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盛りは「見える」もの。走りは見えない「感じる」もの。賢者は「走り」を感じた時点からすでに「盛り」に備え始めている(独白)

今回は、独白である。
正直、内容の十分な説明がなされているとも思えず、読み手としては、何のこっちゃかわからないかもしれない。
それも分かった上で、あえて備忘録的に、書き残しておこうと思う。


連休中より前から、ずっと長い間、気になっていることがあった。
自分の仕事というか、今の仕事の前提となっている環境の姿そのものが、大きく変わりつつあるということだ。
それも、ここ最近は、年々その変化が、早く激烈になりつつある。

大袈裟に聞こえようが、これは、まさに天地を揺るがすかのごとき、大異変だ。
ただ、地震などといった物理的な自然災害のことではない。
もちろんそれらも怖いが、ある意味、もっとコワイものだ。

何といって例えればいいか。

今現在の、自分が生きるこの社会の常識と言おうか。枠組みと言おうか。
うん、とりあえずここでは「枠組み」といおう。
それが、根底的に変わりつつある。


地震が来てしまったら、どんなに愛着の染み込む土地であっても、場合によっては立ち去らざるを得ない。住処を変えるしかない。
社会の枠組みってやつも、同様だ。
今までの「当たり前」という基盤が揺らいでしまったら。
どんなにそこにい続けたくても、いやおうなく、立ち去ること、自分の立ち位置を変えることを強いられる。

大袈裟なように聞こえるかもしれないが、それほどの大地殻変動が、
この日本の社会で起こってる。

これは、目に見えてわかる瞬間がわかるかといえば、そういうものではない。
むしろ、目に見えた時は、「手遅れの時」だ。
自分を飲み込む大波は、呑まれる瞬間よりもっと前の時期にすでに発生している。
目の前に押し寄せて、気がついた時には、もう逃げきれない、間に合わない。
物騒な例えになってしまったが、社会の変化においても同様のことが言える。


投資の話で例えよう。
現政権になる前から、新NISA制度がブームになる前から、すでにNISAはもとより、投資信託という銘柄はとっくにあった。
多くの人々が大して注目してなかっただけのことだ。
つまり、「旬」でいうならば、「走り・盛り・名残」でいうところの「走り
」に、多くの人間は気付けてなかったというだけの話だ。

もう一つ例をあげよう。
ミニマリズムや捨て活もそうだ。
今でこそブームだが、今、第一線でミニマリストとして活躍するインフルエンサーは、すでに10年前から、その価値に気づき、活動し始めている。
世間の目というか認識が、ようやく今になってそこに追いついただけの話だ。
つまり今やっと「盛り」が訪れただけだ。
旬の「走り」はすでに10年前に現れている。
多くの人が気づいていなかっただけだ。


このように旬の「走り」というものは、なかなか気づきにくかったりする。
あるいは、気づいていても、疑っていたりする。

「自分の、気のせいなんじゃないか」とか。
加えて、周囲の理解が追いついていない。だから反対されることも当然多い。
そんなうちに、自分も自身の勘に対する確信が揺らぐ。
「気のせいなんじゃないか」とか。だから行動を起こせない。

しかし、分かれ目というのは、まさにここだ。

賢者は、すでにここで確信を持つ。
そして、静かにであれ、行動を起こす。

かといって、もちろんいきなりミニマリストでござい、投資でございと、打ち上げ花火をあげて、その時点ではまだ荒唐無稽にも見える未来像を、騒ぎ立てる人間はいない。
仮にいたとしても、それは早計とも言える。
なぜなら、時を読んでいないからだ。
その結果、当然ながら既存体制のもとにある周囲と、余計な摩擦を起こしがちになる。
長い目で見れば間違ってはいないのだが、自分が利益を得る前に燃え尽きてしまってはもったいない。
無駄な衝突や徒労は、かわせるものならかわすに越したことはない。


だからこそだ。

自分がこれだと確信したものは、
早く、そして静かに、
準備を、駆け出しを、仕込みを、始めておくことだ。

そう、静かに、だ。
いちいちそれを今、騒ぎ立てなくても良い。
理解者などは、今は無理に増やさなくても良い。
時がくれば、いずれ自ずと現れよう。
自分の読みが正しければ、いずれ時代が自分に追いつくからだ。

そして、誰の目にもその予知がはっきり形として現れるようになった時を迎えたら。
それこそまさに、機が熟した時。勝負の時だ。
大きな決断・行動に移しても、それほどの摩擦は生じないであろう。
声にあげるのは、それからでも遅くはない。
この時点で、一つの面白い傾向がある。
他人から見たらその決断の瞬間が「その場の気まぐれ」に見えてしまうことだ。
だが真実は、
決してそうではない。
賢者は、もうすでに数年前に準備をしていた。待ち構えていた。
それを世間や大勢が知った今、賢者はすでに準備万端だ。
今からあわててかけ出さなくても、もうすでにゴールラインの間近にいる。


しかし、これがいうは易しだ。
実際は、なかなかできない。難しいものだ。
特に、大きなアクションは、早すぎても遅すぎてもだめだ。
遅すぎる鈍感さについてはいうまでもない。
よく勘違いしがちなのは、「早すぎる」先走りしすぎのケースだ。
自分の確信のなさや弱気が「味方を増やそう」という焦りとなり、そこから変に先先走ったり、騒いだり、かけずり回ったり、というケースもある。
そういう人間は、「溜め」とか「間」というものの価値を知らないのだ。


最初の話に戻って、まとめとしよう。

私が賢者か愚者かは、終わってみなければわからない。
大した確信があるわけでもない。
「本能的に」「直感的に」感じた、というくらいしか、根拠は見つからない。
きわめて説得力に欠ける、恣意的な言い方でしか、今はできない。

今、遠い未来のことの如く語られている社会の激変が、
思っているほど遠くないうちに訪れることを、確信し始めている。
それが具体的に何なのかは、また折々、紹介しよう。
ともあれ、本能的に、いよいよ準備を始める時だ。
というか、この連休のおかげでいいスタートが切れていると思う。

心の中で、「さあ動かねば」と青信号が灯る時期が、刻刻と近づきつつあるのがわかる。
はっきりいって自分でも、こんな辛い決断をしなくてはいけないのか、という躊躇いもある。冒険だな、とも感じている。
でも今、身支度を始めねばならない。それは間違いない。
今そこから目を逸らしてしまったら、もっと大きな苦難に陥るだけだ。

臆病で腰の座らない私ではあるが、
「しぶとく食い下がるしかないなぁ」
と、覚悟や諦めや淡い期待といった
何とも言えない重たい感情が入り混じりつつ、
そう決意している。

2024.08.17

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