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わたしはなぜ 藤井 武 を取り上げるのか?

藤井武の信仰の真髄 それは、彼が詠んだ、 という信仰が、藤井武の信仰の真髄だとわたしが捉えているからである。  これは、イエスがゴルゴタの十字架の上から「エリ、エリ、レマ、サバクタニ!(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか!)」(『マタイ』27の46,、『マルコ』15の34)と神に向かって叫ばれた、あの「キリストの信仰」そのものだからである。  神に捨てられた「無」のどん底において、なおも神により頼む信仰が、イエス・キリストの信仰である。これをもたらした

    • 藤井 武 と 無教会

      教会論1人ひとりの個人と教会との関係(教会論1) 「教会は神の奥義である」と藤井武は述べる(岩波版『藤井武全集』第5巻、p.493)。だとすれば、教会をどのように理解し、それを構築していくかが、藤井武の思想と行動の中心でなければならないだろう。  また藤井は「教会論」における「新シオン主義」のなかで、「自分の思想は新シオン主義であり、それは〈無教会主義+来世〉だ」と述べている。だが、この場合の無教会主義とは、既成の宗教組織や教会堂を否定はしても、キリストの半身としての教会を

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