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東京・浜松町に「伊藤尚文舎」という「活版印刷屋」があった ~祖父の人生
私の「母方の祖父」庄吉さんは、東京・港区で、大正時代から「活版印刷業」を営んでいた。
その屋号が「伊藤尚文舎」(いとうしょうぶんしゃ)
東京のど真ん中に、「伊藤尚文舎」という「活版印刷屋」があって、
そこに私の「祖父の人生」があった。
※サムネイルは、今年、私が撮影した「愛宕神社」から見た東京タワーです。
◆庄吉さんは、いろいろあって、上京をした。
私の母方の「本家」は、長野県長野市にあった。
庄吉さんの父「茂七(もしち)さん」(私の曽祖父)は、1877年(明治10年)に勃発した「西南戦争」で徴兵された。
母の話によると、当時、同じ地域から徴兵されたのは、「茂七さん」一人だった。
茂七さんは、配属された四国の「丸亀城」で、石垣を踏み外しケガを負った。
そして、その傷がもとで、40代で亡くなった。
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母の話からの情報であり、茂七さんの配属が、何故、香川県の「丸亀城」だったのか、西南戦争の歴史的背景の説明はご容赦くださいm(__)m
次男だった「父親(茂七さん)」が亡くなった後、残された「次男の嫁」である庄吉さんの「母親」は、「本家」を牛耳っていた「長男の嫁」から、かなりの意地悪をされたらしい。
特に「財産」に関して、嫌がらせを受け、それに憤慨した庄吉さんは、「本家」との縁を一切、切って、東京に出てきた。
上京後、庄吉さんは、「毎日新聞」の前身である「東京日日新聞」に勤めた。
その後、弟(久平さん)も「東京日日新聞」に勤めることになる
久平さん(母の伯父)は、「俳人」でした。
俳号は「伊藤素好」(いとう そこう)
当時、東京日日新聞社が、公募した「俳句」の大会でも、「賞」を頂き、俳人としての才能を開花させたそうです。
結婚はせず、若くして亡くなり、この「久平おじさん」のことを、幼い頃「可愛がってもらった」と母は、懐かしそうに話します。
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俳句と「素好」の俳号が、書かれている。
◆「伊藤尚文舎」設立~そして「関東大震災」
庄吉さんは、新聞社を退職すると、自宅があった愛宕(東京都港区)に「活版印刷・伊藤尚文舎」を構えた。
事業は、順調だった。
親戚の話では、当時では珍し、立派な「木造2階建て」の家を建てられるほど、羽振りが良かったようだ。
ところが、大正12年(1923年)の「関東大震災」で、「自宅」兼「印刷所」を失う。
この時、木造2階建ての「立派な自宅」に、両サイドの家が、寄っかかるように倒れ掛り、つぶれたというのが、親戚の話だ。
さらに「関東大震災」の被害の全貌をまとめた「冊子」を「伊藤尚文舎」が発行し、それが、飛ぶように売れたという話も、親戚から聞いた話だ。
いったい、どんな「冊子」なのか、気になり、
ある日、ふら~っと入った都内の「古本屋」で、
「伊藤尚文舎」が発行している「関東大震災」関係の冊子ってありませんかね~?
