母の「ノート」が素晴らしくて、捨てられない話
母は、週3で行っているデーサービスで、何故か「折り紙の先生」と呼ばれている。そこで配られる「お菓子を入れるための箱」を、裏紙で折る作業を手伝っているから、らしい~
他の方も一緒に折るけれど、何回か教えても途中で分からなくなったり、なかなか覚えられず、みんなが、母にやり方を「教えて~」と、聞いてくるらしいのだ。
母は、間違いなく「器用」だ。
数年前、実家を片付けた時、母の古い「製作ノート」が3冊、書棚から出てきた。「折り紙の先生」の「原点」ともいえる、この古い「製作ノート」は、母が戦後通った「都立高等保母学院」の学生だった時に母が作ったのものだ。
このノートが素晴らしくて、私は捨てられない。
今でも、保管している。
母が卒業した「東京都立高等保母学院」とは~
1948年「保母養成施設」として東京都によって設置された「高等保母学院」という学校があった。母は、この学校を「首席」で卒業した。(ホントです。) ※保母とは、保育士のこと
母は、学校が江東区から港区に移転した後、通っていた。
「高樹町にあったのよ~」と母は言っている。
「高樹町」とは、現在「首都高の入り口」の名前として残っているだけで、地図からは消えた「地名」だ。(今だと、港区広尾のあたりかな~)
当時、学生たちが弾く、あまり「素晴しくないピアノ演奏」の音がうるさいと、近所から「苦情が出た」ことを母が、よく話している。
絵本「ぐりとぐら」シリーズの作家、中川李枝子さんも、この学校の卒業生だ。
当時、この学校で「リトミック」を担当されていたのが「窓際のトットちゃん」で知られる「ともえ小学校の校長先生」をされていた、小林宗作先生だった。
空襲で学校がなくなってしまった後、小林先生が「都立高等保母学院」で教鞭をとられたことを、黒柳徹子さんは「トットちゃん」の中でも書かれていた。
母は「リトミック」を、小林先生から教授された。
小林先生がピアノを弾くと「すごい音がするのよ~」と、母がよく話している。
卒業後、母は2年間ぐらい仕事をしただけで、体調を崩し退職した。しかし、同級生の方の中には、生涯、独身を貫き保育に携わり「園長」をされていた方や、「発達障害」の子どものための団体を立ち上げた方々もいる。
最近では「ADHD」とか「多動症」とか、耳にする機会が増えたけれど、まだそんなことが日本において周知されていない頃だった。「発達協会」というNPOを作り、その設立運営には、同級生の方たちが協力し、初期を支えている。
現在は引退されている、石井葉さんは母の同級生で「発達協会」の立ち上げに尽力した人だ。
母は何度か「一緒にやらないか」と活動にに誘われることがあったようだけれど「長男の嫁」だった母は、直接的に関わる事は出来なかった。
だから「会員」という形で、ずーっと支えていた。
「母の製作ノート」のこと
「製作ノート」に話を戻すと…
本体は、かなりボロボロで、汚れてもいる。
でも、さすが「首席」だっただけのことはあって、3冊全部が素晴らしくて、見ていて楽しい。
今見ると、「昭和時代の感性」を感じる。
当時、先生から「ノートを貸して」と言われたことがあったと、母が話していた。わかる気がするわ~。
写真だとサイズ感が伝わらないけれど、かなり細かい作業で、作られている。1ページが、A4サイズぐらいだ。
私自身も「幼児教育学科」の学生だった時「図画工作」とか「絵画」という授業があった。「手作りおもちゃの制作」とかも、授業でやった。しかし、保育を学ぶ者が必ずしも「手の巧緻性」に優れているわけではない。
このノートを見て、つくづく母は、「作ることが好きな人」なんだ~と思う。
このノートを、どうしよう~。
母が亡くなったら「お棺」に一緒に入れたほうがイイかな~
いや!とっておくべきだろうか~??
母の「刺繍展」をやるときに、一緒に展示したら・・・変かなあ~。
インスタには、載せてもイイかも~
いろんな事を考えてしまう、私なのだ。
よろしければサポートお願いします! 頂いたサポートは、「刺繍図書館」と「浪江・子どもプロジェクト」の運営に使わせて頂きます! サポート頂けたら、大変助かります。