プライドとは捨てるもの、そして。
ちょっと書いていませんでした。いい加減に書くようなネタがなかったといいますか。
仕事のこともちょいちょい書きたいと思いながら、結構狭い世界の話だったりもするので、直近でそんなことを書くと色々問題があってもやだなぁ、みたいなこともあったり。
技術のお話を書くにしても、最先端の技術をやっているわけでもない自分としては、技術ブログみたいなのも、なんだか違うなーとは思います。
今の自分は、プログラミングを教える仕事、と以前書きましたが、ちょっと特殊なところで、就労継続支援という、主に身体・精神に障碍のある方を中心に社会復帰を目指す人や、あるいは正常な社会復帰が困難な人たちに、学びや労働(というか作業)の場を提供する施設で、主に会社にプログラマ・Webエンジニア・デザイナとして復帰したい人に教えている、ということをやっています。
まぁそんなことの話は、いずれおいおい時間が経ってからできる話もあるかなと思ったりもしています。
それとは別に感じることなのですが、自分自身も含めて、学習をする、という立場になると、やはり問題となるのはプライドという問題。年齢に限らずプライドというのは、学びにおいては難しい問題だったりしますね。
自分よりも年配の方に教える場合はもちろん、若い方でも、このプライドというのは顔を出す。そんなことを感じますね。
学びの場所において、プライドというのは、私の偏見なのですが「百害あって一利なし」というところもあるのかなと思います。というのは、以前これは私自身がリワークにいた頃に言われたことがあるのですが、そこで自分自身の病気や疾病にたいして振り返りをしているときのことなのですが、自分の親くらいの人から「君はプライドの高さが見え隠れするので、それで苦労するだろう」と予言めいたことを言われたことがあったのです。
自分自身で、それを少しばかり自覚していることもあったので、そういう相手には正直に聞いてみました。少なくともそう見えていて、そうアドバイスをくれるということは、少なくとも有益な意見はもらえるだろう、と。
そうすると、相手は少し考えた挙げ句
「プライドは捨てなさい、ただし、誇りは捨ててはいけない」
と言われたんですね。
この違いを理解するのに数日かかったのですが、プライドは確かに、自分をよく見せる行為・よく見られたいと思う行為で、リワークという施設で自己の見直しに来ている以上、そんなところではそんな「見栄」のようなものは意味がない。みんな同じような心の病で来ていたり、悩んでいる中で、プライドなんて、役に立たないどころか下手したりすると「自分はこういう人とは違う」という見下しにも繋がり兼ねない。なので、害悪になる可能性もある。
でも、だからといって「誇りまでは捨ててはいけない」というのも良かったですね。「誇り」というのはそれまで頑張ってきたという「過去に対して自分が成し遂げてきたこと」堂々と誇ることは大事。それがなくなると、卑屈になってしまう。それはそれで、人間が歪みますし、長い人生にいいことはない。
プライドは下手をすると簡単に傷つけられるけれど、誇りは傷つけられないし、人のそれを傷つけてはいけない。
この言葉は、リワークに通い始めて早い時期に聞いた言葉で、ここでうまく過ごす助けになった記憶があります。
ただ、頭で言い聞かせても、身体に染み込ませるのには時間がかかり、復職しても、しばらくはこの「プライド」に縛られていたせいか、何度も心身を壊したことが、その後もありました。
それまでは「一線のプログラマ」にこだわってきたのも、プライドの故かもしれません。
今の仕事は、業界的には福祉業界の職業指導員というポジションになり、そのプログラミング講師というのも、やっと「現場のエンジニア」というプライドから卒業できたから、その仕事も受け入れられるようになった気がします。そして、別にその仕事をしているからといって、今までの20年以上、色々なシステムをこなしてきたという「エンジニア」としての「誇り」は堂々と言えるのも事実なので、やっとこさ、この「プライドを捨てて、誇り高く生きる」というのに、少し近づけられたような気がしています。職場じゃ若い人たちに「PCに詳しい便利使いされているおっちゃん」ですけどね。