【アーサナの行き着く先】師匠と巡業中の気づき
(過去のInstagram投稿から引用)
九州から師(@zuddhalotusyoga)について長野→葉山→東京と2週間の巡業中。🚗
今までできなかったアーサナが、特に意識せずとも勝手にぽんぽんとできるようになる日々。そこで今日クラス中、おや?と気づいたことがある。
身体的な練習はやればやるだけ素直に結果がでる。
定期的にやればほんとにすぐに成果が出る。
(食事法や早起き、瞑想と一緒にやれば特に)
そしてできちゃうと、あっけない。ああ、意外とこんなすぐできちゃうんだ。
(「できる」にもいろんなレイヤーがありますが。例えばそのポーズで1時間瞑想できるのか、とかね。)
どちらにしても、はいじゃあ次レベルいきましょう、みたいな感覚に陥る。
これって消費と同じじゃん。
あんなに欲しかったものも、手に入った途端に束の間の満足。そして1か月後には他のものが欲しくなってる、みたいなあれ。
で?
難しいと言われるポーズができたからなに?
もちろんまだまだできないポーズたくさんあるけど、
アーサナプラクティス”単体”のたどり着く先、限界が見えた気がした。
出来るアーサナが増えること自体に本当の喜びはない。
でもね、
たしかにアーサナが深まれば深まるほど、心と身体とエネルギーのコンディションはどんどん良くなっていく。
集中力も増すし
精神も強くなるから、
仕事や家庭、日常すべてにおいて生きやすくなる。
そして世の中にはアーサナ中毒者がいっぱいいるという現実も、スタジオという環境でのアーサナクラスを体験してみて理解できた。
ナチュラルハイになるし、
この心地よい感覚を味わいたくて「もっともっと!」ってなるのが人間の性だし、
周りから褒められて自信がついたり、
実際肌も目も綺麗になるし、
物質的な観点でいったらいいことしかない。(笑)
だから一般的に“ヨガ”と認識されているアーサナのプラクティスには、いとも簡単に人のエゴを膨張させていく危うさもある。
だけど!
今日、きついクラスで汗だくになって瞑想状態に入って練習しているとき、
ふと、
「この身体は、私が楽しむためにあるんじゃない」
って、身体が言ってきたのを感じた。
ヨガは、”私”が深いところで感じる至福の感覚を楽しむために存在するんじゃなくて、
私がより純粋な状態に戻ることで、
その純粋さや至福、明晰さを持って世界と関わり、
捧げるためにあるんだって。
だから練習で
「私が楽しい、
私が気持ちいい、
私の感覚がクリアになる」
で終わらせちゃいけなくて、
肝心なのは、練習で磨いているこの素晴らしい身体を
どう使うか、ってところなんだと。
「アーサナはヨガをするための準備段階であり、アーサナがきちんとできて初めて本当のヨガが始まる」
こういうことは哲学の通訳でさんっざん話している内容なんだけど、知識として知っているのと、体感として魂から湧き上がるのとは、当たり前なんだけど全くもって理解の深みが違ったから自分の言葉で残したかった。
📝
思えば英語もそうだった。
楽しいから勉強しまくってたら気づいたらペラペラになってて、で?ってなって。
英語できるようになったはいいけど、その英語使って何をするの?って。
ずっとその使い道に迷走していたけど、いまは何千年も伝わるヨガの叡智をたくさんの人にお伝えするという通訳のお仕事をさせていただけている。
そのお仕事を通して自分も周りもものすごいスピードで良い方向に変化していってるのを肌で感じる。
普段はオンラインでの通訳だけど、今回ツアー中、生でヨガ哲学やヨガクラスをいろんな場所でシェアしてみて、そこに触れた人の意識が確実に変わっていっている手応えがある。
やっと英語というツールを自分の納得がいく方法で使えるようになってうれしいし、
しばらく学んでみて、身をもってその偉大さが証明されてきているヨガという生命科学も、いずれ、心底伝えたい方法で伝えられる日が来るんだと確信してる。
そんな、ツアーに出てきて5日目の気づき。
生で会う、体験するってやっぱりすごいパワフル!
明日から葉山、東京と参りまする。
@zuddhalotusyoga
東京のワークショップ
@yogavanatokyo では、
身体的な練習(アーサナ、クリヤ)
呼吸法(プラナヤマ)
哲学、ヴェーダの知識(サットサンガ)
キールタン(献身、愛、バクティヨガ)
さまざな角度から伝統的なヨガを行います
興味のある方、see you there!
Peace
(過去のInstagram投稿から引用)