
松山文化クリエイティブパーク 変貌を遂げた台湾の歴史的遺産
1937年、日本統治時代の台北に「台湾総督府専売局松山たばこ工場」が誕生しました。この工場は、台湾のニーズだけでなく、中華圏や東南アジア市場にも大量のたばこ製品を供給していました。

当時の他の工場と比べ、この松山たばこ工場は高度に計画されていました。工場内には「工業村」のようなコンセプトが取り入れられ、労働者の福祉施設や美しい庭園も設置されていました。建築デザインも一流で、日本統治時代の産業建築の模範ともいえる素晴らしいものでした。

第二次世界大戦後、この工場は「台湾省専売局」となり、さまざまなたばこ製品、例えば、シガーや煙草の葉を生產し始めました。1987年には年間生産額が新台湾ドルで2100億に達し、台湾でもっとも重要なたばこ生産地となっていました。

しかし、時代の変遷とともに、健康に対する意識が高まり、たばこ産業は次第に衰退しました。1998年には、松山たばこ工場は生產を停止し、台北のたばこ工場と合併しました。しかし、この地は失われることはありませんでした。それどころか、「松山文化クリエイティブパーク」として生まれ変わり、デザインや文化産業の中心地となっています。

この変貌は、産業構造だけでなく、文化や社会的価値観にも反映されています。80年以上にわたり、松山たばこ工場は台湾の経済、文化の興衰を見守り、その歴史と文化遺産としても無視できない存在となっています。

今、私たちが「松山文化クリエイティブパーク」を訪れると、様々なアートやデザイン展示があり、さらにはカフェや書店で自分自身の楽園を見つけることができます。この工場の歴史は、古い写真やアーカイブだけでなく、訪問者一人一人の心にも生きています。