い立つという構図に変化する。
ギター練習を「今日という日を また無駄にしよう」と言い換える点が実にぼっちらしいと言える。
歌詞はいつ書かれたか‐他の歌詞との関係性‐
このシリーズを手掛けるまで、「04.ひみつ基地」は台風ライブ後の夏休み期間中、誰も遊びに誘われなかった鬱憤を歌詞にぶつけたものなのだとぼんやり考えていた。
しかしながら、メンバーすら心配したりしなかったりする不安定なメンタルのなか、この歌詞を書けるのかは、かなり微妙な線ではある。
僕個人の願望としては、台風ライブ後の夏休み期間中に、書いてくれていると、(これもまた願望として同時期に書かれていてほしい)「小さな海」との対比が効いていいと思う。
(トルティーヤ状態のときに「04.ひみつ基地」を書き、めそめそ泣いてるときに「小さな海」を書いてたりしないかな、なんて思う)
夏休み期間中でないのなら、結束バンドの活動が安定してきたときに、ふと押入れのことを思い、書いたのだろうと思う。
ちなみにぼっちにとって「海」は「青春コンプレックスを刺激する」ワードであるが「海の底」を連想させる言葉はむしろ多用する傾向がある。
「海の底」という言葉自体も「01.青春コンプレックス」に登場する。
ほかにも、「深く潜る(青春コンプレックス)」「スキューバダイビング(ひみつ基地)」「枯れた海(小さな海)」「夜の淵(星座になれたら)」など。
また、「眩しい」という歌詞に注目すると、
結束バンド初のオリジナル曲「05.ギターと孤独と蒼い惑星」との対比も可能である。
2つの歌詞を比べて見ると、「眩しい」ものを観測する地点は変わらない一方で、見たときの感想が異なっている。
「05.ギターと孤独と蒼い惑星」では、眩しさに自己嫌悪が止まらなくなるが、
一方で「04.ひみつ基地」ではなんと眩しさのなかにも各々色があることまで分析している。
この心境の変化を考慮すると、原作5巻以降に書かれたものではないかと推測している。
さらに後述するが、「06.ラブソングが歌えない」のなかに「秘密基地」が登場する。
僕個人としては、インディーズ最終盤の曲として「04.ひみつ基地」が、
メジャーデビュー後に「06.ラブソングが歌えない」が連動して登場するなどするといい、などと考えているが、その理由は後者の曲を語る際に取っておこう。
05.ギターと孤独と蒼い惑星
結束バンド初のオリジナル曲。
文化祭の3ヶ月以上前の6月25日に完成している。
この曲目について語ることの多くは、以前書いているが、
追記をするならば、アルバム『結束バンド』収録楽曲のなかで、唯一固有名詞が登場する。
僕はまったく音楽関連には詳しくないのだが、ギターの弦にElixirなるものがある。
参考動画はこちらである。
『ぼっち・ざ・ろっく!』連動企画「ギターヒーローへの道」とのコラボ動画の終盤、青山吉能へのプレゼントその1が、そのエリクサーであった。
これを視聴するまで、僕はエリクサーがなにか理解しえなかった。
またこの歌詞から後藤ひとりのギター弦は(少なくともこの頃は)エリクサーであったことが伺える。
歌詞中に出てくる固有名詞はこれただ一つだけであるが、
1.初の歌詞制作特有の特異性
2.自分の身体の一部のような感覚
この2点が滲み出ており、僕はとても微笑ましく感じてしまうのであった。
06.ラブソングが歌えない
ギターヒーローとして、後藤ひとりはさまざまな人気バンドの曲を「弾いてみた」動画で投稿してきた。
関連する場面として原作では、クリスマスシーズンのリクエストソングを、文字通り魂を削ぎながら投稿する様子が描かれている。
いつでも書ける曲であり、つまるところ文化祭ライブまでに歌詞と曲が完成している可能性もある。
ただし、歌詞内に「秘密基地」という語句が登場する。ここに注目すると、当然「04.ひみつ基地」との関係を考えざるをえない。
僕個人の願望としては、インディーズ時代に「04.ひみつ基地」が書かれ、メジャーデビュー後に「06.ラブソングが歌えない」が発表されたとしたら、古参ファンは歓喜しそうなものである。
少なくともファン2号はがっつり古参ムーブをかましてくれそうなものである。
07.あのバンド
