見出し画像

生きているうちに「日記」を処分する事、それは「親」としての「務め」なんだと気付く#未来のためにできること

現在、アラ還の私は、10代の頃から、「大学ノート」に日記を書いてきた。

学生時代は、ほぼ毎日書いていたけれど、大人に成ってからは、忙しかったり、余裕がない時は、月に1日ぐらいとか、もっと間が空いて、数年、書かない時期もあった。

それでも、「大学ノート」は、何冊もあるわけで・・・

とにかく、「書く」ことで、自分の気持ちを、私は収めてきたのだと思う。

誰か見せるためでは無く、ただ「書く」ためだけに書いた「日記」だ。


そもそも「日記」というのは、自分のためだけであって、絶対に見られたくないモノというのが、私の認識だ。


だから、インターネットができて「ブログで日記を書く」という事が行われるようになった時、さっぱり、その「感覚」が分からなかった。

でも、今、自分が、こうやってnoteに文章を書くようになり、時代の変化?、自身の進化?を感じている。


気持ちを「収めるため」に書いた「誰にも見せない」文章は、時に「感情的」だ。

そして「言葉使い」も、「文脈」も、ひどかったりする。

 

これまでの人生、波乱万丈な出来事は、いろいろあった。
「綺麗ごと」だけではないのが「人生」だ。

その全てを、憶えている訳では無い。

でも、それでイイ。

忘れているから、今が幸せだったりする。
娘たちとの関係も、穏やかでいられる。

穿り返す必要は、無いのだ。

だから、自分の「日記」をちゃんと「処分」して、この世を去る事は、まだ生きている私の「親」としての「務め」かもしれないと思った。

先日、「へんいちさん」のこの「記事」を読んで、私は、もの凄く考えさせられた。


暑い中、作業を始めた。


「日記」は、どうしても、パラパラと読み返してしまう。

キリが無い!

「日記」に書かれた、思い返さなければならない「過去の出来事」は、きっと「メッセージ」として、今の自分に、必ず届くはずだ。

だから、大丈夫。

見落としなんか無い!
自分の仕分けは正しい!

そう思いながら、坦々と作業をする。


ゴソゴソやっていると、過去の「領収書」も、律儀に残されていている。

こんなに,一所懸命、払ってきたのか…「領収書」だって、立派な「私の過去」だ。

そこから捨てていく。

今回は、「日記」より、明らかに「領収書」の方が多いけど、まぁ~いいか!

「紙袋」にまとめて、それを「ガムテープ」で、ぐるぐる巻きにし、それをさらに、「スーパーの袋」に入れ、最後「指定ゴミ袋」に入れた。

時間が掛かっても、「日記」は、ちゃんと「処分」しよう。

「自分の過去」を、ちゃんと整理して、跡形も無く、この世を去ることが出来たら、カッコイイのに~と思っている。


よろしければサポートお願いします! 頂いたサポートは、「刺繍図書館」と「浪江・子どもプロジェクト」の運営に使わせて頂きます! サポート頂けたら、大変助かります。