灰皿を囲んで煙草を吸えない。吸いたいけれど。
僕はおそらく、煙草を吸うのが遅い。
「おそらく」というのは、他人が嗜む様子を見る機会がそれほどないからだ。でも数ヶ月に1回程度、見知った方と共にする機会があって、自分が半分ほど進んだ時点で相手は1本終えている。自分よりゆっくり嗜む方と相席したことがないので、「おそらく」煙草を吸うのが遅い、と思うわけだ。
煙草をはじめたのは、大学を卒業して1年後、当時勤めていた仕事に疲弊して、「夜逃げ」をしたあとのことになる。
喘息を持っていたこともあり敬遠していたし、かつていた彼女が唐突に僕の運転する車の助手席で吸いだしたときはキレたこともあった。
(吸ったことへの怒りではなく、窓から灰を落とすことでボディに焦げ跡が付きかねないことに腹を立てたのだ。別れる数日程度前のことだった)
なのだけど、口腔喫煙というものを知った僕は、これも芸の肥やしとして、試すことにしたのだった。たしかケントかパーラメントだったと思う。
それ以降、あらゆる銘柄の煙を味わった。
「煙草」という言葉が分岐していく感覚だった。
「ホープ」「ハイライト」「うるま」「トレジャラー」「ラッキーストライク」「ダッチ・マスター」「小粋」「ダニッシュ・ブラック・バニラ」……それぞれ異なる顔と性格をしたシガーやシガレットや葉巻や煙管や紙巻きや両切りや洋モクやあれやこれやなのだと知った。
「こういう銘柄を吸う人は、こういう人間だ」と語られることがある。
ハイライトはバンドマンや年配の男性が、ゴールデンバットはもの書きが、元ヤンはセブンスター、チェを吸う人はポリティカルトークがお好き、など。
ただ僕はあまりそういったイメージがよく分からない。上記の印象も、ウェブで「煙草 銘柄 印象」で検索した文字の羅列を鵜呑みにして連ねたにすぎない。
どれもそれぞれのおいしさがある。
ハイライトはすっきりとしたラムの芳香がたまらないし、ラム香はゴールデンバットも同じであるが、ハイライトよりも濃厚で、鼻から煙を抜くとき、脳髄がぞわぞわと震える感覚に魅了される。セブンスターはミルクティーのような芳醇さに加え、チャコールフィルター特有の甘味な香りがすばらしい。チェは洋モク特有のコクのある香りに加え、バージニアの芳香が味わい深い。
ハイライトを楽しみたい日はハイライトを、チェを所望するときはそれを、それぞれ僕は指のあいだに挟んでいる。
おそらくだけど、「吸う煙草でその人の性格が分かる」みたいなイメージは、灰皿を囲んだ人々の口伝で、その「口伝」が連鎖して生まれたものなのだと思う。
確かに世の中には(ほぼ死語だろうが)「タバコミュニケーション」というものがある。喫煙所という空間で語られる雑談、業務上の小話、なにより1本嗜むごとに離席する機会がやってくることに意義がある。喫煙者のなかには、人と語らうためにあえて吸う人もいることだろう。
となれば、僕が嗜むようになったきっかけはその反対をいくものだ。
僕は人と話すために吸うのではなく、煙草を吸うために煙草を吸う。吸う場所のほとんどが自分の車のなかで、缶ピースとアークロイヤル白を好んで嗜むけど、ブラックデビル黒やボヘームシガー、ゴロワーズやガラム缶、そしてマックバランとグロリアなんかも車載している。人前で吸うことは滅多にない。だから、たぶん格好の悪い吸い方で、見る人が見れば失笑を買うことだろう。
しかも喘息持ちのため、肺にがっつり煙が入り込めば、高い確率で息が苦しくなる。ゆえにそ、っと煙を口のなかに含ませることは必至で、そして煙を含み口のなかで転がし吐き出して香りを堪能するまでの一行程を済ますまで、とてもではないが会話をするのは難しい。やろうと思えばできるけど、コツを掴みあぐねている。煙草と対話することで手一杯だから、人と語り合うまでの段階に至れず仕舞いなのだ。
このあいだ、もの書き仲間と会し食事をする機会があった。
そのうち二人が愛煙者で、度々離席しては煙を燻らせに外へと出るのだ。ひとりはハイライト・メンソールで、もうひとりはロングピース、どちらも名作煙草だ。
外出するとき、僕はアークロイヤル白を携帯することにしている。ショートケーキを思わせる甘い香りで、非喫煙者にとっても比較的不快感の少ない香りであるための選抜であるわけだけど、ただこの日は大量の荷物を積載していて、アークロイヤルは車に置いてきてしまったのだ。
そのため二人が席を立ったとき、僕は羨望の眼差しをもって見送った。
でも、もしかしたらあの二人のあとを追うという選択肢もあったのではないか、と今は思っている。灰皿を囲むあの空間であるからこそ語れるものがあったのかもしれないし、あったとするならば、僕も加わりたかった。なにせ、そんな体験は滅多にできないのだ。あの場にいるだけでもよかったし、もしかしたら相手から1本くれて、そこから話がふくらんだかもしれない。
そのことに気付いたのは、一次会と二次会を終え、電車に乗り地元から車に乗り、家に帰り寝る間際だった。そのときになって、打ち上げの前、文学フリマ東京の会場で、僕が愛煙者であることを話していたことを二人に話していたことを思い出したのだ。
話していたのだから、当然打ち上げで触れられるのは自然なことである。それも、灰皿を囲んだ場で話ができたとしたら、それはまことに有意義なひとときとなろう。
特にロングピースのお方とは、席が離れていた関係で、最後まで話せる機会がなかった。残念でならなかった。彼とは話ができなかったが、立ち居振舞いからして僕と息の合う人のように感じていたからだ。
僕にとって煙草は、コミュニケーション・ツールでもなければアイデンティティの表出アイテムでもない。ただそれでも「人と交流するために吸う煙草」を身につけることも、あるいは芸の肥やしとなるのかもしれない。
灰皿を囲って語らいたい。そんなの時代と逆流してるし、信念を曲げるとは何事か、と思われるかもしれない。
でも、煙草よりもその人とお話をしたいときだってある。煙草の多くは1箱20本だけど、その灰皿を囲うひとときは、その瞬間にしか訪れない。
その「瞬間」に僕は価値を感じた。けれども、なかなかどうして踏み出せない。尻に根でも生えたように、席から立てずにいる。
こういうとき、煙草を言い訳に席を立てたらいいんだけどな。次に訪れるその「瞬間」のときこそ、席を立てるよう、忘れずアークロイヤルとマッチを胸ポケットに忍ばせておこうと思う。
もう1本、煙草に火をともすなら、こちらをお供にぜひどうぞ。
葉巻をゆったり燻らすなら、こちらを。