作中台風ライブ回、8月14日に初披露された。
文化祭で使用されたかについてだが、歌詞の内容的に「あのバンドの音が耳に障る、自分の音だけ聴きたい」という、聴き手によってはかなりロックが過ぎる歌詞であるために、やや文化祭向きではないきらいがある。
山田ならセットリストに組みかねないが、過去に文化祭のトラウマもあり、またぼっちと喜多ちゃんが主役であることをちゃんと認識しているため、その点でもこの曲が文化祭ライブの3曲目である可能性は低い。
08.カラカラ
この曲の歌唱は山田リョウであり、文化祭ライブの頃に歌われた可能性は低い。
と、一蹴することも簡単であるが、少し考察を加えたい。
「08.カラカラ」というタイトルは、8話、つまり江ノ島探訪の行き電車で、山田の頭を揺らすとカラカラ音が鳴るところから付けられたのが定説[誰によって?]である。
が、このときぼっちは意識を失っており、山田の脳みそが小さくて頭の中でカラカラと転がる音は聞こえていない。
「08.カラカラ」という曲が存在する以上、ぼっちはこのカラカラ音をまた別の機会で聞くことになるのだろうが、少なくとも文化祭ライブ後の話になると思われる。
とはいえ原作の流れを見る限り、山田が勉強をするのは(急遽進学することにでもならない限り)高校在学中に限られると思われる。
勉強シーンがなければ、この音を聞く機会がない可能性がある。
よってこの曲はぼっちと山田が共に在学している2024年春ごろまでにできたと想像できる。(ぼっちは無事高校を中退できるのだろうか)
09.小さな海
この歌詞は夏休み後半の、誰からも遊びに誘われず過ぎ去る日々を謳った歌なのではないかと僕は考えている。
そして、終盤のスタンザは江ノ島探訪のあとに書かれたものなのではないだろうか。
というのも、「10.小さな海」後半のスタンザはそのまま「12.星座になれたら」の着想につながると僕は考えているからである。
終盤3つのスタンザのうち、うしろの2つが江ノ島探訪後に書かれた箇所である。
というのも、まずここで登場する「君」であるが、それまで一切登場することがない。
強いていうならば、このひとつ前のスタンザに登場する「完全無欠の主人公」と言えよう。
そしてそれはそのまま、「12.星座になれたら」の「君」=「一番星」=「喜多ちゃん」と結びつけることができる。
歌詞の最終スタンザにある「いつかまた遠くで 会えたら手を振り返して」は、いつか遠くに離れてしまうかもしれない喜多ちゃんのことを指しているのではないだろうか。
喜多ちゃんとぼっちをつなげるものは、結束バンドのメンバーであることだけである。
自分には何もない。しかしながら近づきたいし、共にいたい。
その願いを込めた歌詞が、この直後に手掛ける「12.星座になれたら」なのではないだろうか。
(後半部分の構成が、星座になれたらとかなり近しい)
藤沢駅で結束バンドメンバーと別れたあと、JRに乗ったぼっちは、電車に揺られながら「09.小さな海」の続きを書いた。
当然「09.小さな海」というリリック単位では完結しているが、後藤ひとりの創作熱は満たされない。
そこで地元金沢八景に着いたのち、日がくれ星が姿を現しつつある夜6時、後藤ひとりは駅前弁財天像前に腰掛け、「12.星座になれたら」を一気に書き上げたのではないだろうか。
相変わらず僕の妄想が過ぎた話ではあるが、
後藤ひとりというリリックライターならやりかねないと僕は思う。
「09.小さな海」は「12.星座になれたら」の歌詞と同時に結束バンドメンバーと共有されたが、文化祭でより盛り上がる歌詞はどちらか山田が検討した結果、後者が選ばれたのだと思われる。
故にこの楽曲の作曲編曲は文化祭ライブ以後と考えられる。
山田の作曲ペースを考えれば文化祭前に完成した可能性もあるが、セットリストが組まれたタイミングや練習時間を考慮すると、文化祭で披露するには難しいだろう。
10.なにが悪い
個人的には文化祭ライブのトリで演奏されててほしい曲目ナンバーワンであるが、同時に理屈で考えたら演奏されてない曲リストにも加わっている。
演奏されてないだろうという理由で第一の、そして究極的なものは、無論「この曲の歌唱は伊地知虹夏である」という点である。
