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Feminism to Masculism


ようやく入り口が見えてきました。おぼつかない脚でフェミニズム畑を歩んできて満身創痍ではありますが、本番はここからです。私はずっとこういう話がしたかったのです。トランス男性を包括するフェミニズムからマスキュリズムへの移行について、今回は一冊の素晴らしい本 “Self-Organizing Men: Conscious Masculinities in Time and Space”をベースに記述していきます。


直訳すると「自己組織化男性」でしょうか。まず導入から共感に満ち満ちて、日本語で探してみた限りではまだここまで納得のいく表明に出会ったことがなかったので、さっそく歓喜しました。

”I had failed the feminist movement because I had become a man”,
”I didn’t find that book, so I decided to create one”

あ、もう自分男じゃん。フェミニズム運動ではやっていけない。
でもどこにトランス男性を含む新たな道筋があるんだ?
ないなら、自分で作るしかない。

そういう経緯で始まったのがこの本“Self-Organizing Men”であるわけです。最高です。誠に僭越ながら、まさしく私も同じ経緯でいくつかの検索結果の中からこの本に出会えたわけで。本当にないんですよ。いや、トランス男性を含む「マイノリティ男性」の語られなさはパッと見たかぎりでも異常に少ないという事態は、後ほど書きますね。

著者の中でも発起人となるJay Sennett氏は、ホルモン開始から6年経ったのち男らしさの中核に迫ることとなりました。自分自身のために。トランス男性であるJay Sennett氏には、パラドックスがあったといいます。男性的な脆弱性、ペニス、白人特権(アメリカの本では無視できない観点です)、内部反発の全てとともに生活していくこと、子供時代、そして私たちの心の奥深くのパラドックスをいかに保持するか。それらを解決する本は見つかりませんでした。だから自ら作ることにしました。“Self-Organizing Men”は、複数のトランス男性を中心とした、アンソロジーです。エッセイ、挿図、詩、対談などがこの一冊に紡がれています。

寄稿者は以下の方々です。内容とプロフィールからトランス男性当事者であるとわかる方がほとんどですが、調べた範囲では当事者か否か判らない方もいました。

Eli Clare, Scott Turner Schofield, Tim'm T. West, Dr. Bobby Noble, Nick Kiddle, Eli VandenBerg, Jordy Jones, Doran George, Aren Z. Aizura, and Gaylourdes.
Editor Jay Sennett is an award-winning author, screenwriter and filmmaker.


共感がすごい、といっても私(あきら)自身はテストステロン投与からまだ2年未満、社会的男性としての境遇が始まってから1年2か月未満の、ほんの未熟な男児に過ぎません。別段バイナリーなトランスではありませんから、正確には男性としての自覚なんてありませんし、持ちたくもないというのが正直なところです。それでも自覚させられるほかないから、やはり向き合わざるを得ないのです。でもそうした「トランジションを“移行過程”として捉える」視点が余計にこの“Self-Organizing Men”に惹きつけられた理由ともいえます。

前書きが長くなりましたので、そろそろ本題に。
以下、生活実態を現す状況では「トランス男性/トランス女性」、外化手術・治療にまつわる描写では「FtM/MtF」と記します。“Self-Organizing Men”からの引用は、私が参考にしたのはKindle版のため紙の本とはページ数がズレていますので、その文章の著者名のみを記すこととして、省かせてもらいます。


トランス男性の在り様

“Self-Organizing Men”でトランス男性にまつわる頻出ワードは順にこのような印象です。(正確な登場回数は数えられていませんので、あくまで私の印象ですが……。)
1、testosterone (男性ホルモン)
2、penis, dick, cock (ペニス)
3、lesbian, dyke, feminist (レズビアン、男性的なレズビアン、フェミニスト)
4、chest reconstruction surgery (胸オペ ※他の言い方もされていたはずです)
5、gender reassignment surgery, bonus hole (下半身について)

adam’s apple(喉仏)やphalloplasty(陰茎形成術)の登場回数は低いです。声変わりはトランス男性にとって重大な要素なのにその研究は成されていない、と別のレポート(日本、2015年 ※「Female-to-Male トランスジェンダー/トランスセクシュアルにおける男性ホルモン投与の影響」という題の博士論文)にもありました。私もそう思います。

