どこまでも泳いでいきたかった、あの頃。
泳ぐこと自体に、直接の意味や生産性なんてないはず。
また、人間はマグロでもイルカでもない。
別に遺伝子に「泳ぎたい」本能が刷り込まれてるわけでもない。
なのに、なんだろう。
あの「どこまでも泳ぎ続けていたかった」情熱は。
最近、このnoteでも、ランナーさんやライダーさん、トライアスリートさんの記事を、特に多く見かけるようになってきた。
そういえば、そんな季節だ。
国内のトライアスロンも、9月ってメジャーな大会が結構あった気がする。
マラソン関係も、秋から冬の方が、大会が充実してた覚えがある。
懐かしいなぁー。
トライアスロンにハマってた昔。
何百万円かけただろう。
どれほどの練習時間を投じただろう。
その後、ヒザとお金(笑)のことを考えて、オープンウォータースイムの方に特化していったけど、あの夢中だった頃は、やっぱり楽しかった。
しかし、そのオープンウォータースイムでさえも、今はご無沙汰だ。
今は、マラソンスイミングっていうのかな。
今住んでる街は、海は近いけど、泳げない海だ。
だから、海でスイマーさんたちに出会うこともない。
出会うのは、プールだけ。
けど。
海で泳ぐ人たちの写真とか見ると、今でも何だかワクワクしてしまうんだな。
はて、あの頃の情熱は、いったい何だったんだろう。
どこまでも泳ぎたい。
仕事がなくなっても、金がなくなっても、それでも泳ぎ続けたい。
泳いだまんま、命尽きても後悔はない。
そんなことばかり、ずっと考えてた。
今振り返ると、ずいぶん不遜にも思える衝動だが。
ともあれ、そんな思いで、海通いをしていた頃もあった。
だから。
海の楽しさも、それ以上の怖さも、海そのものに教えてもらえた。
本気で海に思いをかけたことのある人間なら、悟っていることがある。
「人間は、海と戦うことなんかできない。」
「海と格闘する」なんて、どっかの広告が歌いそうなコピーだが。
そんな、気取ったオシャレなものではない。
むしろそんな言葉には、人間のエゴ、傲慢すら感じる。
そもそも、海は、戦う相手どころじゃない。
海は、その瞬間、陸のものを受け入れ、許してくれてるだけだ。
大自然の一部をちょっとの間、お借りして、一体となり、楽しませていただく。
海に束の間、抱いてもらってる。
私のような大の大人でも、海にとっては赤子どころか、微生物のようなものだ。
そういう感覚に、自然となる。
しかも、ここはあくまで先住民たちの場だ。
仮に運悪く、サメやエイ、毒魚や猛魚に襲われたって、文句は言えない。
元々は、彼らの故郷であり、テリトリーなのだから。
そんな危険性は、つねに、いつだってある。
実際私の泳いでいた浜にも、シュモクザメが打ち上げられていた話を聞いた。
アカエイなどは、浅瀬の浜に普通にいっぱい見えた。今はもっと多いかも。
だからこそ。
泳いでいる最中は、常に緊張していた。安心感や楽しさとともに。
少しでも高波や雷、不穏な気配があったら、冒険はしない。
謙虚に、素直に、引き下がる。
海での練習計画はただちに取りやめる。おとなしく岸へ上がる。
それが、海への敬意。
嗜みであり礼儀だ。
それも自ずと体得した。
逆に、満足するほど泳げた日は、
「今日も無事に帰ってこれた」と、岸に上がった時、自ずと感謝の念が湧く。
そういう経験を重ねたことのある者ににとっては、
海を、格闘の対象だの敵だのだなんて、とても言えない。
おこがましいことだ。
教え込まれた流儀じゃない。自分で、そう悟るようになる。
いつも、海に「許してもらえていた」のだ。今でもそう信じてる。
これは、泳ぐ人間だけではないだろう。
サーフィン、ダイビング、そして漁業。
きっと似たような思いを抱く人も、多いことと思う。
ま、そんなことをあれこれ。
日々妄想しつつ、泳ぎまくっていたあの頃。
どこにいったのだろうな、あの情熱は。
自分でもわからない。
でも、今もまだなお、海にのぞむ人々の姿を見ると、
自分の中の本能というか、眠っている感覚が、ほてりかうずきのように蘇る。
時々、海の近くに行くと、今でも思ってしまう。
「私も、このまま飛び込んでいきたいなぁ」なんて、とんでもないことを。
スイマーの業であろうか。
2024.9.26
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