ぼっちと喜多ちゃんの学校で行われる文化祭で、最後の曲になって突如他校のドラムスが歌いだしたとしたら、戸惑い不可避であることは言うまでもない。
そもそもこの時点で虹夏は歌があまり上手くなく、ボーカルを打診されても断るだろう。
さらに山田も、文化祭お通夜事件のトラウマから、免罪符性の強いロックにあやかったセットリストは組まないはずである。
とはいえ「原曲は喜多ちゃん歌唱で、後々虹夏歌唱版が収録された説」もむりやり唱えようと思えば可能である。
さておき、真面目に考察を加えていこう。
青春、という言葉
歌詞を吟味すると、「青春でなにが悪い」と書けるだけの充実さを実感したあとに手掛けられたと考えられる。
これはおそらく台風ライブ直後か、あるいは夏休み明け、もしくは文化祭ライブ後であれば歌詞を手掛けられるだけの経験は踏んでいると思われる。
激しい青春コンプレックスを抱えながらも、そんな自分が結束バンドのメンバーと過ごすことで青春を謳歌していることに対して、
一種の開き直りでもって自身の立ち位置を定めている様子が、とてもぼっちらしさを感じて、僕はとても大好きなのだ。
少なくともこの歌詞を書いたことで自己矛盾との和解を経て「11.忘れてやらない」に至るほうが自然であるようにも思える。
しかし一方で「青春」という語句を遠回りせず真っすぐぶつけている歌詞は、収録楽曲中唯一である点にも注目してみたい。
例えば「11.忘れてやらない」では「青春」という言葉は用いず、「青い春」「人生の中間」と濁している。
この点を考慮すると、
「11.忘れてやらない」では自身の境遇に戸惑いが残ってる一方で、
「10.なにが悪い」では完全に開き直ってると読むこともできる。
つまり時系列的に「10.なにが悪い」があとにできた。しかも相当先のことであるように思われる。
青春に対する過度なコンプレックスが解消され、それ相応の付き合いができるようになった、と考えると、
「02.ひとりぼっち東京」や「14.転がる岩、君に朝が降る」レベルの遠い未来に書かれたものなのかもしれない。
(虹夏が歌っているのも、ずっと先にできた曲であるとすれば辻褄が合う)
あのバンドは「07.あのバンド」の「あのバンド」か
以後余談であるが、「10.なにが悪い」の歌詞には「あのバンド」が登場する。
ここに、「10.なにが悪い」の歌詞に登場する「あのバンド」は、
「07.あのバンド」の「あのバンド」ではなるか否かの問題が浮上する。
「07.あのバンド」のあのバンドは、青春コンプレックスを刺激する曲(対義語は「悲しい歌」)を歌うバンドのことを指すのではないかと以前述べた。
「10.なにが悪い」に登場する「あのバンド」は、「皆んなは知らないあのバンドの曲」とあるように、
皆んなは知らない、でも「僕」は知ってる曲であるため、どちらかと言えば「悲しい歌」寄りのバンドなのではないかと思われる。
そうなると、「自分だけが好きなものを、『君』と共有する」という、なかなか青春チックなシチュエーションであり(しかも結構陰キャよりの青春さである)、そんな青春でなにが悪い、という、この曲の意趣とも沿っている。
とはいえ「07.あのバンド」という曲名にもなってる以上、少なくともファン2号ちゃんは「07.あのバンド」の「あのバンド」と「10.なにが悪い」の「あのバンド」について一考してそうだし、僕もそっち側の人間であると言える。
11.忘れてやらない
前回書いたように、台風ライブ直後の上気した心地のまま書かれたものであると思われる。
12.星座になれたら
前回書いたように、江ノ島探訪後に(「09.小さな海」後半を書いたあとで)書かれたと思われる。
結束バンドメンバーと共有後、文化祭ライブの話を耳にした山田は、「09.小さな海」と「12.星座になれたら」の歌詞を読み比べ、こちらを先に作曲しようと判断するに至ったと思われる。
13.フラッシュバッカー
再三書いていることであるが、殊「13.フラッシュバッカー」は、つまんない歌詞精読などせず、歌とメロディとリズムとエモーショナルを全身で浴びながら浸るのがもっとも効能があると思っている。
