大河ドラマ『麒麟がくる』にみる、私たちの物語の読み方
先日、明智光秀を主人公に描かれた大河ドラマ『麒麟がくる』が最終回を迎えた。これまでは、明智光秀といえば謀反人、裏切り者であると広く認知され、さまざまな映画やドラマでもそのような描き方をされてきた。しかし、今回のドラマでは、あくまで明智光秀の視点から物語が描かれ、多くの人のこれまでの常識を良い意味で裏切ったことだろう。
僕はこれまで、好きな戦国武将といえば真っ先に明智光秀を挙げていた。それは、多くの葛藤に苦しんでいたという共感とともに、今でいう、「仕事がデキル」という優秀さ、さらには領地の善政を行い、多くの家臣や領民から慕われていたという人間性において、個人的にあこがれを抱いてきた。
さて、今回のテーマは、私たちが物語をどのように見ているのか、ということで話をしてみたい。まずは、ハリウッドを代表するアメリカの映画やドラマといわゆる日本的な物語との違いをみてみたい。アメリカを代表する物語は、まあいわば悪役が存在しないと物語として成り立たない。また、自然災害などから大事な家族を守るというヒューマニズム的な視点で描かれる物語が多い。そういう意味では、アメリカにおける物語の脚本は非常に単純化された図式であるように思われる。
それに対して日本的な物語はどのような描かれ方をされるか。その前に、日本でも悪役を主人公が苦労の末、やっつけるという物語も存在する。しかし、日本では主人公と悪役という単純な図式で物語を描かれはするが、また違う図式で物語が描かれることも多い。それは、単純に主人公と悪役というだけでなく、悪役である者にも光が当てられるというところがアメリカでの描かれ方と違うところである。
すなわち、特に日本的であるのは悪役にも光が当てられ、なぜ、その悪役がそのような状況に陥ったのか、なぜそのような悪事を働くことになってしまったのかという視点でも物語が描かれる。主人公と悪役のそれぞれの心理的描写とその背景など、緻密に描かれる物語は日本には多いと思う。
特に僕が秀逸だと思うのは、小説家の宮部みゆきさんの、社会派と言われる小説は登場人物それぞれの背景や心理的描写をこれでもかと緻密に丁寧に描かれる印象をもっている。そのような物語を読んだあと(観たあと)は、なんとも言えない気持ちになる。そのようなことが、今回の大河ドラマでもあった。それは、主人公である明智光秀と主君でありながら最後には、その主君を討たなければならなくなった苦しみ、また、織田信長の心理的描写はこれまでの物語にはなかった斬新さがあった。観ている私たちからすれば、その両方に感情移入を自然とさせられ、見終わったあとの何ともいえない寂しさというものを感じるのは、一般的なアメリカのハリウッド映画ではまず感じられない。
ではなぜ、私たちは主人公のみならず、その敵役である登場人物にも感情移入をさせられるのだろうか。確かに、その脚本のすばらしさもあるが、どうやらそれだけではなそうである。そこには、私たちの思考傾向の違いや自己観の文化的な違いがあるということのようである。
くわしく説明すると、まずは思考傾向の違いであるが、日本人である私たちアジア圏に住む人たちと欧米の地域に住む人たちとの考え方の違いがあるというのである。それは、欧米の人は物事を、いわゆる一番目立つ中心にあるものをまずは見るということ。対してアジア圏に住む私たちは、一番目立つ中心的なものだけでなく、その周囲にあるものも同時に認識しているということである。
「ミシガンフィッシュ」という実験があって、水槽の中で数匹の魚や水草、貝などが描かれている一枚の絵に対して、欧米人は真っ先にその中心に描かれている大きな魚をまずは認識するという。対してアジア人は、一番大きな中心の魚というよりも、その周りの水草や水槽の中の様子が描かれていることなど、欧米人の認識とは大きく違う見方をしているということがわかった。
このように、私たちが物事をどのように見て考えているかということを、心理学では、欧米的な見方を分析的思考、アジア的な見方を包括的思考とよばれている。そういう意味で、アメリカ的な物語の描かれ方は、分析的思考傾向からくるもの、日本的な物語の描かれ方は包括的思考傾向からくるものと考えれば納得が得られるのはないだろうか。
また、物語の描かれ方、見方の違いは思考傾向の違いだけでなく、私たちの自己観の違いも関係があるようである。自己観というのは、自分が自分自身をどのように見ているのかというようなもので、ここにも地域的な文化の違いがあるようである。「Twenty Statements Test」(Who am iテスト/20答法テストとも)で、「私は、」から始まる分を20答えてもらう実験で文化的な違いがあるという。欧米人は「私は」から始まる文の多くに自分の性格的なことや自分の今の役割など、自分自身にまつわる内容のものが多かった。それに対してアジア人では、家族の一員であることや、所属している学校や会社での立場など、他者との関係における自分というものを書くひとが多かったというのである。
すなわち、欧米人は自分自身は他者とは切り離された形で自分像をみているのに対して、アジア人では自分と家族も含めた他者との関係性は完全には切り離されず、その関係性を重視した形で自分像をみているという違いがあるようである。それを心理学では、欧米的な自己観を「相互独立的自己観」、アジア的な自己観を「相互協調的自己観」という。
このようなことを踏まえて、物語がどのように描かれ、その物語を私たちがどのように見ているのかということが、少しわかったような気がする。そういう生まれもった生得的なもの、生まれ育った環境やその思考傾向、自己観の違いから双方相いれない部分が多分にあるように思われる。相互独立的自己観で分析的思考傾向の欧米人が、相互協調的自己観で包括的思考傾向のアジア的な物語を描くことはそう簡単ではないように思う。もちろんその逆もしかり。また、物語の見方感じ方についても私たちアジア人と欧米人とは全く異なるものである。
アメリカ映画ではその中での子どもに親が「ヒーローになろう」などと語りかけることがある。確かに私たちもヒーロー(ヒロイン)にあこがれはある。また伝統的な歌舞伎や時代劇においても、いわゆる勧善懲悪が好まれる傾向はある。そういう意味でも、完全に杓子定規で測ったような考え方はできないが、やはり私たちは、いや少なくとも僕は、どちらかと言えばより日本的な描かれ方をされる物語が好きである。
でもなぜ、少なくとも僕はこのような嗜好性があるのかを考えたとき、幼少のころの物語が関係しているのではないかと思う。その物語は、たぶん皆さんご存じの『ごんぎつね』である。『ごんぎつね』を読んで小さいながらに悲しい気持ちになったことを今でも鮮明に覚えている。そのような教育的な視点も関係しているのかもしれない。
今回は、大河ドラマ『麒麟がくる』を私たちはどのように見て、どのように感じたのかを客観的に心理学の知見をもとに考えてみた。そこには、思考傾向や自己観の地域文化的な違いが大いに関係していることを再認識させられ、非常に興味深いことでもあったため、今回あえてここに書いてみることにしてみた。
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