と、聞いてみた。
店主によると、
「関東大震災」関係の冊子類は、当時、沢山発行されているため、
「発行元」を特定するのは、困難と言われた。
それでも、
「もし、見つかれば、連絡しますよ~」
といてくれたので、
私は、自分の「電話番号」を置いてきた。
あれから、5年以上…
未だに、連絡は来ない。
◆「東京・芝区浜松町」に移ってから
「関東大震災」後、「伊藤尚文舎」は「浜松町」に、移った。
私の母は、ここで生まれ、「空襲」で家が焼けるまで、ここで育ちました。
現在の「旧浜離宮」は、母の遊び場でした。
そして母は「港区立 神明小学校」に通っていました。
その学校は「港区立 御成門小学校」と統合という形で、1995年に廃校になりました。
浜松町に移った後も、事業は、それなりに順調だったことが、「母の話」から伺われる。
母が話す、こんな話がある。
母が幼い頃、近所の家で「お味噌のおにぎり」を、初めて食べた時、
「なんて、美味しの~!」と思ったそうだ。
この時、「お味噌のおにぎり」を作ってくれた、近所の人から、
「うちは、こんなものしか無くて…
おたくは、お金持ちだから、
こんなもの食べないでしょ~」
と母は、言われたそうだ。
当時の浜松町は、海が近くて「船」で生活をしている人達も居た。
子どもを学校に登校させると、親は「漁」に出て、子どもが下校する頃、戻ってくるような生活が、戦前の浜松町にはあった。
そんな地域のなかで、印刷事業が順調だった「母の家」は、裕福だったようだ。
ある時、「フランス語の辞書」を「伊藤尚文舎」で、刊行することになった。
この時、うちで作った「フランス語の辞書」は、
こ~んなに分厚くて、
立派な本だったのよ~
と、母は話す。
この辞書を作るにあたり、当時、「築地教会」にいらしたフランス人の神父さんに、色々とサポートして頂いたそうだ。
この頃、既に成人していた母の「一番上の兄」は、家業を手伝っていた。
その兄に連れられ、時々、母は、「築地教会」に行くことがあった。
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教会は戦災に会わずにすみました。」築地教会のホームページから
まだ幼かった母に、行く度に、神父さんが「クッキー」を1枚くれた。
その「クッキー」が、「美味しいんだけれど、とても固かった」と、母は懐かしそうに云った。
◆戦争の影響を受けていく
昭和4年(1929年)生まれの母は、生まれた時から、日本は「戦争状態」にあった。
母の幼い頃の子どもらしい「思い出」の「背景」には、当たり前のように「戦争」があった。
それでも、まだ、「戦争の色」は、濃くなかった。
しかし、その後
日本は「戦争一色」になっていく。
いずれ「召集令状」が、息子たちにも「来るだろう」と考えた庄吉さんは、
それまで、「長野市」にあった「本籍」を「東京・浜松町」に移した。
何故なら、召集場所や配属は、「本籍地」に基づいて決定される。
「ペンしか持ったことが無い人間が、鍬(クワ)や鎌(カマ)しか持ったことのない人間と一緒には、出来ない!」
という考えが、庄吉さんにはあった。
庄吉さん自身が「日露戦争」の「徴兵検査」の時、戦争に行くのがイヤで、わざと「伊達メガネ」を掛けて行き、検査を不合格を企てた人だ。
都会育ちの「息子たち」を心配した「親心」からの「本籍地移転」だった。
◆「伊藤尚文舎」を廃業する
昭和19年(1944年)のこと~
順調に、「活版印刷業」を営んでいた庄吉さんが、戦争の影響を受け、仕事の「一切」を手放した時のことを、母はこのように書いている。
家業の「活版印刷業」について、「父の二の腕」として手伝っていた「長兄」に、行く行くは仕事を譲り、自分は引退するという考えが、父の中にはありました。しかし、この頃、「産業統制法」の影響を受け、父のように「個人経営」の印刷所は、大手の印刷会社(麻布区 山村印刷)に、吸収されることになりました。
たとえ小規模であっても、職人を雇い、自分が経営者としてやってきた父にとって、「今更、この歳(60才)になって、人の下で働くのは、気が進まない」と云って、「廃業」する決断をしました。
その数日後、「鉄製印刷機」1台と、活版印刷にとって、必要不可欠な鉛製の「活字」という道具を、父は、国に拠出することになりました。
「日の丸の旗」を立てた「小型トラック」が、自宅に来て、父が、いつも仕事で使っていた「器具」を全て持っていきました。
その後、息子たちも、次々と徴兵されて行く。
とうとう当時36歳だった長兄にも「赤紙」がきて、横須賀の「海軍基地」に行く事になりました。
この時、「赤紙」を持つ父親の手が震えていた事を、今でも忘れることは出来ません。