僕の見解、というより超訳的なこじつけがましさのある解釈なんて目にしたら、この曲のいいところをすべてぶち壊してしまうだろう。
そのうえで、僕の内に宿る承認欲求モンスターに寄り添い、語っていこうと思う。
まず正直に言って、この曲の歌詞はその抽象さ故に、どんなタイミングで書かれてもある程度の説得性を持つ。
その点を承知した上で、これは金沢八景の路上ライブ後に書かれた歌詞なのではないかと疑っている。
「転換点」となった、たったひとつの「声」
より正確に言えば、路上ライブをした翌朝の、ふわふわした夢見心地(同時に二度と得られない大切な出来事)を記憶するために書かれたものなのではないかと考えている。
自分の記憶ですらいつか消えてしまうからこそ、ぼっちは路上ライブのある「瞬間」を切り取ろうと試みたのではないだろうか。
歌詞をさらに辿っていこう。
「転換点」という語句から始まるこの歌詞であるが、まずは「いつかノートに書いたあの言葉たちはきっと泡になって消えた」というところから考えていきたい。
まず「ノート」であるが、これは「05.ギターと孤独と蒼い惑星」以前に執筆された歌詞ノートを指すのではないだろうか。
自己満足のために書き、それ以上でもそれ以下でもなかった。
しかしそんなものは「きっと」泡になって消えたらしい。実際はどうなのか不明であるが、しかし「行方なんて知らない」……どうでもいいのだ。
なぜか。
後藤ひとりに「転換点」が訪れ、そのときの出来事がどうしようもなく離れないからだ。
ぼっちの転換点とはいつであるのか。
アニメ本編内を振り返っても、数多くの転換点がある。
というより、ほぼ全話に渡って転換点と呼ぶべき成長ポイントが存在する。
振り返ってみれば、そのどれもが「転換点」と呼ぶべきポイントと言える。
そして「転換点」だと感じるタイミングは大抵の場合、その出来事があった直後ではなくて、
もっとずっと先に過去を振り返ったときに「そういえばあの出来事は、僕にとって転換点だったんだな」と感じ入って気づくもののように思える。
逆に出来事の直後に「転換点」だと確信できるのは、当人にとって相当大きな事件であった場合に限る。
当然、後藤ひとりにとってアニメ本編内の出来事には、「相当大きな事件」と呼んでさしつかえない場面が多く登場する。
そのなかのひとつが、路上ライブであったと僕は考えている。
さておき歌詞の精読に戻ろう。
大変唐突であると思うが、
この歌詞を見て戦慄がはしった。
チョークの粉を星屑とみるその着眼点には脱帽する。
またこの発想があるからこそ、「12.星座になれたら」の歌詞が出てくるのだろうという説得力も増す。
このスタンザは、フラッシュバックの感覚・感触(フラッシュバッカー 今も思い出してる)を表現しているのではないかと思われる。
授業中はらはらと落ちるチョークの粉から、ふとかつて見た美しい星空を想起するような感覚である。
とりわけ路上ライブは、それまで画面の向こう側の存在でしかなかった「ファン」が実在することを知り、
また観客が敵ではなく、自身を応援してくれる存在であることを理解した点で重大である。
ファンから応援される体験を知らないまま台風ライブに臨んでいたら、また別の結末が待っていたかもしれない。
上記を踏まえて歌詞を見返すと、
路上ライブの翌朝、心が宙を舞った心地で思い出しているのは、
ファン2号から掛けられた「頑張れ」の一声なのではないだろうかと僕は思っている。
それはたったの一言に過ぎないかもしれないが、ぼっちにとって初めての、自らのギターで観客の心を動かした出来事であったからだ。
敵を見誤るなよ
1番はファンとの邂逅を記録するためのものであったと考えると、
2番は人気バンドSICK HACKのカリスマ的ベーシスト、廣井きくりとの出会いを描いたものなのではないかと考えられる。
そのことを一旦頭の隅に置き、2番冒頭、第5スタンザを見てみよう。
超絶抽象的で、無理やり読解するにはあまりに困難ではあるが、
【原作3巻68P】で「抽象的な歌詞でカッコよく言ってるだけ」とあるように、後藤ひとりは元々現実の出来事を抽象的な歌詞に変換する能力に長けている。
