『「〈悪の凡庸さ>を問い直す」を問い直す』という本を読み始める前と読み始めてから
今、『「〈悪の凡庸さ)を問い直す」を問い直す』(大月書店)という本を読んでいます。これは、ハンナ・アーレントがアドルフ・アイヒマンを形容する言葉として用いました。アイヒマンはホロコースト(大量虐殺)の首謀者とされた人物です。
凶悪なホロコーストの実務者であったアイヒマンを人々はどれだけ狂暴で凶悪な人間なのだろうと、その人物像を想像していたのですが、法廷に現れたその姿は仕事ができそうにない冴えない小役人風でどこにでもいるありふれた姿だったわけです。それを見たアーレントが〈悪の陳腐さ(凡庸さ)〉として表現したのです。
そういう私の中での基礎的な知識があった中で今読んでいる本に出会いました。そしてかなり戸惑いました。
「凡庸さを問い直す」とはどういうことなんだろうと。
私たちは他者の行動の原因を内面的特性に帰属させる傾向があります。これを基本的な帰属エラーといいます。しかし、「権威への服従実験」(スタンレー・ミルグラム)でも問われた通り、私たちは気づかないところで「状況の力」に大きく影響を受けています。
凶悪な犯罪者であったとしても、その見た目、風貌はごくありふれたものであり、必ずしも犯罪者然とした見た目とは限らないということです。しかしながら、内面的特性を重視し、「状況による力」という外的要因を軽視しがちな心理的バイアスによって、日々他者を評価し、対人認知の判断を私たちは行っているのだと考えられます。
しかし、この本を読み進めるうちに、少しずつ「悪の凡庸さを問い直す」という、その真意がぼんやりとでも見えてきました。
それはアーレントとホロコースト研究者の間で認識の相違があることです。アーレントは、アイヒマンのことをあくまで上からの命令に忠実に従っただけという供述から、どこにでもいる冴えない小役人という「凡庸な人物」と見ていたのに対し、ホロコースト研究者の間では、アイヒマンはむしろユダヤ人の排除のために積極的に主体的に取り組んでいたとしています。「凡庸さ」という表現がむしろ、前代未聞な国家組織的犯罪であるホロコーストの残忍さ、凄惨さを軽視させてしまっていると批判しているようにと書かれています。
しかしながら、一般庶民からすれば、アイヒマンのことをあくまでホロコーストの首謀者とはしながらあくまで官僚のひとりという見方くらいがせいぜいなところです。これは、凶悪な犯罪者に対しての見方でもそうです。外的側面を軽視するバイアスのために、その人の置かれている状況要因を探ろうとするのはエネルギーを要することです。したがって、私たちは内的側面をもとに人を判断し、見た目で人を判断しているのではないでしょうか。
ここまでくると、たとえ凶悪な犯罪者であってもその風貌、見た目はごくありふれた冴えないものという固定観念にむしろ大きく影響を受けていたようにも思います。ちょっと、自分の中で戸惑いがあるのですが、少なくとも、私たち人間の行動の原因を探る際、個人特性のような内的要因よりも、外的要因である「状況の力」による影響を強大に受けていることには変わりないようにも思います。そういう社会心理学的視点は変わらないのかなとも思いました。
今は途中までしか読んでいませんが、さらに読み進めることでもっとより鮮明にさまざまなことがわかってきそうです。
今回はここまです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。