phalloplasty(陰茎形成術)については、難易度と費用のおかげでやる人は少ないです、と諦めモードで記述されるのみでした。SRSは“Sex reassignment surgery”ではなく“Gender-”と表記されていたのも印象的。自らの下半身に本来ないはずの穴があることを“bonus hole”と呼ぶトランス男性もいるのだとか。
この話題の様相では、トランス男性の生活にとって何が優先されているかわかりやすいですね。MtFのSRSとFtMのSRSは非対称ですから、FtM側でgender reassignment surgeryやphalloplastyが後回しなのはそうだろうと納得します。治療するにしろしないにしろ、testosteroneの話題がとにかく多かったです。(個人的には、戸籍性別の変更に際して手術要件の撤廃をどうするか否かを、MtF・FtMともに同基準で進めていくのは難しいのではないかとすら感じます。今でさえ既に「同じ」条件であるとは思えませんから。)

“Self-Organizing Men”には様々なトランス男性が登場します。
たとえば男性のパートナーとの間に妊娠・出産をしたいNick Kiddle氏は、「男性との性行為が嫌ではないなら女性なのでは?」「子供を産んだら母親になるんだぞ」と言われます。Nick Kiddle氏の文章のタイトルは“I Can’t Be Male”です。どんな思いでそう付けざるを得なかったのでしょうか。母親になりたいのか?と精神科医に問われれば、いや親になりたいだけだ子供がほしいんだ、と答えます。医者であれ、gender identityを形作る当人には取って代わることのできない赤の他人です。

トランス男性とフェミニズム


さて、“Self-Organizing Men”の特色ともいえそうですが、lesbian, dyke, feminist(レズビアン、男性的なレズビアン、フェミニスト)の話がtestosteroneに負けず劣らず多かったのです。女性として置かれてきた経験と地続きに、トランスして男性に至った過程を語る、というパターンです。なお、“dyke”は男まさりなレズビアンの蔑称として使われ、当事者のなかでクィア的にポジティブな自称として用いられる側面もあるように見受けられましたが、日本語の単なる“ボイ”とは一線を画すと思います。

以下私の持論ですが、トランス男性がフェミニズムに回収される可能性は大いにある、というかあり過ぎていると思います。理由は「マスキュリズムが何もやらないから、その分フェミニズムに性差別の課題をまるごと負わせてしまうため」と私は考えます。別にトランス男性が女性だから、とミスジェンダリングしてフェミニズム内だけで述べるつもりではありません。それどころかシス男性で規範に乗れない方のためにもフェミニズムは有効だと示されている始末ですし、まあ以下の内容は「トランス男性とマスキュリズム」に繋げることとして、今は一旦フェミニズムの話題に戻ります。
「女性ジェンダーを押し付けないでほしい」「女性としての性役割を全うしたいなんて思っていない」という主張ならば、(初期の)トランス男性も昨今のシス女性も同じ流れを辿っています。そして、無視できない身体の状態もあります。「男だったら胸や股からこんなに血を流さなくてよかったのに」と恨めしく思いながら日々を過ごしてきて、そうした身体の問題が男性の枠内で語られることは一度もありませんでした。つまり既存の「男性」の中に「私」が含まれ、「男性」の主人公として物語を生きられる経験はまずありませんでした。必要な医療を提供してきたのは婦人科であり、女性の名の元に行われてきた運動であり、フェミニズムでした。こちらのgender identityが何であろうと、フェミニズムがなければ私は今頃選挙権もない立場だっただろうし、経血をボロ布で拭いていたのかもしれません。「男性」が今まで何をやってくれましたか?(これは反語です)
“Self-Organizing Men”に登場する方々でも、レズビアンコミュニティやフェミニズム運動に携わってきたというトランス男性のエピソードがいくつもあります。それどころか、まあやはりというところですが、“男性になるのが嫌だった”という話もありますしね。

一方で、こんな指摘があることも忘れずに示されています。

FtMs is the assertion that, by “crossing over this gender divide” (a metaphor I refuse) and transitioning into a world of masculinity by becoming men, FtM transsexual men are now living a kind of privilege not accorded to lesbians or biological women and so betray their feminist sisters.(Bobby Noble)