「薄明に染まる空」というワードは、日の入り後を指すのか日の出前を指すのか、非常に悩ましい部分であるし、読み解き方によってはどちらも可能であろう。
2番が廣井きくりとの出会いの回顧とするならば、日の入り後と読んだほうがスムーズだろう。
つまりここは立ち止まる観客を前に路上ライブをするその瞬間を描いている。
ぼっちの独白(お客さんに笑われてないかな。顔を上げるのも怖い)【8話16:37】を体現している。
次のスタンザは、そのときの心境をさらに細かく描いていると思われる。
「透明」という言葉は「10.なにが悪い」最終スタンザにも登場する。
「心は透明だ!/大切はここにある(ほら!)」という2行である。
「10.なにが悪い」では透明を比較的ポジティブな意味で書いているが、
「13.フラッシュバッカー」ではややネガティブな意味で登場する。
「08.カラカラ」に出てくる「自慢の武器など一つもないけれど」
あるいは「11.忘れてやらない」の「僕は今 人生の中間だ」に通ずる、
なにもなさを表現しているようにも感じられる。
そしてなにもないことを肯定できずに後藤ひとりは、路上ライブの真っ只中、その胸中は不安と孤独で消えてしまいそうなほどであったのだ。
となると、路上ライブを前に怯えるぼっちに対して語った廣井きくりの「今目の前にいる人たちは君の戦う相手じゃないからね。敵を見誤るなよ」【14:17】は、歌詞に起こすとこう変化するのではないだろうか。
一見まったく異なる台詞であるが、言わんとすることは同じである。
きくりは【8話17:26】で「ここにいるのは、君の演奏が聴きたくて立ち止まってくれた人たちだ」とあるように、
観客は敵ではなく、真の敵は観客の前で怯える自分自身である……。
これが「敵を見誤るなよ」の言わんとすることだろう。
本当の敵がどこにいるかも分からない、そんな「ぼやけたままのフォーカスじゃ君のホンモノは写せないよ」という意味となる。
そして後藤ひとりは、路上で立ち止まる観客の一人から、
声をかけられるのである。
「頑張れ」、と。
事実、敵を理解した後藤ひとりの演奏は、
「一気に安定感が増した」【17:13】ときくりが独白するほどの変貌を遂げる。
フォーカスを自らに合わせ、ホンモノを写したのである。
そして翌朝のサビへと続く。
サビに登場する「君の言葉」は、一貫してファン2号の声援で固定されていると僕は考えている。
廣井きくりの「敵を見誤るなよ」も紛れている可能性も考えられるが、
個人的な経験として、翌朝ふわふわと思い出す昨夕の台詞は、印象に残ったただ一つだけの言葉であることが多い。
ゆえに回想者後藤ひとりが思い出してるのはファン2号の声援であり、
それに「ちょっとさ らしくはない 未来も信じちゃうよ」と感じ入り、離れなかった言葉を、自らの意志で「離さない」と書き記すのであった。
ちなみにこの、「離れない」から「離さない」に変わるような、最後に自らの意志で掴み取ろうとする表現は(当然巷にあふれるあらゆる歌詞に出てくるけれど)、
江ノ島探訪後に書かれた「12.星座になれたら」にも活かされている。
(「星座になれたら」から、「星座になりたい」へと変わる)
以上の読み解きから、「13.フラッシュバッカー」の歌詞は8月4日の金沢八景路上ライブの翌朝(8月5日)に書かれたもので、
おそらくその日のスタジオ練習時にバンドメンバーと共有されたものだと思われる。
作曲は例によって2~3週間で完成したと考えられる。
14.転がる岩、君に朝が降る
Wikipediaによると、2008年2月6日にASIAN KUNG-FU GENERATIONのシングル曲として発表されたとある。
僕はこのアニメでこの曲を知ったが、邦楽スキーの兄(元ベーシスト)は、アジカンで一番好きな曲だったらしく、最終話で流れたときにめちゃくちゃテンション上がったらしい。
ちなみにアニメ版の後藤ひとりは、2022年時に高校1年生で、誕生日は2月21日である。
計算が間違っていなければ2007年生まれなので、ぼっちが最初の誕生日を迎える直前にこの曲はリリースされた。
(故にぼっちたちの世代からすると、この曲はやや古いと感じるかもしれない)
もし『ぼっち・ざ・ろっく!』の世界にアジカンが存在する前提で考慮すると、
