藤井 武 と 無教会
教会論
1人ひとりの個人と教会との関係(教会論1)
「教会は神の奥義である」と藤井武は述べる(岩波版『藤井武全集』第5巻、p.493)。だとすれば、教会をどのように理解し、それを構築していくかが、藤井武の思想と行動の中心でなければならないだろう。
また藤井は「教会論」における「新シオン主義」のなかで、「自分の思想は新シオン主義であり、それは〈無教会主義+来世〉だ」と述べている。だが、この場合の無教会主義とは、既成の宗教組織や教会堂を否定はしても、キリストの半身としての教会を否定するものではない。また、来世は単なる人間の死後の世界のことではなく、この世の教会が完全な「神の国」に変容した「新たな世界」のことである。
さて、今回の「教会論」は、岩波版『藤井武全集』第5巻のなかの教会論を取り上げ、「神の奥義としての教会」の意味を探ってみたい。
教会は神の経綸の奥義だという。経綸は、神の宇宙創造とその本質としての生命の維持をいう。神の宇宙創造の奥義が教会なのである。それは、それ自体で単一の人格者であり、キリストの新婦、その半身であるという。
つまりキリストとの結婚、キリストと合一するのは教会であり、各個、一人ひとりではない。各個人個人は、教会に連なる一つひとつの肢体(したい:手、足などの体の1部分)なのである。われわれ一人ひとりは、教会に連なってキリストと結合するのであり、教会につながらずには神と合一できない。
そして、藤井は『キリスト教の個人主義、人類主義、宇宙主義』の中で、「教会は、霊によって結ばれた全人類の有機的生活の典型である」と述べる。そして、第3項目「万物の帰一」の中で、全宇宙の目的について語る;
また、たたみ込むように以下の核心を述べる;
万物の中心はキリストであり、宇宙の謎を解く鍵はキリスト。そして教会はキリストの新婦、伴侶であるという。語られていることは単純だが、それを本当に理解し、それを生きるためには、生の探求者のキリスト体験と、キリストによる人間対人間の絶対的結婚を実現する必要がある。人間の絶対的結婚については藤井は別項で詳述しているので、ここでは深入りしない。項を改めて追求していきたい。
ここでは、万物の中心キリストと、その結婚相手である教会と個人との関係を把握するようにしたいと思う。
藤井はいう、「教会と個々人とは別個の観念に属する。教会はキリスト者の団体ではない。教会は新婦そのものである」(原文のままではない)と。すなわち教会は1人格であって、キリストの花嫁であり、個々人の集合体ではないということである。しかも、教会は個人の救いのための手段ではなく、かえって個人の救いこそ教会の救いのための準備なのだと指摘する。
これは非常に重要な指摘である。個人はミクロコスモスだが、マクロコスモスではない。個人はマクロコスモスのために存在し、生きるのであると指摘している。そして、教会はミクロコスモスではなく、マクロコスモスの半身なのだという。
さらに、藤井の言葉を引用してみよう;
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