『ザルドス』“空飛ぶ顔面岩”と死の一回性
『ザルドス』が4Kになり劇場公開されると聞いて、何が何でも観たいという感情を捨てきれず高い入場料を覚悟の上に劇場に向かったのであった。わたしはどうしてもあの”空飛ぶ顔面岩”が気が気でなかったのだ。あの”空飛ぶ顔面岩”は一体何であったのだろうか、それをどうしても突き詰めたかったのだ。この映画は、中学生の頃にTVで観たものの、淫欲に溺れていた中学生の頃である。淫靡なシーンばかりに熱中し中身は全く観ていなかったのであった。
※1974年劇場公開から僅か3年後の1977年にTV放映されていたようだ。かなり早くTV公開となっていたようだ。
映画が始まると、早速、期待していた”空飛ぶ顔面岩”が登場する。顔面岩が宙を浮いて飛んでいく映像を背景に、仰々しく作り込まれた”ZARDOZ”と書かれたタイトルロゴの意匠が表示され、そこに”Zardoz”と男性の低くハスキーなナレーションが被さる。うお~、B級感丸出しの出たしではないか、滅多にエンタメ映画を観ないだけに、むしろB級的な演出に心を奪われてしまうのであった。
タイトルのあと、荒れ果てた荒野をつき進む”空飛ぶ顔面岩”(ザルドス)の口から、エクスタミネーターズ(撲滅戦士たち)に向かってライフル銃が吐き散らされる。「汝、選ばれしものよ」と”空飛ぶ顔面岩”はエクスタミネーターズに獣人の殺戮を呼びかけるのであった。多くのライフル銃が”顔面岩”の口から雨あられと吐き出されるという、何ともチープな映像を目にしたわたしは不安と期待というアンビバレンスな感覚に襲われたのであった。これから2時間の上映時間中、ただただB級の駄作と付き合わされなければならないのだろうかという不安と、逆に”空飛ぶ顔面岩”に想像も及ばぬほどの深淵なる世界が描出されているかもしれないという期待、その背反するふたつの感情に板挟みとなりながら物語を追いかけることになったのであった。
映画に示された未来の世界を簡単に説明すると次のようになる。世界はふたつに分断されている。ひとつは獣人が住む外界(アウトランド)という野蛮な世界であり、もうひとつは、不老不死を実現した選ばれしエターナルズ(永遠人)が住む理想郷(ボルテックス)である。エターナルズは、獣人たちのつくる作物を搾取することで、理想郷(ボルテックス)の豊かな生活を実現させている。ザルドス(顔面岩)は、獣人からエクスタミネーターズ(撲滅戦士たち)を選定し、彼らに銃を与え、外界(アウトランド)における人口調整のために獣人たちの殺戮を促す。殺すばかりではない、たまには女性をレイプすることも許されている。
理想郷(ボルテックス)には政府や権力者は存在せず、人工知能がすべてを管理していて、また人々の間で対立が生じた場合は、それぞれの住人が身につけている伝送指輪と人工知能が瞬時に連動し採決を行い民主的な解決が図られる。争いのない平和な世界に住むボルテックスの住人は、不老不死を手に入れ、すべての住人が20歳代と若いままの姿で暮らしている。その代わりに彼らには性欲や睡眠欲など一切の欲望を持ち合わせない。つまり睡眠することも知らなければ、生殖も必要としないわけだから当然セックスも存在しないのだ。理想郷であるものの人間の生理から外れた歪なボルテックスの世界に反抗するものもいるのだが、反逆したかれらは老衰の刑に処され、一挙に無力な老人にされてしまうのである。一方で欲望がないままに暮らすことで無気力化してしまう人間も一定数が存在する。彼らは恍惚化してしまい抜け殻のように直立するばかりで社会から隔絶されている。
ボルテックス(理想郷)とアウトランド(外界)の境界にはバリアが存在し往来することはできない。行き来できるのは獣人の世界から農作物を搾取し理想郷へと届ける顔面岩のザルドスだけである。
