「父の体験」とは違う、母の「戦争体験記」から感じる「東京大空襲」の「酷さ」とは~
1945年3月10日の「東京大空襲」を、これまで、いくつかnoteの記事で書いてきている。それは、私の父が、「東京大空襲」の生き残りだったからだ。
※父はすでに他界
母が書いた「戦争体験記」の中にも、「東京大空襲」の日のことが、母の「体験」として書かれていた。
それは当然「父の体験」とは異なる訳で、
1945年当時、女学生だった母は、生まれ育った家(東京・港区浜松町)を空襲で、既に失い、「新橋・土橋」にあるビルで、父親(私の祖父)と一緒に暮らしながら「勤労動員」に通っていた。
「東京大空襲」の夜、空襲警報の「サイレンの音」が、鳴りやまず、いつもと違うことに気が付き、様子を見に、母は外に出た。
この晩、母が見つめていた、「不気味な感じで真っ赤になっていた空」の下で、父の家族は、空襲から必死で逃げていた。
母の住んでいた「浜松町」は、東京で一番最初に「空襲」の被害を受けた地域だった。
その後も、何度か「空襲」を受けている。
しかし、殆ど「死者」は出なかった。
母の話によると、B29から落とされるのは「焼夷弾」であって、所謂「爆弾」とは違うから、爆発はしない。「出火」はするけれど、「消火」したり、「火」から逃げられれば、どうにか「命」は助かる、という事らしい。
だから、もし「浜松町」に落とされたのが、「焼夷弾」ではなく「爆弾」だったら、もっと死者が出ていたというのが、母の分析だ。
でも、多くの人達が亡くなった「東京大空襲」だって、
落とされたのは「焼夷弾」だったでしょ?
と母に尋ねると、
だから、
つまり、落とされた「焼夷弾」の「数」が、
如何に「多かったか」って、いうことよ~
と答えた。
それまでに「東京」が受けていた「空襲」とは、全く違う、だから「大空襲」なんだ。
とんでもない数の「焼夷弾」が、あの日、墨田川の周辺に落とされたという事なんだ~
私は、改めて、その「酷さ」を認識した。
父は、あまり「空襲」について詳細を、語らなかったけれど
「あの日は、いつもと全然違った…」とだけは、言っていた。
アメリカが、意図的に、壊滅させるために、しかも「民間人」に対して攻撃をしたという事を、これまで「父の体験」と重ね合わせながら、私は思い巡らしていたけれど、母の話を聞いて、新たな視点で、その「酷さ」を思った。
どんなに「国際法」を照らし合わせて分析したところで、「史実」として、起こった事を変換することは出来ない。
母は、むかしの話を、いつも「あっけらかん」と、懐かしそうに話すけれど…
母の「戦争体験記」からは、「歴史」として残されている「記録」からは分からない、当時の「悲惨さ」「惨めさ」が、そこにいた人達の「生活」と一緒に伝わってくる。
私の中に、「両親の戦争体験」を、出来るだけ「落とし込む」ことは、自分のためでもあり、次の世代に向けて、「何か」を繋ぐ事だと思っている。
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