「ある」の恐怖
私は以前、『〈ある〉の体験について』という乱暴かつ支離滅裂な記事を書いたが、今回それを訂正する思いで書きたいと思う。先ずはその原因となる出来事から。
私は交通事故で、後頭部の右上方をアスファルトに打ちつけ、その丁度反対側の左脳前頭葉及び眼窩面を損傷した。それによって生じる障害云々はさておき、その領域を損傷すると、私の場合は、幻覚や発作など、慢性的ではなかったにせよ、普段起こり得ない非日常的な出来事が起こった。「ある」の恐怖も、そのうちの一つである。
退院後、私は脳を損傷する以前は関心すら湧かなかった芸術的映画作品を鑑賞し、読めるはずもない研究書や小説を読み、そして、衝動的に何かを書こうとした。だがその一方では、放心状態に陥った時間が一日の大半を占めるような日々を過ごしていた。そんなある日のこと、何をすることもなくただ茫然とソファーに座っていると、突然、地震の前触れのような感覚(ざわめき)が心臓部辺りに生じ、戦慄が走った。そして、恐怖を感じながらゆっくりと立ちあがるときに、体内から何かが抜け落ちる感覚に襲われ、立ち止まった状態で、恐る恐る、「ある」と(何が「ある」のかを知らずに)言った。
そして、部屋の隅に置いてある椅子に座った私は頭を抱え、「ある。ある。」と二度、声を震わせながら言った。
このような非日常的な出来事を体験すると、通常は、誰かに話したり、無我夢中に調べたりすると思うのだが、認知機能の低下の影響なのか、私はその日のうちに忘れ、そして何年もの間、記憶の奥底にしまい込んでいたのである。そんななか、とある書店で、リトアニア出身のフランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスが、第二次世界大戦のさなかドイツの捕虜収容所内で書いたとされる『実存から実存者へ』(ちくま学芸文庫)に目を通していると、その出来事は、まるで昨日あったかのように、鮮明に呼び覚まされた。レヴィナスは述べる。
恐怖のなかでは、主体はみずからの主体性と私的に実存する能力を剥ぎ取られる。主体は非人格化されるのだ。[…]恐怖は、主体の主体性、「存在者」としての個別性を覆してしまう。恐怖は〈ある〉への融即である。
この恐怖を、上述した「ある」の恐怖にたとえて言えば、「ある」のはこの体である。だがしかしこの体は、「私」の体ではない。言い換えれば、存在するのはこの体すなわち物質であって、「私」ではない。言語や思考、そして主体が司る「私」は絶対的な否定に追いやられ、世界から切り離されたのだ。
「我思う」が一瞬にして消滅する、まさにそのような「ある」の恐怖体験を、私は無気力や不眠が伴うトラウマ(フラッシュバック)、あるいは心的外傷後ストレス障害(PTSD)と思っている。
米国マサチューセッツ州ブルックラインにあるトラウマセンターの創立者ベッセル・ヴァン・デア・コークは、『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』(紀伊國屋書店)において、「心的外傷後のストレスは、実際に命を脅かされる経験をしたこと(あるいは誰かの命が奪われるのを目撃したこと)に基づく、中枢神経系の根本的な改変の結果であり、(自分は無力であるというふうに)自己の経験を変え、(この世はすべて危険な場所だというふうに)現実の解釈を変更してしまうのだ」と述べている。戦争や虐待など過去に起きた禍が現在に侵入し、「私(自我)」を脅かす。レヴィナスが『実存から実存者へ』において、「自我と呼ばれるものそれ自体が、夜に沈み、夜によって浸蝕され、人称性を失い、窒息している」と述べているように、トラウマ(「夜=ある」)は自我の喪失と結びついている。
(これに関連することを、また別の記事に書きたいと思う。)