この映画で語られていることがあまりに複雑で鑑賞後もうっすらとしか理解が出来ていない部分も多かった。上述のように纏められたのは、1,000円もするパンフレットを買ったお陰である。上述した内容以外にも映画には多くの要素が渦巻いていた。
複雑な構造の上にさらに多くのことを語ろうとしすぎてしまっているかのように感じられた。1,000ページを超えるような長編小説であれば成立するであろう内容をわずか2時間のなかで表現しようとするのは物理的に不可能で消化不良となるのは当たり前である。注意深く観ていたつもりであったが、描れた様々な事柄が一つのテーマに収斂していく様を確認することは出来なかった。上映時ばかりか、40年過ぎた今になってもこの映画の評価が芳しくないのはこうしたことによるものかもしれない。描きたいものを散らばらせるだけ散らばらせ、おもちゃ箱をひっくり返したままにひとつのテーマに回収できなかった庵野の『シン・ゴジラ』を思い浮かべてしまった。※全国1億人の庵野ファンの皆様、ゴメンナサイ。
多くのものを詰め込みすぎで未消化に感じたものの、その一方で、多義性に富んだ世界感は魅力的に映る。野蛮と知性、欲望と理性、搾取されるものと搾取するもの、人智と人工知能、欲望と虚無、老と若、有限なるものと無限なるもの、または死と不死、老化と不老、そこにはあらゆる二項対立が提示されているのだ。
興味深いディストピアだが、残念なことにわたしが過大に期待を懸けていた”空飛ぶ顔面岩”はこの映画の中心テーマではなかったようだ。パンフレットにあった監督インタビューでは、監督は、「持てるもの、持たざるもの」を描きたかったと云っていたのだが、映画を観るかぎり、監督がフォーカスしたかったのは、明らかに「不老不死を実現した世界は本当に幸せであるだろうか」という問いにあったように思う。
これは今日的なテーマなのだろうか?と鑑賞後ピンと来なかったが、たまたまホリエモンが不老不死の研究に関わっているというニュースを耳にした。詳しくは知らないものの、ホリエモンが視座するのは、これまでの彼の言動から想像するに、選ばれし特権階級だけの理想郷の構築にあるように推察される。しかし監督ジョン・プアマンの思い描いた世界は、単純に権力者による選民思想が反映された世界ではなかった。むしろ権力的な野蛮な思考とは無縁の理知的な人間だけが選ばれ、民主的な手続きを踏む究極の理想世界なのである。まるでアテネのポリスのような理知的で整然たる世界である(獣人から巻き上げた食料で暮らしているのだから、その点においても奴隷制によって成り立っていたアテネのポリスと類似している)。
しかし理想郷とはいえども、欲望の一切が存在しない、清いものだけの世界をユートピアと呼べるだろうか。生という一回性を失った不死の彼らは生きる喜びを感得することができないでいるのだ。物語の進行、主人公のショーン・コネリーの活躍により暴かれていくボルテックス(理想郷)は、致命的な勢いで綻びを増していく。エターナルズ(永遠人)たちは、ついに自ら死を求め、境界を侵犯し侵入してきたエクスタミネーターズ(撲滅戦士たち)の銃によって殺戮されていくのであった。
やはりわれわれは、生という一回性を必要としているということなのだろう。そればかりか、清なるものや理想だけに囲まれていたとしても生きていけないことを示唆しているようにも感じられる。猥雑さや濁なるもの、愚鈍たるものを否定したとしても、それが人類にとっての最適解ではないというということを感じさせられた。
映画のラストシーン。殺戮の繰り返される世界をよそに洞窟へと逃げ延びたショーン・コーネリーとシャーロット・ランプリングは、洞窟内で結ばれ、新しい生命を授かり、そして最期には白骨化していく。エターナルを拒否した彼らは、与えられし限られた生を全うしたという結末である。
このラストシーンで垣間見れるシャーロット・ランプリングの美しい乳房の形状に中学生以来の再会を成就したわたしは至極満足を得、映画館を後にした。