【無料公開】日本の唱歌童謡史講座「第3章 日本国産の唱歌創出、文部省唱歌の時代」
第3章 日本国産の唱歌創出、文部省唱歌の時代
ここまでの解説で、明治維新後の日本は音楽に関しても西洋文明を取り入れることに努力したが、日本の文化を捨てて取り入れたのでは無く、日本人の得意とする「外国のものを取り入れながら自分たちの文化に取り込んでしまう」ということを、試行錯誤しながらも進めてきた、ということが理解してもらえたと思います。
音楽取調掛の伊沢修二は音楽教育制度を更に発展させるために、1887年(明治20年)音楽学校設立を政府に進言し認められます。伊沢は初代校長となり、1890年に東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)の開校に漕ぎ着けます。
しかし、時は日清戦争前夜、政情不安による国費削減議論の中で、1893年には早くも東京師範学校の付属に格下げさせられます。日清戦争後の1899年には、東京音楽学校は再び独立を勝ち取るのですが、国際情勢に翻弄される学校運営で苦労も多かったようです。
そのような状況の中でしたが、東京音楽学校では「国産の唱歌」を生み出す研究が進められていました。当初は子供向けの歌いやすく平易なリズムでヨナ抜き音階を使ったものが多かったのですが、上記のような世相も反映して「国民教育」の影が音楽教育にも入り込んできたものが目立ってくるようになったりもします。
その最も象徴的なものが「儀式唱歌」と呼ばれるものでした。明治26年に発表された「一月一日」「紀元節」「天長節」などの唱歌がこれにあたります(ちなみにこの段階で前章で紹介した唱歌版君が代は取り下げられ林広守版の君が代が儀式唱歌に取り入れられています)。
各祝日に子供たちを学校に集め、訓示と共に各祝日にあった儀式唱歌を歌っていたようで、それらは敗戦とともに廃止され、現在では「一月一日」くらいしか歌われなくなりました。
このように、初期の国産唱歌は国民教育を目的にしたものが多かったのですが、そんな中でも芸術性高い楽曲も序々に作られるようになっていきました。国産唱歌初期の名曲と言えば、小山作之助の「夏は来ぬ」と滝廉太郎の「荒城の月」が双璧でしょう。
小山作之助については又別の機会に扱うとして、今回は滝廉太郎の「荒城の月」誕生のエピソードを紹介します。「荒城の月」は東京音楽学校が再び独立を勝ち取った直後の1901年(明治34年)に、中学校(旧制)用唱歌の公募によって誕生します。
荒城の月を作詞した土井晩翠(1871-1952)は、明治期に島崎藤村と人気を二分した詩人でしたが、東京音楽学校から依頼されて、作曲公募用に荒城の月を作詞しました。それに応募して採用されたのがまだ20歳そこそこの若き滝廉太郎の曲でした。
元々の滝廉太郎が作曲したメロディは現在私たちが歌っているメロディとは少し違う部分があります。一段目の歌詞「花の宴」の「え」の部分に元々はシャープが付いていました。後に山田耕筰がシャープを取り、伴奏を付けて改変したのが、現代私たちがよく知っているこの曲の姿です。
シャープの無い山田耕筰版は古典的な楽曲として完成度の高い芸術性を発揮していますが、元々のシャープのあるメロディもジプシー音楽のような味わいがあり、これはこれで価値高い音楽として成立しています。
このわずか数年前の1896年にスペインではギターの名曲「アルハンブラの想い出」がフランシスコ・タレガによって作られていますが、このふたつの名曲がとても着想が似ているように感じられるのは興味深いことです。滝廉太郎がアルハンブラの想い出を聞いたかどうかはわかりませんが、あのシャープをつけた感性について想像するのは楽しいことです。
こうして国産唱歌のスタイルが完成してきた訳ですが、それらには以下のような特徴が多く見られます。
・ 形式が起承転結明確なものが多く、古典的な様式美を持つ。
・ 日本人にとって歌いやすい「ヨナ抜き音階」を基本にしつつ、西洋式音階もそこに融合させ、西洋和声学にも対応出来る音の使い方をしている。
・ 歌詞の内容は「親の恩」といった儒教的教訓的なものも多く、又和歌などからの引用も多用され、文語的で古めかしいものが多い。
これらの特徴は、よく言えば優等生的であり、悪く言えば堅苦しいものでしたので、「唱歌校門を出でず」と批判もされ、それが後の「童謡運動」に繋がる訳ですが、しかしその唱歌自身も芸術性への深化が無かった訳では決して無く、双方の分野がしっかり発展したことで、現代に続く日本の文化として音楽が成熟してきたのだと思います。
この章の最後に、明治の唱歌のうち、現代も愛唱される名曲のひとつ「ふじの山」を紹介しておきます。この曲も起承転結が明快で古典的な様式美があります。
音使いを少し分析すると、各音の使用回数は、ド6回、レ9回、ミ9回、ファ5回、ソ12回、ラ8回、シ2回、高いド3回となっていて、ヨナ抜き音階であるドレミソラは比較的多く、ファとシは比較的少ないことがわかります。歌詞の内容もそんなに教訓的というほどのことはなく、普遍的な富士山の美しさを歌っています。
戦前戦後で世の中の価値観はがらりと変わりましたが、時代が変わっても人々に愛される曲というのは、上記した唱歌の悪いほうの特徴がほどほどに抑制され、普遍的な価値観がよく表されているということが見てとれます。
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