「トランス男性は男性特権のある側へ行ってしまったので、フェミニズムの姉妹を裏切っている」と。同じ主張をGCFと名乗る人がしていたのを思い出しました。


レズビアンと連続するトランス男性

In “real life,” I came out first as a lesbian, then became an outspoken radical feminist, then (reference Underground Transit) turned inward to find desire and identity in myself, and then came out as trans.
(Scott Turner Schofield)
“実生活では、私はまずレズビアンとして、次に無遠慮なラディカルフェミニストとして、それから自分の中の欲望とアイデンティティを見つけようと内面に向き合い、トランスとしてカムアウトしました。”

“Self-Organizing Men”全般を通して、「レズビアン→ラディカルフェミニスト→トランスマン→ゲイセックス」と連なる移行の過程を真摯に述べてくれているのです。レズビアンから、ゲイまで!こんなに正直に実情を述べてくれるトランス男性によるトランス男性のための本があって、私は嬉しく思いました。

I am a man without a penis; a man who used to be a lesbian, girl, female.
(Jay Sennett)
“私はペニスのない男です。かつてレズビアン、女の子、女性だった、男です。”

最初からゲイとしてのアイデンティティを保持してきたトランス男性やアセクシュアルのトランス男性はその限りではないでしょうけれども、ここまで真摯に、自他ともにレズビアンとして認識して生きてきた過去がある、と今表明できるところに強さを感じました。

私(あきら)は常々アライの方々の表明に息苦しさを感じなければならない場面がありました。#トランス男性は男性です、というとき、そこには到底“男性”の境遇に至っていなかったり、のちにハッキリと(トランス)男性になるにしても今現在そうではない人も、存在しているのです。単に「男性です」と片付けるには、あまりにも違いがありすぎて、むしろ取りこぼされた事実に傷つく人々が確かにそこにいるのです。マスキュリズムは未成熟で、トランス男性を救う土俵も、主役とさせる土俵もあるとは言い難い現状です。そんなとき、そこでレズビアンコミュニティやフェミニズムが手を差し伸べてくれていたのです。私がマスキュリズムに向き合いたいと思うとき、それは決してフェミニズムと対立する概念ではなく、いわば遠距離恋愛のように同じ最終目標である“性差別撤廃して同権となるために”、今はまだお互い離れてお互いのできることに着手しよう、という段階なのだと解釈しています。やたらと対立を煽る古臭い規範を私は望んでいません。


トランス男性とゲイセックス


“元レズビアン”であった現トランス男性がゲイセックスに惹かれるのは珍しくない、という話も出てきます。

Queerness drifts from same–sex encounters in the context of lesbianism to same–sex encounters in the context of gayness. (Aren Z. Aizura)

レズビアンの文脈で同性として女性と出会っていた人が、今度はゲイの文脈で同性として男性と出会うことがあります。

I was the man he wanted for the night. Not only did this drunken stranger see me as a man, he saw me as a man he wanted to fuck. This drunken lust of a gay man did wonders for my self–confidence, far more than a year of therapy ever could.
(Eli J. VandenBerg)
“酔っ払ったゲイ男性が、自分のことを男として見ただけでなく、Fuckしたい男として見た!その自己肯定感たるや。一年の治療でここまでできる。”

新たに男性社会に仲間入りした少年(トランス男性のことです......笑)が、男性になる方法をゼロから学ぶには、ゲイセックスが有効である、と。ここでいうトランス男性のゲイセックスというのは、そのトランス男性の性的指向とは無関係に述べられています。別段ゲイではなくとも、(例えば女性愛者でガールフレンドがいるのだとしても)ゲイ男性と男性間のセックスを行うトランス男性がいる、という話がされています。
これに関しては、ひっそりと納得してしまいました。私含め観測可能な範囲の日本のトランス男性でも同じ現象が起きていると、そう思うからです。いやはやお前もか!とこの文章を読んだとき、ハイタッチでもしたい愉快な気分になりました。なかにはEli J. VandenBerg氏が述べたように、「女性が自分を愛してトランス男性だと知ったとき、彼女が自身をレズビアン的な傾向があるせいで良い男(トランス男性ではない男)を見つけられないのかと疑問に思うというような、いくつかの絶望的な治療過程」が辛い、という場合もあります。女性との性行為では自分が傷つけられたり、自分を見失ってしまったりするから、その部分を男性との関係性において補填しようとしているのだということでしょうか。
さらに別文脈ですが、Jay Sennett氏はこんな思いを綴っています。