廃業を決意したとは云え、頼りにしていた長兄に、「赤紙」が来た時の「気持ち」を、父は、決して口にすることはありませんでしたが、私には十分わかりました。
1944年11月、東京で初めての「空襲」で、自宅を焼失し、
2度目の空襲(1945年5月末)で、全てを失った。
家族で「疎開」することになった時の「思い」を、母は、このように記している。
父は、独立して「これから」という時に、大正12年の「関東大震災」に遭い、家を失いました。
そこから、また、一からやり直し、ここまでやって来て、個人経営の小さな「家業」とはいえ、神田の出版社との仕事も順調になって、息子3人を立派に育て、老後は、息子に家業を譲る事を考えていた、その矢先、今度は、「戦争」で、全てを失いました。
これからどうなるのか、父にとっては、検討も尽きませんでした。
その「疎開先」は、自分が育った「長野市」では無く、「長男の嫁」の「実家」(上田市)だった。
きっと、全てを失った庄吉さんの中に、若かりし頃、「本家」と縁を切り、長野市を離れ、上京した時の「意地」だけは、残っていたのだろうと思う。
◆疎開先での暮らし~亡くなるまでの事
「終戦」は、疎開先で迎えた。
しかし、その後も、疎開先での生活は、継続されていく。
疎開してから、初めての冬を迎えました。
唯一、東京で、空襲の時、焼け出された母の「桐ダンス」に、父の着物(紬、大島等)は、残っていましたが、東京より寒さが厳しい長野で、オーバーなどは、焼失していたので、寒さをしのぐための充分な洋服は、殆どありませんでした。
この頃、父は、家にいる時は、着物を重ね着して、こたつに入って、新聞を読んで過ごしていました。
トイレは外にありましたので、弱ってきた父が、トイレに行く時は、危ないので、母か、義姉が、付き添っていました。
3月、「山羊の乳」を売っている所があり、義姉が、売りに来る時間に合わせて買いに行くようになりました。
そのお乳を父に飲ませたら、「山羊の乳」など、今まで飲んだことが無かった父が「美味いな~」と言って、毎日、飲む事を楽しみにするようになりました。
日に日に弱りながら、娘の「女学校卒業」を目前に、庄吉さんは、亡くなった。
庄吉さんが、亡くなった日のことを、母は、このように書いている。
母から、「一日学校を休んで、父の側にいて貰えないか」と言われ、私は、学校を休み、一日、父の世話をしながら過ごしました。
明日は、学校に、行くからと言うと、父から「芋飴」を買ってきてくれと言われました。
この頃、上田でも、商品を売るお店が出てきて、中央通りに「芋飴」を売る屋台が出ていました。
父から拾円札を受け取りました。「芋飴」は、1本1円なので、10本買えることになります。戦前なら拾円あったら、かなりのモノが買えましたが、戦後、インフレでお金の価値が下がっていました。
私は、次の日、学校へ行き、帰りに「芋飴」を買い、2時30分発の「別所線」に乗り、急いでお寺(疎開先の家)に帰り着きました。
お寺のおばあちゃんが、いつも歩いている道に立っていてので、私は「ただいま」と挨拶をしました。
すると「お父さん、死にやしたぜ」と言いました。
おばあちゃんは、この事を知らせたくて、私の帰宅時間を見計らって、待っていたようでした。
私が「朝、何でもなかったのに…」と言うと、10時ごろ、「目が見えなくなってきた」と言って、静かに息を引き取ったそうです。
お葬式は、疎開先の「お寺」で、執り行われ、「庄吉さん」の遺体は、荼毘に付された。
庄吉さんが、東京で「粋」な生活をしていた人だった事を、母の話で、私は知っていた。
それを思うと、余計に、終戦の翌年、淋しい「疎開先」で亡くなった庄吉さんの「無念さ」「哀しさ」が、伝わってくる。
私が子どもの頃、
「親戚」が集まると、
「伊藤尚文舎」の話になり、
「戦争さえなかったら、
今頃、角川(現:株式会社KADOKAWA)にも負けない、
すごい会社になっていたはずだ~」
とか…
何をいまさら~!!!
負け惜しみを言い合ったりしていた。
あたり前に、パソコンがあって、家のプリンターでも、ちゃんと「活字」が印刷できるようになった昨今、「活版印刷」自体は、廃れた技術なのだろう。
それでも、私が、このnoteという場所で、なんとなく「文章」を書き、「文字」や「言葉」を自分のツールにしているのは、「庄吉さん」のDNAなのかもしれない。
そんな風にも感じるのだ。
※長い記事を最後まで、お読み頂き本当にありがとうございます。
※私は「庄吉さん」に会った事も無く、「おじいちゃん」と呼んだこともありません。でも、母から話を、沢山、聞いていたので、ここに「庄吉さん」の事を書けて、何故かホッとしています(^_^;)
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