ファミレスでセットリストを見た時点での喜多ちゃんの反応
「あ、でも、文化祭で全曲オリジナルって、ちょっと攻めすぎな気も?」【10話20:02】
から、文化祭ライブで「14.転がる岩、君に朝が降る」が演奏された可能性は除外される。
以前書いたように、アルバム『結束バンド』のコンセプトを考慮するに、この曲がカバーされたのは、文化祭ライブの相当先(アルバム収録曲のうち、この曲目が最後に発表された)になると思われる。
以上を踏まえ、
文化祭ライブまでに作られた曲目は、
制作順に並べると、
「05.ギターと孤独と蒼い惑星」
「01.青春コンプレックス」
「07.あのバンド」
「13.フラッシュバッカー」
「11.忘れてやらない」
「12.星座になれたら」
この6曲であると思われる。
そのうち、「11.忘れてやらない」「12.星座になれたら」は文化祭ライブの1曲目2曲目として演奏された。
では3曲目は一体なんだったのだろうか。
2段階目:文化祭ライブの3曲目を考察する
ここにきてようやく本題である。
候補4曲を、今一度ここに記す。
「05.ギターと孤独と蒼い惑星」
「01.青春コンプレックス」
「07.あのバンド」
「13.フラッシュバッカー」
このうち、本note冒頭で書いた
・ぼっちと喜多ちゃんが主役であると意識して組まれ、
・かつて山田が体験した「お通夜」ライブの二の舞を避ける
これを満たす曲を考えよう。
まず「07.あのバンド」の項でも触れたが、聴き手によってはかなりロックが過ぎる歌詞、というか他軽音部に喧嘩を売るような曲であるために、山田は選曲しなかった可能性が高い。
候補がこの曲しかないのであればまだしも、結束バンドらしい曲は他にもあるため、少なくとも積極的にこの曲を選ぶ理由は少ない。
では逆に選曲する理由がはっきりしている曲はどれだろうか。
それは、
「05.ギターと孤独と蒼い惑星」と
「13.フラッシュバッカー」であろう。
「05.ギターと孤独と蒼い惑星」であるが、まずこれは前回の台風ライブで失敗した曲である。
結束バンド初のオリジナル曲であり、さらにリベンジを果たしたいという点で、選曲する強い動機としては充分だろう。
また1曲目から「太陽」→「星座」→「惑星」と天体でつながるロマンがある。
「13.フラッシュバッカー」はお披露目していない曲であり、余韻の残る曲という意味で、トリに最適であると言える。
また観客の視点で歌詞を追うと、前の曲で「君と星座になれたら」と願った「僕」が、
「13.フラッシュバッカー」では「君」の言葉がずっと離れないでフラッシュバックさせているという物語性が生まれる。
ちなみにこちらにも第2スタンザで「星屑」が登場するので、「太陽」→「星座」→「星屑」と天体リレー可能である。
正直言って甲乙つけがたいし、想像の余地を与えてここで思考停止して読者に委ねてしまってもいいとさえ思う。
そもそも僕はライブというものにほとんど行ったことがなく、どういった曲順だとどういった心象を得られるのか、などといったような知識に不足しているのだ。
しかしやはりここで、今一度山田の視点に立って考えていきたいと思う。
どちらのほうがぼっちと喜多ちゃんを引き立たせ、そしてお通夜ライブを免れることができるのか……。
そう考えると、まず「余韻」という点で「13.フラッシュバッカー」が有力であるように思われる。
アップテンポな曲2曲のあとにダウナーな曲でチルアウトさせることでメリハリを生み、印象を強めた狙いがあったとしたら、この曲は外せない。
外せない、というのは文字通り、ダウナー調で始まる曲はアルバム収録曲のなかで「09.小さな海」「13.フラッシュバッカー」「14.転がる岩、君に朝が降る」に限られ、そのうち文化祭ライブ時点で完成しているのは「13.フラッシュバッカー」のみである。
また【1話16:03】で虹夏が「普通の女子高生に演奏の良し悪しとか、分かんないって」と炎上しそうな発言をする傍ら、山田は「私は良し悪し分かるけど」と普通じゃないアピールをするシーンがある。
このくだりを考慮したうえで、演奏の良し悪しなんて分からない観客でも楽しめる工夫として、