Having sex as a “transsexual man” or “a man who used to be a woman” did not work for me. I wanted to have sex as a man with a woman.
(Jay Sennett)
“「トランスセクシュアル」や「かつて女性だった男性」としてセックスをすることは自分のためにならなかった。私はただ男性として女性とセックスしたかった。”

ただし、その思いはFtMの医療技術が不十分な現在、叶わない夢です。私(あきら)が思うに、女性と対峙して“男性になりきれない”現実を噛みしめるよりは、シス男性と交わって男同士のコミュニケーションに身を置ける方が違和感なくセックスを楽しめる、ということかもしれません。トランス男性の性的感覚の変化については、Aren Z. Aizura氏が文中で事細かに述べてくれています。


トランス男性とマスキュリズム


マスキュリズムはフェミニズムより一世紀は遅れているでしょう?こうしてようやくフェミニズムが語られ出した要因に、数の効用はあるといえそうです。というのも「女性」と呼ばれて振り向く人は、現状で世界の約半数もいるからです。まだ団結の仕様があり、運動として成り立たせることができます(もちろんここまで長い年月がかかってきましたし、まだ発展途中です)。

それに対して、既存のシステムは「(条件付き)男性」に向けて培われてきました。その中からわざわざ声を上げる「男性」というのは、そのシステムからこぼれ落ちている男性です。世界の約半数もいやしないのです。
いい加減にマスキュリズムの存在の希薄さ、解像度の荒さに怒りを捧げたいです。「あなたたち」が自身の立場に無自覚なまま何もやらずにあぐらをかいてきたから、その分のツケを、「(従来の)男性」として想定されてこなかったトランスジェンダー男性、しいてはゲイ、非白人、低所得者などのマイノリティ男性たちが個別で解消する手立てを打たなければならなくなったのだ、と。masculinity(男らしさ)が語られるときに「男性の中のマイノリティ」として“クィア”も“黒人”も(やがて団結するという文脈ではなく、最初から)一緒くたになっていることには率直に驚きました。デフォルトマンであるか、さもなければマイノリティ男性(日本だと「弱者男性」と言われるものがそれに当たるかもしれません)になる構造。本当に考える気はあるの?と疑いたくなるような、雑さ。それが2020年現在のマスキュリズムであるらしく見えます。
有名な2冊『男らしさの終焉』『ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか』も読みました。

でも、ごめんなさい、「男性は強くあれって言われてきたでしょ?でも、弱くていいんだよ」以上のことが読み取れませんでした。取り立てて新しい発見はありませんでした。非常に残念ながら。早くこんな自分の絶望を裏切ってほしいです。幼少期から「強くありなさい」の代わりに「なんで女の子らしくできないの?」と矯正/強制されてきたトランス男性が読んで、そこに自己投影できる要素はないです。男らしさの象徴(呪縛)として終始描かれるペニスなんて最初からありませんし。マスキュリズムはフェミニズムよりも現状、ずっと雑です。その自己反省要素の少なさこそ男性性と結び付けられているのか?と指摘したくなるくらい、己の分析材料がまだ分かっていない状態なのだ、とよそから男性枠へ連れ込まれてきたような私は思いました。フェミニズム畑を歩んできて、ようやく生い茂った草木から隣人の顔が見えて”一人じゃない”と実感できた矢先、そのゆるやかな対岸にあったマスキュリズム畑はジャングルでした。ほとんど全く、反省も整備もされていません。名を持って存在したことすらないみたいに。

……マスキュリズムの過程の入り口にたどり着いたばかりの私のこうしたちんけな予想なんか、一刻も早く存分に裏切られてほしいと切に願っています。

ひとまず私(あきら)としては、2021年いっぱい男性学/masculism にまつわる本や論文を探してみて、納得がいかなければ2026年までに大学または院に進んで Trans-Masculism(Masculinity including Transmanの意味)について考えていくのはありだなあと思ってきたところです。ホルモンの影響で2、3年思考停止していたので、どうにかこうにかやることが見つかったのは(内容が不本意であれ)良いことではあります。早くホルモンに支配された生活から自分を取り戻したいから(無論単純にホル前に戻りたいという意味ではなく、全く新しい形で自分を受容したいという希望です)。

なので、もしオススメの本・記事・論文・教授等の情報がありましたらご教示いただけると幸いです。本当に駆け出しのままの文章ではありますが、ここまで長々とありがとうございました。そして、Jay Sennett氏の試みに感謝します。



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