アップテンポで爽やかな「11.忘れてやらない」、
メロディアスでベースの心地いい「12.星座になれたら」、
エモーショナルでゆるやかな「13.フラッシュバッカー」と、
メロディラインの豊富さでも楽しめる構成となる。
「05.ギターと孤独と蒼い惑星」を選曲すると、どうしても曲のテンポと曲調のメリハリが生まれにくい。
ちなみにステージは1バンド15分【10話19:02】であるが、
結束バンドは2曲目の演奏が終わるまでに8分36秒使っている。
「13.フラッシュバッカー」は4分34秒の曲なので、仮にフルで演奏した場合、残りの時間は1分50秒となる。
ここを締めのMCで使用すると考えれば、自然なセットリストの完成である。
参考までに「05.ギターと孤独と蒼い惑星」の場合、フルだと3分48秒、
アニメ本編のライブ版だと約1分40秒である。
【5話15:11~16:51】【8話5:06~6:46】
まとめると、
・文化祭までに制作された
・文化祭で初公開
・余韻があり結束バンド(ぼっちと喜多ちゃん)の印象が残りやすい
・2曲目の「君」とのつながりにイメージを膨らましやすい
・セットリスト3曲ともに宇宙的つながり(太陽・星座・星屑)がある
・テンポの変化でセトリ全体にメリハリが生まれる
・3曲ともに異なる曲調であるため中だるみせず飽きにくい
・1バンド15分の制限にちょうどいい
といった理由から、
文化祭ライブの3曲目は「13.フラッシュバッカー」であると導き出される。
アニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』というリアリティ
……というのが、僕の考察である。
事の発端は、ドライブをしながらアルバム『結束バンド』を聴いて、
ふと「ぼっちと山田はこの曲たちをどのタイミングで手掛けたんだろう」と思い、
帰宅して湯船につかりながら歌詞カードを睨み、
のぼせそうになる頭を回転させて紙切れに曲目を時系列順に並べたことがきっかけだった。
時系列に並べるためには、アニメ本編内の時系列を調べる必要があり、
目を皿にして本編の1カット1カットを舐めるように眺めたりもした。
すると、思いのほか日付の描写がないことを知り驚いた一方で、
「それなのにどうしてこうも疑問を抱くことなく視聴できるんだろう」と不思議に思ったりもした。
ほぼすべてのエピソードが日付と紐づけできることが判明し、それはそれで驚いたわけだが、逆にこれほど綿密に練られた土台があるからこそ、ぼっちたちがまるで実在するかのようなリアリティを出すことができるのだとも思った。
あれほど顔面を崩壊させても、それを修復する描写をさせても、それでもファンタジーではなく現実にいると思わせてくれるのは、詳細で具体的な設定の数々なのだろう。
無論、ここに書き綴った内容には、僕自身の想像が多分に含まれている。
おそらく製作サイドがこのシリーズを見るなんて事件が起こったとしても、一笑に付されて、事件にすらならないようにも思える。
僕の深掘りが、あまりにも浅く、掘るべき方向が狂ってるだからだ。
さておきひとつの作品を熟読し、描写のひとつひとつ、台詞のひとつひとつ、歌詞のワンフレーズを細やかに検証する経験は、実に得がたいものであったし、考察に耐えうる強度を持つ『ぼっち・ざ・ろっく!』という作品が、ますます好きになった。
好きというより、愛というべきなのかもしれない。愛の正体は知らないままであるけれど。
さて、では最後に、考察で得た副産物ともいえる、
『ぼっち・ざ・ろっく!』内の時系列順に並べた
アルバム『結束バンド』収録曲一覧をお見せして、本シリーズはひとまずお開きとさせていただきたい。
文字数は24000字を超えた。
これほどの長文を読んでくださり、ありがとうございます。
『ぼっち・ざ・ろっく!』と、結束バンドのますますの活躍を祈念して。
時系列順アルバム『結束バンド』収録曲
おすすめと参考
『ぼっち・ざ・ろっく!』を舐めまわすように考察する同志の動画。
映像演出面に疎いので、とても勉強になったし、改めて深く考えられてると思いました。
個人的には3話の喜多ちゃん加入考察が好き。
本シリーズ